あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

天皇と靑年將校のあいだ 6 大御心は大御心に非ず

2017年02月03日 19時24分15秒 | 天皇と青年将校のあいだ


天皇と靑年將校のあいだ (6)

天皇は二重の性格を持っている。
二・二六事件は、
青年将校にとって、その神聖天皇の面を引出し、拡大し、絶対化する運動であった。
が、二・二六事件は、
天皇にとっては、機関説的天皇制を守るために自らが異例な権力行使を試みた出来事であった。
二・二六事件は、
天皇の持っている二重性が、それぞれ極限まで発動され、
そのために 正面衝突せざるを得なかった事件である。
日本近代史の中で、これくらい天皇という存在の性格が裸形となったことはない。
二・二六事件は、
天皇が天皇に叛乱した事件でもあり、
天皇が天皇に出会った事件でもあり、
天皇が天皇を守りきった事件でもある。

獄に捕えられてからの青年将校が、終始一貫、繰返したのは、
自分達は 「 大命に抗した逆賊でない 」 ということである。
彼等の天皇信仰からすれば、天皇のために蹶起した行動が、天皇の為に敗北し、
天皇によって逆賊という烙印をおされる事態が、如何にしても承服し難いものであった。
彼等は逆賊という烙印の前で、それを突き破ってゆく方途を持っていなかった。
獄中の彼等は、自分達の天皇絶対の信仰と、逆賊者であるみずからの立場の矛盾に苦悩した。
それは彼等の悲劇であると同時に、
実は天皇という存在の性格そのものの矛盾が内に持っている悲劇である。
近代日本国家の矛盾した悲劇である。
青年将校達には、これを突き破る力はなかった。
祈りと口惜しさと、矛盾と悲劇と、これ等いっさいを彼等は
結局 「 天皇陛下万歳 」 という絶叫に託して処刑されて行く他はなかった。
この矛盾の突破口があるとすれば、
彼等は、彼等の考える天皇の大御心と一致するまで、
君側の奸を討ち続け、いまある天皇制度を破壊し尽くすか、
もっと踏み込んで謂うなら、
天皇の存在そのものにまで迫る外なかったはずである。
然し、そうするには、彼等はあまりにも、天皇に対する純粋な信仰者であった。
彼等の天皇信仰は、そういう政治的パワーを必要とする 當にその極限で、
非政治的な道徳性に縛られる。
そして、天皇制政治の最高権力者である天皇にとっては、
彼等のこの種の道徳は、なんの興味も惹かないものであった。

北一輝は、軍隊勢力を中心とする改造プランを構想したが、
青年将校達の意識が以上のような限界を持つものである以上、
革命中核体としては、
極めて脆弱なものであることも知らねばならなかったろう。
北はたぶん、それを十分に知っていたのであろう。
「 調書 」 の中で、
「 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、
百年の年月を待っても理想を実現することはできません。
この点は、革命を社会革命となしてきた諸外国とは全然相違するので、
この点は私の最も重大視している処であります 」
と云っている言葉は、
天皇の軍隊を用いる軍事革命の限界をいいあかしている 。
「 全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終ニ天皇大権ノ発動ヲ要請シ、
天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ 」
と 書いた北であるが、
この
「 天皇大権ノ発動ノ要請 」 も、
「 大御心が必要なしと御認めになれば、百年の年月を待っても 」
どうしてみようもない、となれば、
彼の改造プランも一挙に空洞化したものとならざるを得ない。
北一輝自身は、「 調書 」 の中で、
「 ただ私は、日本は結局
改造方案の根本原則を実現するに至るものであることを確信して、
如何なる失望落胆の時も、この確信を以て今日まで生きてきておりました 」
とも述べているが、
実は北自身、自己のプランの現実性をどれほど信じ込んでいたろうか。
彼自身の 『 改造方案 』 への 「 確信 」 というのは、
現実上の政治プランとしての確信ではなく、
自分で編みだした宗教的救済観への帰依のことだったかも知れない。
彼は憲兵隊の聴取で、
「 現在其方の思想体系は 『 日本改造方案大綱を 』 書いた当時と大差なきや 」 
と 問われたのに対して
「 根本に於ては相違ありませんが、逐次浄化しようと思っております 」
と答えている。
「 浄化 」 とは一体何を意味するのであろう。
おそらく、機関説的性格を持つ改造方案の天皇観から、
逐次その性格を払拭しようと思っている、
と いう意味を含んでいよう。
然し、そうすれば
「 天皇大権ノ発動ヲ要請スル 」 ことの上に築かれた彼のプランも、
大御心如何では一片の空文と化すことにもなろう。
つまり、『 改造方案 』 の現実性は遠ざからざるを得ない。
そこまで思い至れば 「 浄化 」 という言葉は、
もはや現実性に絶望を持たざるを得なかった彼が、
『 改造方案 』 に
天上的宗教世界を託そうとしていることの表現だったのではないか。
銃殺刑にあたって、
彼が 「 天皇陛下万歳を叫ぶことはよしましょう 」
と いったというエピソードは有名である。
天皇が存在する限り、亦 その天皇の 「 大御心 」 が認めない限りは、
彼の 『 改造方案 』 は 何等の現実性を持ち得ないものである以上、
そして現に、
二・二六事件に於て、
天皇の 「 大御心 」 が 改造を必要なしと判断した のであったからには、
天皇は 『 改造方案 』 に対する最も強力な扼殺者やくさつしゃだったことになろう。
北は 「 天皇陛下万歳 」 を 叫びはしなかったし、
亦 叫んではならなかった筈である。
こういう北の諦観風な態度とは別に、
天皇のもつ二重性格の矛盾をなんとか突き抜けようとした者もあった。
それが磯部浅一である。
獄中の彼は書き続ける、
「 今の私は怒髪天をつくの怒に燃えています。
私は今、陛下をお叱り申上げるところまで、精神が高まりました。
だから朝から晩まで、陛下をお叱り申しております。
天皇陛下、なんという御失政でありますか、なんというザマです、
皇祖皇宗におあやまりなされませ 」  と。
さらに磯部はこうまで言うのである、
「 朕は事情を全く知らぬと仰せられてはなりません、
仮にも十五名の将校を銃殺するのです
・・・・菱海 ( 磯部が自分でつけた法合 ) は再び、

陛下側近の賊をうつまでであります、
今度こそは宮中に忍び込んででも、
陛下の大御前ででも、
きっと側近の奸を討ちとります。

恐らく、陛下は、
陛下の御前を血に染めるほどのことをせねば、
お気付き遊ばさぬのでありましょう、

悲しいことではありますが、
陛下のため、皇祖皇宗のため仕方ありません、
菱海必ずやりますぞ。

悪漢どもの上奏したことをそのままうけ入れ遊ばして、
忠義の赤子を銃殺なされましたところの陛下は、

不明であられるということをまぬかれません 」  と。

このような文書を書き残した事件関係者は、磯部浅一の外、誰一人いない。
安藤大尉は、その遺書に 「 万斛の恨み 」と記しているが、
それが大多数の処刑青年将校の最期の心境であった。
それにくらべて、磯部の文書は極めて特色のあるものである。
然し、これだけ激しい言葉で天皇を難詰するに至った磯部ではあるが、
彼の難じているのは、
君側の奸にあやまたされて聖明を曇らせている天皇の不明に対してである。
なんぞはからん、
天皇は、君側の誰よりも早く、誰よりも強く、
そして天皇みずからの発意として、

青年将校を暴徒と呼び、
早く討てと命じ、
彼等が自殺するなら勝手にしたらいい、

と 言い放ったのである

青年将校達は、天皇の名により叛徒とされ処刑された。

然し、彼等はそれが天皇の真の判断ではなく、
君側の奸によって曇らされた天皇の形式的判断だと思って死んでいった。
だからこそ、
死にあたってもなお、彼等は 「 天皇陛下万歳 」 」 を 叫ぶことができた。

戦後に公にされたいくつかの文書は
甚だ特殊で異例な天皇の強烈の意志を明るみにだした。

青年将校達は、それと知らないで死んでいった。
若しそれを知っていたら、
彼等は絶望という言葉ではとても事足りないほどの
徹底的な絶望を味わねばならなかったことになる。