堀江敏幸さん、『ゼラニウム』

 先日読んだ「河岸忘日抄」がとても好きだったので、短篇集も読んでみた。 端整な装丁をまとった静かな佇まいの一冊、ざらりとした紙質も素敵。

 そも、初めて読んだ堀江さんの作品が『彼女のいる背表紙』という本にまつわるエッセイ集だったので、この作家さんのエッセイと小説との分け方の淡やかさのようなものは、「河岸忘日抄」を読んでいる時点で感じることがあった。 ああ、これは全く同じ人の話なのではないかしらん…、という感覚。 本の話題がふんだんに盛り込まれていたので、尚更。 さて、短篇集ではどうなのでしょう…。

『ゼラニウム』、堀江敏幸を読みました。

 あ、そっか。 女と水に、古い映画や小説の内容が絡んでくるという趣向の短篇集だったのですね。 とても好みな短篇集でした。 

  淡々とした喪失感がひたひたと押し寄せてくるような「薔薇のある墓地」は、フランスのアルクィユで“私”が目にした水道橋の描写から始まる。 そして語り手は水道橋のことを、まず、“なんと不思議な建造物だろう”と感じさらに、“胎内に水が流れていることはわかっていながら、本当の水面は知らずにいる橋”と思ってしまう。 そしてこの印象が、本当はお互いにもっと通い合わせられる何かがあったのかもしれない一人の女性への、追想へと連なっていく。 強く抱きしめたら儚く雲散してしまいそうなもの哀しさが、最後の場面を縁取っている。

 「さくらんぼのある家」は、日本における“桜”と異国での“さくらんぼの木”が、かなり似ていても非なるものなのかな…?でも、どこかでその本質は通じ合うのでは…?と、とりとめもなく思いめぐらせたくなってしまう一篇であった。 恋人がいても常に《友達》が必要な、ファムファタル。 水槽のオブジェ作りにのめり込んでいく男。 そこはかとない狂気に、いつしか“私”も…。  
 日本の有名な文学作品が使われていて、その箇所も忘れがたい。

 で、一番好きだったのは表題作の「ゼラニウム」。 ペーソスあふれるユーモアって、こういう作品を指して言うのかしらん…? そしてこの短さで、盛り上がりと着地の見事さと言ったら…! 
 ことの発端は、“私”が朝刊を買って戻ってみたら、部屋の前が水びたしになっていたこと。 はて、この水はいったいどこから…?ということで、なかなかスムーズにことが運ばないものの、何とかかんとか配管工を呼ぶことが出来たのであったが…。 配管工の名前や一家心中のむにゃむにゃ…にも大いに笑ったけれど、やっぱり何と言ってもマダム! いやはやー、ぎりぎりまでにやにやしていたのに、ラストは凍りついた(固まった、と言うか)。 なるほど、これもまた女と水の話である。 


 『彼女のいる背表紙』の中に、今手元にあるわけではないので正確に引用は出来ないけれど、ある人から「あなたは引きこもりがちな人が好きなのですね」と言われたことがあるという話があった。 「そう言われてみれば…」と思い当たることがあった、というような内容だった。 私はその件が、何故かとても印象的だったのである。 この短編集に出てくる五人の“私”の人となりも、やや引きこもりがちで受け身担当なのかも知れないけれど、私もそういう人が割かし好きである。
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