清水博子さん、『ぐずべり』

 私の中にいる概念としての少女は、この世の何物ともむすぼれ合っていない存在である。いつから思い定めたものか。 
 学校とも社会とも友達とも…何物とも、結ぼれ合わない少女は、権高と無邪気、驕慢と内気のはざまで、いつも心許なく宙ぶらりんだ。その危い風情抜きでは、少女を語れない…。そんなことをつらつら考えながら。

 『ぐずべり』、清水博子を読みました。
 

 「亜寒帯」と「ぐずべり」の2篇が収められている。
 「亜熱帯」で描かれる少女藍田は、中学1年生である。随分と寒い地域に住んでいるらしく、彼女の日直当番の1日は、石炭確保の責任と義務がずしりと覆いかぶさってくるようで、読んでいるだけで息苦しくなったほど。それなのに、肝心の本人はそれらを、うわの空の独特な淡さで坦々と受け流している。どこか変わった女の子である。
 自分がそんな年頃だった日々を思い起こせば、教室にいる時間とは、女の子同士の付き合いに戦々恐々としつつ、微妙な距離を保って綱渡りのように己を守らなければならなかった…という苦い記憶ばかりだ。その点、藍田にはあまり…というか全く、そんな心労は見受けられない。にも関わらず、元少女の端くれとしてとちゃんと彼女にシンパシーを抱けることを、とても面白く感じた。  
 周囲への奇妙な無頓着さ、とりとめもない考えごとに耽る癖、上手く物事を繋ぎ合わせられないまま、所在なくただそこにいるみたいなアンバランスさ…。身に覚えがないとは言えない。

 次の「ぐずべり」には、大人になった藍田がAAとして出てくる。そして、結局エキセントリックなまま大人になったAAのことを見つめるのが、中学生の姪の理子である。 
 その理子が、自分の母親・菜子のことについて、“もしもいまおかあさんが同級生だったとしてもぜったいにともだちになってない” “亜子ちゃんがおかあさんだったらよかったのに” …などと父親に文句を言った件では、ただただ苦笑いがこぼれた。それを聞いた菜子が、その言葉を左程深刻には受け取っていないようだったので、胸を撫で下ろしたけれど。母親は常に、娘の批判の矢面に立たされているものでしょうね…。一番身近な同性でもあるし、ううむ。
 これまた掴みどころのない作品で、面白かった。藍田が昔書いた読書感想文のタイトルが、「理解できない『金閣寺』」とか、思わずにやにや笑ってしまった。ふっと不意打ちでお下品になるのも、清水さんらしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )