丸山健二さん、『水の家族』

 旧「本を読む人々。」の読書会コミュが終了してしまった後、mixiにて新しく読書会が始まりました。で、この作品が記念すべき一冊目の課題本でした。

 『水の家族』、丸山健二を読みました。
 

 大きな大きな、それはそれは大きな宙に浮かぶ輪っかのようなものを思い浮かべて、それが二つ。めぐり続ける水の循環と、終わることのないこの世の命の循環。交叉し重なり互いを響かせ合う、気が遠くなりそうに大きな大きな二つの輪っか。…そんなイメージに浸りながら読んでいた。

 水は、生きとし生けるもの全ての命の源となり、いつか果てる命を受け入れる縁のない器ともなる。ここに描かれている草葉町という場所は、まるで完璧な水の円環の内に閉じ込められた町だ。忘れじ川の清い水は三連の大水車によって、永遠に汲み上げられ続けるだろう。同じ場所で回り続ける大水車が象徴するのは、一見どこにも辿りつけない営みの、真の豊穣さ…なのだろうか。    

 物語は、大都会でぼろぼろにされて郷里へ舞い戻った、“私”の一人称によって語られる。歓迎されるはずもないわが家を思う“私”は、廃屋に隠れ住みながら、青いノートに草葉町の水のことを書き連ねようとしていた…。だが皮肉なことに、気が付いたときには己は死者となっており、そのことによってようやく、気になる家族の元をおとなうことが叶ったのだった。誰にも覚られず。
 “私”がかつて何をして、家を出ることとなったのか。それについては、読み始めれば凡そのところはすぐに分かる。“私”が犯した罪は人として最悪で、自分を深く恥じ入り、二度と家に戻れないと思い決めているのも無理はない。そんな“私”が死して尚、魂となって青葉町の辺りにとどまっていられるのは何故なのか…? 死を司る存在(ここでは、海亀?)がどこかから見ていて、彼に、その魂を清める為の猶予期間を与えているかのようにも思われた。 

 たとえ二度と戻れなくても、“わが家”と呼べる場所はここにしかない。 
 “私”の眼を通して描かれる家族一人一人の姿は、情けないものだったり愚かしいものだったり、現状から逃げていたり誤魔化していたり。けれどもたぶん、実はごくごく普通な人たちだ。人に優れて強くもないが、さりとて心が弱過ぎるわけでもない。各々のやり方で日々をやり過ごし、身の丈以上のものを望まない知恵を、いつしか身につけただけの人たちだ。でも、生きていく上での本当のしぶとさを持っているのも、そんな彼らなのかも知れない。たとえ猾狡でも格好悪くても打算まみれでも我にかえったら虚しくても、肝心なのは生きることだから。 
 特にそう、“私”の妹八重子の、底なしな頑丈さと言ったらどうだ。罪も過去も何も背負わない八重子の生き抜く力は、その逞しさは、詩を書こうと志し挫折した“私”をあるまじき行為へ走らせた心弱さと、あまりにも対照的である。
 そして後半の八重子の歌と踊りは、清濁を水車でかき混ぜて、やがて何もかもを清い流れに変えていく、そんな忘れじ川に寄り添う生命賛歌だ…と、私は思った。

 時折やや唐突にあらわれる、“私”が隠れ住んだ庵の地下深くにうずくまり、鶴の雛を抱いている古代人の少年のイメージが、ひどく気になりつつ好きだった。だから、三千年前の少年と鶴の雛が、草葉町の命の循環の端っこに繋がった一文も、忘れがたい。
 なだれ込むようにラストの一文にぶつかり、とうとう涙がこぼれ落ちた。

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