本庄日記
帝都大不祥事件
第二 三月一日以後 事件善後ニ關スル諸件
其三、新内閣ノ成立ト其經緯
三月二日午後四時、
元老西園寺公入京參内、
新内閣ノ首相ニ關スル御下問ニ奉答シ、爾後宮中 ( 宮内省 ) ニ宿泊ス。
四日、西園寺公ノ奉答ニ基ヅキ、
近衛公爵ハ新首相タルノ大命ヲ拝セシガ、種々考慮ノ後、之ヲ拝辭セリ。
此事ニ關シ、
陛下ハ、繁ニ對シ、
近衛ノ首相拝辭ハ色々噂アル由ナルモ、全ク胸部疾患ノ為爲ニシテ、
實ハ内大臣タラシメントセシモ、之ヲモ病気ノ故ヲ以テ固辭シタル位ナリ、
ト 仰セラレタリ。
然ルニ、近衛公爵ハ其後、眤懇いこんナル某大將ニ對シ、
自分ノ首相ヲ拝辭シタルハ、健康ノ事、固ヨリ大ナル理由ナルモ、
一ニハ 元老ガ案外時局ヲ認識シアラザルコト、
又一ニハ、陸海軍兩相ノ地位ガ、現下最モ重要ナルニ拘ラズ、
現在其人ヲ見出シ得ザルコトガ、重大原因ナリト語レリト。
近衛公ノ此話ハ、多少ノ潤色アリトスルモ、事實タルニハ相違ナキ理由アリ。
從テ、元老及側近者ハ、眞相ヲ、天聽ニ達シアラザルモノト謂ハザルヲ得ズ、
誠ニ遺憾ナリ。
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五日、午後三時過、西園寺公參内、
近衛公拝辭ノ爲メ、新内閣首相トシテ、改メテ広田弘毅ヲ適任者トシテ奉答ス。
広田弘毅氏、同午後三時四十分御召シ參内シ、大命ヲ奉持シテ退下ス。
首相ノ決定ニ伴ヒ、湯淺宮相 内大臣ニ、松平恒雄氏宮相ニ決定シ、
六日 親任式ヲ擧行アラセラレタリ。
広田弘毅氏、大命ヲ拝シタル後、其組閣ノ行悩ヲ伝ヘラレシガ、
七日朝、天機奉伺ノ砌みぎリ、武官長ニ對シ、
陛下ハ、
広田組閣ノ行悩ミハ、財界ニ機微ナル反響ヲ与ヘアリ
ト 仰セラレタリ。
同午前十一時、
湯淺内大臣御召シノ後チ、更ニ、武官長ヲ召サレ、
陸軍ノ眞意ハ、広田内閣ヲ絶對排斥セントスルモノナリヤ、否ヤヲ取調ベヨ、
トノ 仰セアリ。
午後、中島武官ヲ陸軍省ニ派シ、内聽セシメタル結果、
陸軍トシテハ、組閣ニ對シテハ軍ノ要望ヲ述ブルノミニシテ、
斷ジテ、広田個人ヲ非難スルモノニアラザル旨ヲ奉答ス。
八日朝モ、
組閣ニ對スル軍部ノ要求ノ苛酷ナルニアラズヤ、
トノ御懸念アラセラルル様拝セシガ、
九日、午前九時半 御召アリ、
陸軍ハ、政、民 兩政党ヨリノ入閣ハ、各一名トスベシトノ要求ニテ、
広田ハ、最早組閣ヲ斷念スル外ナシト、爲セル由ナルガ如何ナルヤ、
トノ御言葉アリ。
武官長ノ御召シニ先ダチ、湯淺内大臣ヨリ政情ヲ申上ゲタルニ由リ、
特ニ御軫念アラセラレタルガ如シ。
此朝、豫メ 杉山參謀次長ニ確メ置キシ結果、一時 右様ノ主張、部内ニ昻マリシモ、
寺内大將ノ主張ニテ、兩政党ヨリ各二名ヲ入閣セシムル當初ノ意見ヲ、
俄カニ變更スル能ハズトテ、豫定ノ通リ、陸軍部内ヲ纒メ得タリシ旨、
承知シアリシヲ以テ、組閣ハ最早、頓挫スルコトナカルベキ旨奉答セシ処、
夫レナラバ、誠ニ結構ナリ、
一木樞相及湯淺内府等心配シアルユヘ、早速其由を知ラシメヨ、
トノ仰セニテ、御安心ノ様子ナリキ。
斯クテ、
此日 九日 午後七時半、
広田首相ハ漸ク、閣員名簿ヲ捧呈シ、
同九時半、
新内閣員ノ親任式ヲ擧行アラセラレ、
引續キ、對満事務局総裁、及大角海軍大將ノ軍事參議官親任式ヲ實施アラセラレタリ。
新内閣、漸ク成立セシニ依リ、
此夜始メテ側近者一同、宮中ヲ辭シ歸宅セリ。