あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

戰雲を麾く 5 「 靑年亞細亞同盟 」

2017年03月22日 04時03分29秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


再び戦ひの都二年
長白の峰、豆満の流れ---げにそは我が日本國の西北境である。
大陸日本領の西北端である。
そが程近き羅南に騎兵第廿七聯隊の士官候補生としての六ケ月は刻々に過ぎて行く。
然も、眼のあたり鮮人を見、支那人を見、東の空遠く祖國に思ひ馳するとき、
心弦の怪しく妙なる旋律は自らに瞼を霑うるおさしめた。

日本---朝鮮---亜細亜。
道義---革命。
魂の戰ひ---悲壯なりしそが思ひ出と更に惨憺たるべきそが將來。
走馬燈のそれの如く、日々夜々に思ひは過去現在未來を巡り巡りて止まなかつた。
唯々吾れ知らず 手をあげて掬し得る双眼の熱き涙の幾滴。
この六カ月の間、幾度雄々しき涙に余が咽びしことぞ。
然もそは長白の麓、豆満の岸なることが至大の影響ありしを否み得ぬ。

宮本は
「 士官校本科入學の上は愈々同志を糾合して將來を誓ふことが至上の要事である 」
と 筆送した。
平壌の福永も結束を促した。
乃ち余は同志結束の檄を認めて各地に郵送した。
然してその意見を聞くの遑いとまなく、
九月十七日黄昏の波を乱して、上京の纜ともづなを解いて清津湾を去つた。

大正九年十月一日---そは余が再び戰の都に五尺の體軀を現はして、
市ヶ谷臺上の人となりし日である。
余が祈りは再び充し得なかつた。
---淳宮は余と同中隊なりしも區隊を隣りにした。
在京の日、殊には宮と処を同じうする日は、
げに今より一年十ヶ月の短きに過ぎずと思ふにつけても、
せかるるものは宮への接近であつた。
そは余が宿年の心願であるからである。
幸なるかな、宮本は殿下區隊に籍を置いた。
余亦 外國語授業に際しては
佛蘭西語第一班の一人として他の五名と共に殿下と教室を同じうし、
且つ余は座席を宮の右隣に占むるの光榮をもち得た。
余が宮本に宮への接近を務むべく説いたことは論を俟たぬ。

或日、余は同志の友の参集を求めて、午後人なき第一教室に協議を開いた。
非常時に非常の道を選むべきことを告げ、
日本改造、亜細亜復興を心願とする者は
國家内外の現状是くの如く 拾収すべからざる混亂に陥り
國家存亡の内崩外壓に今日の如き非常重大の機を迎へしことに於て、
愈々結束して具體的運動に進むべきを論じた。
「 各人が相當の地位に上れば自然に行れ得るを以て、今急に焦ることない 」
と 云ふ漸進論は三四の友かれ吐かれた。
急進派の先鋒宮本 福永は、その不可なるを叫んだ。
二時間は過ぎた。
漸急二派の論爭は涯ない。
余は玆に於て言うた。
「 議是くの如くなるとき吾等の選むべき道は二ない。
状況判斷によりて各自の道を選む進むべきのみだ。
等しく國家への奉公と雖も、思想は當然運動であるが故に、各人信ずるものを採らう。
固より情況を重大視する。
此機に於て一と先解散し、改めて同行の友と手を繋ぐことにする。」
かくして、一同は解散した。
余は同行の友 宮本、三好、平野、片山の諸君と新たに結束を誓ひ、
愈々壯烈なる魂の戰ひに上ることになつた。
士官學校前の時計屋の二階を休日の集會場と定めて、向上の魂に鞭うつた。
彼の臺上の道義戰に歩を俱にした旧區隊の諸友も、時々参集しては執臂交語した。
其頃、宮本の斡旋で
清朝の遺族粛親王の第二十三子 憲原王 及 巴布札布將軍の遺呱こく濃珠札布、
干珠札布三君と相識ることを得た。
川島浪速氏監督の下に、三君は数年來朝修学中であつた。
川島氏の好意により 氏の知己たる村井修氏の宅に於て 余は平野 宮本 二君と共に三君と會見した。
川島氏は保養のため、当時信州に籠居して居た。
それは巣鴨新田に霜どくる或る朝だつた。
村井氏の好意で一同 昼餐を共にして別れた。
村井氏は余等にボールリシヤール氏の 「 告日本國 」 を 一部宛寄贈して、
川島氏の言づけなることを附言した。
其一部は後日淳宮殿下に秘献した。
其後三君は大道社に起居するようになつて、余等は屡々會談した。
然して同君等と起居を同じうする中央大學生神崎正義君と相識つた。

印度獨立の志士ラスビハリーボース氏との交遊も其れと前後して始まつた。
そは先覺たる帝大教授か鹿子木員信氏の紹介によるものである。
或る土曜の夜、速達郵便を以て氏は、ボース氏を紹介の勞をとるから明日來宅せよと傳へられた。
余は宮本 福永と共に小石川に鹿子木氏を訪うた。
ボース氏は若い印度青年某氏と共に已に來つて、余等を待つて居た。
鹿子木氏、氏が妻君たる獨逸生れの婦人、それに余等五名は種々交語した。
そして、皆一様に白人の横暴 殊に英國の不法を紛糾し、亜細亜団結を誓うた。
ボース氏は紫唇を開いて印度の實情を説き、日本の無自覺を慨き、
遂には氏の危難---入京當時英大使館と警視廳とに追跡せられたるとき、
鹿子木氏 及 頭山翁に救はれしことなど語つた。
「 印度に來て下さい。 」
かく言つた氏の面上には、至眞の誠意があふれて居た。
その後余等は屡々新宿に氏を誘うては語り合うた。

又、士官校には支那留學生が四十名程來て居た。
余は宮本と共に彼等を説いた。
彼等の中に最も語り得べきものは騎兵科の張寿朷であつた。
余等は彼を中に立てて、數名の支那學生と道縁を結んだ。
彼等の日曜下宿は余等のそれと近きにあつたので、余等は頻繁に交通した。
---學校當局から睨まれて憤慨したのも此頃であつた。
機愈々熟し、人定まれり。
大正十年九月、
余は宮本と共に 黒竜會の長崎武氏を訪うて、心事を語り、
同志團結に方りて頭山翁等の援助を得たいと告げた。
氏は即座に同意した。
頭山翁 内田良平氏等も快諾したそうだ。
   
 頭山満翁          内田良平
余は潜思一週の後、宣言規約を綴り、「 青年亜細亜同盟 」を 標榜して結束を計つた。
宮本は檄を豫科に回送して同志數名を得た。
柴、松下、田邊、大庭 等の諸君が之れである。
爾來時々会合しては心魂の修練に努め、先覺を招待してはそが有益なる講演に傾倒した。
特別大演習参加のために、種々なる障碍を受けた余等は、
大正十年も押つまる十二月中旬、牛込の某寺院に集合して第一會を開いた。
長崎氏は長瀬鳳輔氏を伴ひ來つて、二氏講演した。
余は此日、平木 工藤 二君を同期生に得た。

十二月二十四日午後五時三十分、余は休暇のため東京駅を立つた。
車中、余は胸痛を覺へ、帰郷中殆ど枕に親しんだ。
一月十日、余は胸膜炎のために激動を禁止されたが、
翌日よりの寒稽古に病と稱へて出場者少なかりしを概き、病を押して竹刀を把つた。
腕は多少の覺えがある。
余は師範代として十日間を道場に立ち盡した。
胸膜は次第に堪へ難くなるのみであつたが、「 何糞 」 の 元気を押通して居た。
一月の會合は、山王台日吉亭の一室で開いた。
水野梅暁氏 長瀬鳳輔氏 長崎武氏の三氏は吾等のために熱弁を揮つた。
其日臺上は普選斷行の民衆大会で、喊声をあげて居た。

二十二日の夜、余は俄然高熱を發して病床の人となつてしまつた。
二十八日、余は入院した。
豫期はして居たものの、病狀余りに重きに驚いた。
下旬より三月上旬にかけて、余が魂は生死の間に彷徨した。
唯々焦心悶々として仰臥ぎょうがの病軀を悲しましめた。
三月、豫科同志の送別を兼ねし会合は余のみ別にして開かれた。
ボース氏 憲原王も出席し、満川氏は 「 東亜三國の同志一堂に会す 」 と 叫んで、
眞個歴史的場面なることを論じ、深甚なる天の恩籠を謝したといふ。
心身を痛めしむること、げに病の如くなるはない。
然も魂を鍛へしむること又病の如くなるもない。
余は死生の巷に彷徨して、始めて從來抱き來れる胸裡の信仰に徹底するを得た。
三月十七日、
二重橋頭に爆煙と共に悲壯の直諫を鮮血に染めて敢行せし藤田留次郎氏の死を聞きしとき、
余は已に病床に半ば體を起し得る狀態に復つて居た。
げに皇天の恩籠、余は再び現世に留まり得たのである。
然して、其の報を病床に得ると共に余は過去を追想した。
 
 安田善次郎    朝日平吾
・・・リンク→超国家主義 『吾人は人間であると共に、真正の日本人たるを臨む』

十年十月、朝日平吾氏が奸富誅戮の斬奸狀を懐にして安田善次郎を刺殺し、
壯烈なる自刃を遂げたことを思ひ巡らして、余は病床に或る微笑さへ禁じ得なんだ。
 
・・・リンク→
国士・中岡艮一
---中岡艮一が原首相を東京駅頭に刺殺した當時、
自習室の黒板に誰が書いたか
「 吉良首相 東京駅頭に暗殺さる 犯人中岡艮一 十九歳 」
と ありしを、
犯人の二字を刺客に改書して
多數の友と論爭し
「 苟いやしくも一國の首相を刺殺せんとする動機は、
彼が社會主義者や反國家思想者でない限り 國家を思ふこと深甚なる國士的勇者に外ならぬ。
其の刺殺を決心したる心事は げに悲壯の極みである。
況や 原首相は一國政治の重任に当りて 無理想の白紙主義を表明したる日和見的才子であり
華盛頓會議に國威を失墜せし人であり、政友會の首領として所謂黨弊の責任者である。
犯人とは苟も 國士を遇する道でない。」
と 叫んで、
狂人の如く思ひなされし半歳以前のことを思ひ浮べつゝ。
然して暗殺の二字よりして、曾つて宮中重大事件の時、
一切を長崎氏から聴取したる同人が校内に集合して執るべき道を協議せし際、
福永が余に短刀を示して
「 夜陰校を抜けて小田原に潜行し大奸山県を刺さん 」
と 憤叫して止まざりしに、慰撫苦心せし一年前のことを思ひ浮べつゝ。
---冬は逝く。

窓外早くも春光悠々、病窓を透して庭前の桜花に思ひを寄せた。
夜は夜とて、朧なる月を花間に仰いでは自ら遣る瀬なき心を慰めた。
そして気分よき暇々には筆を執つて 「 病間録 」 に思ひを綴り初めた。
日々病床を訪づるる知人の書、
休日枕頭に立つ友、それらによりて余は深甚なる友情を感謝すると共に、
「 屈すべからざる 」 精神の鼓舞激励を享けた。
然も當時最も余を激励せしものは、入院と共に余に与へたる父の一書であつた。
---「 信仰に活きよ。病魔忽たちまち退かん。」
の 單なる數行が如何に余を導き去りしか。

支那學生の一團とは至極の志願決意に於て大なる逕こみち庭ありしを發見し、宮本 先づ憤つた。
余も然か考へたので、此年一月以來交渉を絶つて居た。
さり乍ら 私交に於て余は依然と異なることなかつたので、張などよく余を病床に訪うて呉れた。
奉直の衝突---支那再び亂雲に閉され初めし或る日、
張は余に 「 如何すべきか 」 と 問ひしことあつた。
早咲きの桜が窓前に翻々たる午後の病室に、余は半身を起して言うた。
「 君等望める道を進まれよ。
さり乍ら余 今君等の境に身を置かば、余は即時海を越えて故國の戰雲に投ぜん。
君等今果して支那の何れによりて留学の客になつて居らるゝか。
・・・・支那は必ず武斷的統一を要す。
成吉斯汁の出現を希はざるを得ず。
自ら其人たる能はずんば其英雄を助くべし。
紛爭長きに亙りて決せず、現に見る如く、列強の魔心其間に支那を窺うかがはば、
四百余州遂に滅亡の日を迎ふるであらう。」
非常の論を吐いて余は彼が心魂に烈しき鞭を与へたのだ。
そして別れた。

次頁  戦雲を麾く 6 「 是れこそげに天下第一の書なり 」 に 続く


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