退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「偏りのある夏」について

2011-07-19 04:21:30 | Weblog
youtube。

アーウィン・ショー「夏服を着た女たち」を初めて読んだ時の
何とも言えない爽快感は忘れない。

「夏服」つながりで「爽快」路線を行くなら
大貫妙子「夏に恋する女たち

季節は夏なので今なら暑さのみが強調されやすいけれど
かつては「風鈴」や「打ち水」のような「優雅」があったということ。

ふと日陰に入ったときの涼しさ。
それをいつまでも感じられる身体は保っていたいもの。

その一方で三ツ矢サイダーとともに「汗の爽快」を求めるなら
大瀧詠一「君は天然色」。

「天然色」というのはモノクロだった映画に初めて色が付いた時の言葉。
松田聖子「瞳はダイアモンド」の中で「映画色」と言ったのは松本隆。

ここで「夏服」に戻れば同じく松田聖子「夏服のイヴ」。
作曲・日野晧正のトランペットも楽しめる。

さらにジプシー・キングス「ジョビ・ジョバ」。
夏に「ラテン」を加えると季節ゆえの「情熱」があらわになる。

太陽が燃え上がるように恋も燃え上がるという設定。
実に単純な「アナロジー=相似」はシンプルゆえの「強度」もなくはなく。

ただし「情熱」は長続きしないのが基本。
寺尾聰「ハバナ・エクスプレス」あたりに落ち着く。

研ナオコ「夏をあきらめて」。
舞台はキューバからいきなり湘南へ。

「めくるめく夜」はかように。
とりあえず「和風」が基本だけれど。
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「よきマキャベリストであること」について

2011-07-19 02:53:34 | Weblog
くもり。雨もちょいと。

ヴァン・ジョーンズ「グリーン・ニューディール」を読む。

飯田哲也とも共通する部分は不毛な「敵対関係」を築かないこと。
むしろ「同じ目標」を持つに至るコミュニケーションをとることが大切らしい。

アメリカにおいて環境問題はどこか「セレブのするもの」だというイメージがあった模様。
元々「救済」を手がけていた著者は「社会的弱者」に仕事を与える形での「環境政策」を提言・実行して。

各地での成功例も描きつつ
とはいえそれらが「容易に得られるものではないこと」もきちんと書いている。

要は何かを「否定すること」だけに終わるのではなく
何かを「獲得すること」こそ重要なのだと。

「現場」を十分に知った上でのこの「したたかさ」はなかなか。
いたずらに「宗教」を貶めないという視点にもうなずけるところが多い。

まだまだ絞りきれていない「知恵」というものがあると仮定して
あとは「アイデア競争」のようになれば「現実」はいともたやすく変わることにもなるのだ。

さて。

わが国の総理大臣は「脱原発」を方向性として打ち出した。
党も官僚もその「勢い」を止められない。

ここに来て総理の「異様な頑固さ」がたとえそれが権力維持のためであろうと
「効を奏する」可能性が出てきたことに注意しておこう。

その前にひとつの「問題」をクリアしておく必要がありそうなので書いておく。

「お前には言われたくない」というのは「一時の感情」に過ぎず
彼もしくは彼女の発言が指針として「好ましいもの」であればそれを「利用」しない手はない。

たとえば官僚に「取り込まれた」経産大臣の海江田、財務大臣の野田といった手合いの発言は
ちょっと見には「意味ありげ」だけれどその「実」はない。

そもそも「方向性」を打ち出した発言に対して
「具体案がない」という批判はおかしい。

さらに言えば「それを考えて実現するのが大臣の仕事だろうが」という「当然」はどこへ行ったのか。
総理に従えないなら辞職すればいいだけのことだし。

「よき政策の実行」には「政治家の資質」などどうでもいいこと。
その程度の「当然」が理解できないのだとしたらわれわれはまだまだ「子ども」である。

大事なのは「結果」というシンプル。
スポーツにおける素晴らしいプレイに「人格」など関係ない「事実」を確認しておきたいもの。
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「あれこれ」について

2011-07-18 02:43:10 | Weblog
晴れ。普通に暑い。

一昨日は何だか寝てしまい
昨日は久方ぶりにソウルバーへ行って帰宅後やはり寝てしまう。

タクシーの運転手さんが言うには
「毎日3時間は休憩を取る必要があり60キロ以上の速度を出してはいけない」らしい。

詳細は不明だけれど「国の命令」だとのこと。
それが本当ならいかにも現場を知らない「杓子定規ぶり」。

レスター・ブラウン「エコ・エコノミー時代の地球を語る」を読む。

8年前の本なのでデータはちょいと古いものの
「砂漠化」「水不足」「気候変動」「人口増加」「アフリカのエイズ」などについて。

「市場」には以下の「三つの基本的な問題点がある」という。

1.例えばガソリン価格には生産コスト以外の間接的コスト(例.呼吸器疾患の治療費)が含まれていない。
2.自然の多面的機能(養分の循環・水の浄化など)を正しく評価できない。
3.自然生態系(漁場・森林・放牧地・地下水など)の維持可能収量の限界を配慮しない。

2と3はうなずけるものの個人的には1に関連してタバコが取り上げられているのがやや不満。
「喫煙関連疾患を治療するための医療コスト」と「欠勤による労働生産性の低下のコスト」があるのだと。

人には「不健康あるいは『怠惰』に暮らす自由」があると思うので
そのあたりについては反論しておきたい(もちろん喫煙マナーは守った上でのこと)。

深夜にゴルフの全英オープンを観る。

今年は北アイルランドのダレン・クラークが優勝。
他のスポーツでは見ることの出来ない「20年目の挑戦」での結果にほのぼのする。

「男やもめ=夫人を亡くした男性」でふたりの息子を持つ1968年生まれの42歳。
5年前に亡くなった夫人の死因である乳がんの基金なども作ったとのこと。

フィル・ミケルソンやダスティン・ジョンソンが「ごく自然に」調子を崩したあたり
いかにもアイリッシュな「物語の力」を感じたりする。

気分はほとんどジョン・フォードの映画を見終わった後のようで
「束の間の幸福」をちょいとだけ味わう。
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「ダメということ」について

2011-07-15 02:47:52 | Weblog
晴れ。野暮用があれこれ。

いかりや長介「だめだこりゃ」を今頃読む。

十年前の本で本人は七年前に他界。
ある時期のバンドマンの「暮らしぶり」がよくわかる内容。

出版の前年にドリフターズのメンバーだった荒井注が亡くなっていて
脱退後の彼はたしか天知茂とドラマで共演していた記憶がある。

「四流のミュージシャン、四流のコメディアン、四流のテレビ・タレント」という自己認識の下
「何様の分際で『自伝』か」と思う昭和六年(1931年)生まれの著者のスタンスが好ましい。

文章の淡白さもすがすがしく
彼の描く父親の姿も今となっては懐かしいキャラクター。

「バンス・イン・長ベエ」というある章のタイトルが
「幡随院長兵衛」にかけてあることなどもはやわかりにくいのだろう。

「カースケ=カンカンに怒る」という言葉なども
いかにも「土地柄」と「時代」を感じさせる。

あらためて生まれる時代を間違えた「悪寒」を確認する。
それはそれで仕方のないことだけれど。

若い人々には映画「踊る大捜査線」のベテラン刑事役が馴染み深いのか。
著者の生まれた年を考えると映画の中の「敬礼」には「重み」を感じずにはいられない。

それにしても「ピアノの弾けないピアニスト」荒井注はそういう人だったのか。
「そういう人に わたしもなりたい」、とか。

「家庭の事情」で実家に戻ることになりそう。
たぶんこれは「寿命を縮めること」になりそう。

相変わらずの「甲斐性の無さ」は健在。
ダメねぇ。
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「セカイ系のようなこと」について

2011-07-14 03:19:14 | Weblog
晴れ。乾いた暑さ。

「原発社会からの離脱」をちょいと読み返しつつ
「原子力ムラ」ならぬ「日本ムラ」を思う。

「ムラ」の特徴は何かと言えばいたずらに「空気を読むこと」。
「暗黙のルール」の前に「合理性」は通用しない。

その「ルールを破る者」として「まともな人」は排除される。
むしろ「風変わりな人=ストレンジャー」としてあらためて評価されることもあるけれど。

誰にでも「豊かになりたい気持ち」はある。
ただしその「豊かさの中身」が問題で。

たとえば「いい家」とか「いい車」とか「いい男」とか「いい女」とか。
「他人の欲望に基づく評価」でしか「物事」を受け止められない「貧しさ」よ。

四方を海で囲まれているのはイギリスも同じことなのに
わが国独特の「磁場」があらゆるものを狂わせて。

否応無く進行中である「動物化」を考えると
事態はさらに「ヒドイこと」に。

基本はあくまで「貨幣の多寡に関わらず誰もが穏やかに暮らせること」のはず。
その「当然」が何故か求められない「事実」。

個人的な「未来予測」はどうにも暗くなるしかなく
適当に「寿命」が来てくれればと思うのみ。

とはいえ「楽しいご縁」にありつけないのは
自らの「不徳の致すところ」か。

とにかく自分の「貧しさ」を他人のせいにするのはよろしくない。
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さらなる「思い付き」について

2011-07-13 02:52:38 | Weblog
くもり。案外暑くない。

本切れで柄谷行人「終焉をめぐって」を再読。

ハイエク「隷従への道」の「泥沼」のようなあいまいさに比べると
まるでサイダーのようにスッキリする。

読者に「何事かを考えたような気分」にさせる文体がたどる「論理」は
相当「アクロバティック」だったりするのだけれど。

それでもその「魅力」はいまだに感じられるのだから
むしろその「サーカスぶり」に反応してしまうのだろう。

「文学」といえば「小説」を思い浮かべがちなものの
実はこうした「批評」こそがある時期以降は「文学」だったり。

以前小林信彦と蓮實重彦の対談を望むというようなことを書いたこともあったが
そこにさらに著者を加えたらもっと楽しそう。

東浩紀、佐々木敦の参加も望ましく
橋本治や内田樹などを加えたら。

解説と司会には宮台真司と神保哲生の「マル激コンビ」を是非。
福田和也と大塚英志、宮崎哲哉を配して。

そして男性ばかりではつまらないので
上野千鶴子と金井美恵子、小倉千加子や小沢遼子、室井佑月、「重鎮」として田辺聖子も。

ほとんど話がまとまらないような雰囲気は重々想定できるけれど
いろんな「花火」が上がって楽しそう。

おそらくはあまりに「贅沢」すぎてほぼ「不可能」な「配役」。
このうちの一部でもせめて目にすることが出来れば「望外の幸せ」だということでよろしく。
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「依存」について

2011-07-12 03:01:05 | Weblog
晴れ。今日も暑い。

「徹子の部屋」でレディー・ガガを観たせいで読書の時間がなくなる。
タバコを数本吸ってボーッとしてから仕事へ。。

深夜にまた「Lie to me」を観る。

地デジには断固として移行しないので
このドラマを観られるのもおそらく来週まで。

TVを観ない生活は学生時代にすでに経験済みなのでどうということはない。
同じ番組を観ることが「共通の話題」としてもはや機能しているのかどうか。

かつて確かにそういう「時代」はあった。
そして確かにそういう「時代」が終わろうとしている。

さて。

過去において「こうしていれば」もしくは「ああしていなかったら」という「視点」をもたらすのが
「仮定法過去完了」という「時制」。

それはおそらく「現在」から振り返ってみるという「条件」によって成立していて
いわゆる「可能世界」を「身近なもの」にする「文法」。

ただしこの「文法」は「現在の視点」をいたずらに「正当化」するだけで
人々に「未来」を見失わせるという「効果」を持ちやすいので注意。

本来「未知としての未来」は常に新鮮であるはずで
いわゆる「永遠に続く日常」などという方が実は「フィクション」だったりする。

「奇跡」というのはいかにも「宗教的」ではあるけれど
繰り返すがそれはあくまで「現在」を前提とした言い回しにすぎず。

「常に現在を生きること」が実はとんでもない「未来」を見出す「準備」にもなるはず。
要は「処理能力」に限りのある自分にだけ頼らないこと。

「論理」とはこうして「世界」を開くためにあるものだから
「風が吹けば桶屋がもうかる」というのは決して「戯言」ではなかったりする。

「世界のわからなさ」に対してわれわれの「無力さ」が明らかになることは
むしろ「生来の当然」だと知ろう。

だからこそわずかに「法則らしきもの」を見つけた人々を褒め称え
それに依存しようとする「性向」があるので気を付けたいところ。

女子を「たくましいもの」だと見なす男子の傾向は
「自分のささやかな論理=ルール」を超えて「そうなんだもの」と「肯定する力」にあるように思えるが如何。
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「リアルに対応すること=知性」について

2011-07-11 03:10:41 | Weblog
晴れ。暑いアツイ。

仕事でちょいと早出して
間があいたので新刊を買ってコメダへ。

宮台真司・飯田哲也「原発社会からの離脱」を読む。

「合理的なこと」がそのまま通用しないのがわが国の「普通」らしい。
「神が見ている」といったような厳しい「宗教的な地盤」がないと「倫理」はズブズブになるのだと。

そうした「圧倒的な前提」がないと
人はきちんとふるまえないということらしい。

飯田哲也が幼少時に「一家離散」に近い経験をしていて
「貧乏」を知っているというのが興味深い。

おそらく「底」を見たことがあると
あとは「いかに浮き上がるか」という視点が定まりやすいのだろう。

もちろん「父親に庇護された上での貧乏」という「余裕」があったからで
それがないとたぶん「金の亡者」になったりする危険もある。

「原子力ムラ」をある種の「高み」から批判することに終始した高木仁三郎に対して
「友敵関係」にこだわらず「一致」を目指す形のコミュニケーションをとるスタンスはそこに始まるはず。

要は「リアル」をどう捉えるのかということ。
「具体的な努力」のないところからは何も始まらない。

わが国において「宗教」が力を持たないのだとするなら
「底」と接触のあった「頭のいい人」がその「代替物」になるのか。

少なくともいたずらな「豊かさ」に惑わされない人を
「実力の発揮できる地位」に迎えて「国難」を乗り越えたいもの。

そして「スポーツ」における「ルール」が文字通り「ルール」として機能して
その上で「競争すること」が「自然」なのだという「前提」くらいは維持したい。

ひとつの「モデル」が「突破口」になりやがて「自然」にもなるのだから
「従来の前提もしくは不可能だという判断」に重きを置き過ぎる「悪弊」には気をつけたい。

本書の裏に実は
「全共闘世代」に対する「しょっぺー=使えない」という判断があることも忘れずに。
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「気分次第で責めないで」ということについて

2011-07-10 02:50:25 | Weblog
晴れ。気分が乗らない。

「隷従への道」はどうも内容が頭に入ってこない。
翻訳のせいにもしたいところだけれど自分の今の状態がたぶん一番の原因。

とりあえずこの映像を。
無意味に偉そうなだけのこの人物は笑える。

「脅しの連続」たるや。
「ヤクザ」に向いているので「本業」を変えなさい。

おそらく彼には「いいところ」もあるのだろう。
とはいえメディアの前で平気であんな風にふるまえてしまうなら「政治家」としては失格。

情報源はマル激のNコメ。
その一方で福島の一部はチェルノブイリを超えたという話も。

文部科学省が放射線量を「日本独自の単位」でネットに公開し
「チェルノブイリとの比較」を素人には出来なくしているという「工作」があるらしい。

「既得権益」を維持したい気持ちの「強さ」をあらためて感じる。
ただただ「貧しい」限り。

「貧乏人は麦を食え」と
敢えて昔の首相の「暴言」をぶつけておこう。

当時とは違って
今ならむしろ健康にもいいはずだし。

ただし気をつけておきたいことは
もし自分がその地位にいたらそうなっているかもしれないこと。

いつもの台詞を出しておこう。
「色男でもないくせに 金と力はなかりけり」。

そうした「偶然」にまずは感謝しておくべきか。
あとはうまい具合に「寿命」が来てくれれば文句なし。

あれこれと「めんどくさい季節」にいるようでついつい。
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たまには「考える」ということについて

2011-07-09 02:38:44 | Weblog
晴れ。さすがに夜も暑い。

フリードリヒ・A・ハイエク「隷従への道」を途中まで読む。

「社会主義」という名前の「計画化」が破綻するのは必然。
なぜならどんな優秀な人間も「神のごとく」すべてを考慮することは出来ないから。

むしろそれは「ファシズム」や「ナチズム」や「スターリニズム」を用意することになり
実に「危険な考え方」だという。

ただし同じ「計画化」でも「各個人の知識と創意に最大の余地を与える」ものはよく
「すべての活動を中央が指導し組織化する」のはよろしくないらしい。

あくまで「理想」としての「社会主義」を否定したものではないことにも注意。
「誰もが安楽に暮らせる社会」を「理想」とすることにそもそも反対者などいるわけもなく。

現代で言えば「上意下達」の中央集権システムより「地方分権」をということにでもなるのか。
「地域独占」で「電源三法」によって守られている電力会社などいらないことはよくわかる。

いずれにせよ明確なことは
「特定の人間たち」が作る「利益」のみが「利益」なのではないということ。

「官僚化」した人間は自分の所属する組織の枠組みでしか物事を捉えられず
その「貧しさ」がどれほど他人にとって「迷惑千万」であるかも考慮しないもしくはできない。

もっともその枠組みの中に「好ましい理想」があれば
本来持っている「処理能力」を十二分に生かせることにもなるけれど。

さて。

「余分な貨幣」を手に入れることが「さまざまな可能性」を手に入れることになるというのは「ウソ」で
むしろ「あらゆるものとの交換可能性」に「いたずらにさまよう」ことになったり。

あるいは「手段」であったはずのそれが
いつのまにか「目的」になっていたり。

その「危険性」に敏感であることと同時に
いつまでたっても「物質的豊かさ」しか求めない「精神の貧しさ」が目立つのはなぜか。

「自由」や「隷従」の意味について
時には考えてみることがあってもいいだろう。
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