あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

天皇と靑年將校のあいだ 2 天皇制の至純を踏み蹂ったのは天皇自身であった

2017年02月11日 19時35分17秒 | 天皇と青年将校のあいだ


天皇と靑年將校のあいだ (2)

然し、天皇が真の主役であるもっと重大な理由は他にある。
二・二六事件は、蹶起部隊を叛乱軍とし、青年将校を叛徒とすることで鎮定をみた。
そして、軍事裁判に付された青年将校達は、
行動事実に関してはほぼ起訴状どおりに承認しながら、異口同音の述べたのは、
自分達は叛徒でないという抗弁であった。
彼等がそう主張する根拠はおもに三点ある。
一つは、
二十六日午後三時三十分、蹶起部隊に対してだされた  大臣告示 」 である。
この第一項には 「 蹶起の趣旨に就いては天聴に達せられあり 」 とあり、
第二項には 「 諸氏の行動は国体顕現の至情に基くものと認む 」 とある。
これらの文章は、
どうみても蹶起部隊の行動が陸軍大臣の名において承認されたとしか読めない。
特に 「 天聴に達せられあり 」 の字句は青年将校等に 万歳を叫ばせた。
彼等は愈々昭和維新が成就するであろうことを喜びあった。
亦事実、 「 維新大詔 」 が 渙発されるという噂が流れ、
中にはその草案を見た者もいたのである。  (・・・リンク→ 維新大詔 「 もうここまで来ているのだから 」   )
二つは、
二十六日から二十七日にかけて、
東京警備司令部および戒厳司令部からだされた一連の告諭・命令によると、
歩一聯隊長、歩三聯隊長は蹶起部隊をあわせ指揮して治安維持に任ぜよ、
というのである。
蹶起部隊そのものが治安維持にあたるのだから、
当然それは賊軍ではなく官軍となる道理である。
(・・・リンク→命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」  )
ところが、後になって鎮圧当局は、これらはいずれも真の意図からでたものではなく、
鎮定の為の方便だった、と 強弁するのである。
やがて徹底的敗北に陥ったことを知った青年将校の一人 栗原中尉は、
「 当時陸軍大臣告示のごとき、亦戒厳司令官軍令のごとき、
あきらかに吾々の行動を助勢せられたるものであります。
しかるに今となって、
戒厳司令官の命令や告示その他の行動を以て吾々を鎮撫する手段であったなどと
申しておりますことは、欺瞞も甚だしきところであります 」
と 憤懣をぶちまけている。
さらに三は、
二十八日午前五時八分に出された奉勅命令に関するものである。
奉勅命令というのは天皇が直接下す命令のことである。
叛乱軍に原隊に帰れ、という天皇の命令である。
もし叛乱軍が二十六日以来の現状を変えずに頑張れば、
そのままでなにもしないでも勅命に抗した逆賊になるという命令である。
然し、実は青年将校達は下達されたはずのこの奉勅命令を見てはいないのである。
たとえば 安藤大尉は獄中手記で 奉勅命令ハ伝達サレアラズ と 記している。
奉勅命令が下達されていないからには勅命に反したことにはならず、
「 決して天皇に抗した覚えはない 」 ということになる。  (・・・リンク→ 「 奉勅命令ハ伝達サレアラズ 」   )

以上三点のように不可解なことが、なぜ起こったのか。
事件に対して陸軍当局が如何に動揺していたかの表れである。
蹶起行動自体は、二十六日の午前五時から ほぼ三十分くらいのうちに 已に終っている。
あとの四日間は、
結局 陸軍上層部における蹶起支持派と強硬鎮定派の対立抗争の時間である。
そしてこの対立は、
陸軍部内の、所謂 皇道派と統制派の派閥対立に繋がるものであった。
 蹶起趣意書
青年将校達は事件の 「 蹶起趣意書 」 のなかで、
国体破壊の元凶として、元老・重臣・官僚・政党とならんで軍閥をあげている。
ここで謂う軍閥とは、所謂幕僚ファッショである統制派勢力のことである。
結果としては、蹶起軍は叛乱軍とされ、
事件後統制派は皇道派を締め出して陸軍部内の一大主流となることに成功する。
陸軍部内の勢力分布の観点に立てば、二・二六事件は皇道派青年将校の統制派への挑戦と、
その敗北だったということになる。
処刑されてゆく青年将校はじめ、その同調者達は、
彼等を敗北に追い込んだ統制派の策謀に万斛の恨みを抱く。
青年将校達の天皇帰一の至純な運動も、統制派によって穢けがされ 歪められ、ついに葬られた、
というわけである。
本来なら天皇に届くはずの彼等の忠誠心もファッショ的軍閥によって遮られてしまった、
というわけである。
然し、果してそうだったのか。
青年将校達の意図を踏みにじったのは、果して統制派だったのか。
実は、どの勢力よりも断固として青年将校を許さない大権力があったのである。
他でもなく、それは、天皇自身であった。