あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

平野助九郎 發・ 川島義之 宛

2016年11月09日 17時32分57秒 | 其の他

川島義之  宛
昭和10年10月12日

謹啓
事ある秋 日本國の靈力發動して國體を無欠に擁護し無窮に傳へたるは古來史實の證する処に御座候。
而して明治以來浸潤累積せる機關説的思想の徒輩に依り我國體は危からむとするに方り、
遂に日本國體の靈力は發動し 之等機關説思想の 「 まつろはぬものどもを討ち平ぐ 」 べき聖戰の前哨戰は開始せられ、
而かも此聖戰たるや必勝を疑ふ可くも無之候。
今や 上聖上を輔翼し奉り 下萬民に大義の重きを知らしむべき忠臣良弼の正に出づべき時到りしことを御自覺確信せられ、
御維新聖業の翼賛に向て捨身の御奮進切に奉折候。
戰機は既に熟す。
他を顧るの要なし。
唯閣下の突進を祈るのみ。
第二、第三陣は必ず續き、戰果を擴張可致候。
右 西陲の一隅に靜思直感のまゝ衷心より奉懇願候。
乍末筆閣下の御健康を奉祈候。
頓首再拝
十月十二日    平野助九郎
川島陸軍大臣 閣下

〔 註 〕  巻紙墨書、封筒表 「 川島義之陸軍大臣閣下 」
 裏 「 豊予要塞司令部平野助九郎 」


平野助九郎 發 ・ 森傳 宛

2016年11月09日 07時03分53秒 | 其の他

森伝 宛
昭和10年10月12日

拝啓  益々御活躍の御事ならむと奉慶賀候。
九州の片隅にも秋は音づれ、殊に臨海谷間の官舎の獨居には明月一しほ靜寂を覺え申候。
大演習前にて何かと引張り出されて落着き讀書の暇も多からず、
中央の様子は時折りの通信の外、主として新聞に依り推察判斷罷在候。
大演習の際は色々の方々に拝眉出來るかと存居候得共、
尚ほ年末年始は休暇上京致度、其際は拝眉御指導仰げることゝ楽み居候。
川島閣下御就任以來 漸次機關説思想の省内幕僚の更迭も行はれ頼もしく存居候。
唯十一月廿日事件の陰謀組の馘首は出來ざるものかと西海にて實狀に通ぜざるまゝに念じ居候。
又 機關説問題に就ても鞏硬に御進み被下候段感謝罷在候。
此上共々閣下の國體に關する御理解と信念とを益々堅くせられ、
一路邁進せらるゝ様 御輔佐 呉々も奉祈候。
第六師管に於ても國體明徴問題は仲々旺にて、
小生の如きも來る廿日 大分市 及 大分郡兩軍人聯合分會の大會に國體公演をと せがまれ、
若し師團長 及 都崎少將來らざる場合は是非なしと引受け申候次第に御坐候。
大分市は後藤内相の生地、その他県下は政爭も激敷所なれば述べる事も愼重に致す心得に御坐候。
早稲田には別紙の如き一石を投じ候得共、まひせる教職員聯にはさしたる反響もなきかと存居候。
別紙印刷物少き爲 學生の多くに撒布出來ざりしは残念に存居候。
早大日本主義學會の學生聯は幾分動くかと存居候。
川島將軍始め在京將軍方には反て御迷惑相懸け候事を恐れて愚翰差上ぐる事差控へ居候。
別封御一覧の上 川島閣下に差上度願上候。
擱筆せんとして東の窓を開ければ、八月十五夜の明月、
港の彼方早吸女神社の山のはを登り、
隈なく照らすを見れば凡夫の焦慮恥かしき感致しそうです。
御令室始め表の方各位にも宜敷願上候。
横浜の留守宅何かと御世話に相成り居候事と存候。
何卒宜敷願上候。  敬具
十月十二日    平野助九郎
森傳様
尊台下

〔 註 〕 巻紙墨書。
 封筒表 「 東京市淀橋区諏訪町一四八  森傳様  親展  書留 」
裏 「 大分県佐賀ノ関町陸軍官舎  平野助九郎  十二日夜 」