日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

ジャン・コクトーのたどる道 3 (40歳~60歳)

2009-02-09 | Jean Cocteau

Cocteau30 ジャン・コクトーは阿片解毒治療のため入院した療養所で、コクトーの作品の中でも名作となった
「恐るべき子供たち」を17日間で書き上げた。1929年のことである。
そして、かねてから関心のあった映画に着手し、ストーリーのないイメージフイルム「詩人の血」を発表。

その後「人間の声」を開演するも「パラード」に続き、又しても上演を妨害される。
しかしこの作品は今日にいたるまでコクトーの戯曲の中でも最も多く上演される作品となった。
「地獄の機械」の創作の頃、コクトーの身辺は交友のあった女性達の複雑な行き違いがあり
心に傷を負いながらも創作は続けられ、1936年、80日間の旅行に出発し、途中日本にも立ち寄っている。

1937年、戯曲「オイディプス王」を上演するためにオーディションを開催し、23歳のジャン・マレーと出会う。Cocteau48
ギリシャの神話的な美を何ひとつ欠けることなく備えていると言わしめた美貌の青年マレーとの友愛は、コクトーが没するまで続いてゆくことになる。
その後、マレーのために「恐るべき親たち」を上演。この作品によってマレーは高い評価を得る。

1939年、第二次世界大戦が始まる中で 「ルノーとアルミード」を書き、
又コクトーが敬愛するニーチェの著作から名づけた「悲恋」の原作「永劫回帰」で大成功をおさめた。

この頃、フランスはナチス占領下にあったがコクトーは廃墟と化してゆくパリを見つめつつ
自己の芸術を最高の位置へと昇華させるかのように、手から生まれた言葉によって詩人の魂を具現化していった。
この占領下でコクトーは一人の天才を発見する。
数奇な運命をたどったジャン・ジュネである。
盗癖のあるジュネが裁判にかけられた際、証人として出頭し、無罪となったジュネの才能を開花させる。

1944年パリ解放。
そして、後にコクトーの養子となるエドゥアール・デルミとの出会いは1947年の秋であった。
孤独の中にいたコクトーは、控えめな22歳の青年に父になりたかった自分を投影し、
映画にも出演させることとなる。

その後、「美女と野獣」「双頭の鷲」と名作を生み出し、1948年にはガリマール社から詩集「レオーヌ」をはじめ、
数冊の詩集を出版した後、12月末アメリカへ向けて出発し、
翌1949年1月13,14日の両日で帰国の飛行機の中にて「アメリカ人への手紙」を執筆した。

きら星のごとく作品を生み出しながらも、健康の問題、プライベート、混乱の時代背景とが要素となって、作品を発表するたびに何らかの障害に妨げられ
多忙と困難を極めた時代でもあった。
緊張をはらんだ軽業師コクトーは内面的危機に陥り、
自分自身が存在することの困難に立ち向かわざるを得ない苦境に直面していた。

参考文献
「評伝ジャン・コクトー」 秋山和夫/訳 (筑摩書房)
「ジャン・コクトー 幻視の美学」 高橋洋一 (平凡社)
季刊詩誌「無限」 特集ジャン・コクトー (政治公論社)