退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「依存」について

2011-07-12 03:01:05 | Weblog
晴れ。今日も暑い。

「徹子の部屋」でレディー・ガガを観たせいで読書の時間がなくなる。
タバコを数本吸ってボーッとしてから仕事へ。。

深夜にまた「Lie to me」を観る。

地デジには断固として移行しないので
このドラマを観られるのもおそらく来週まで。

TVを観ない生活は学生時代にすでに経験済みなのでどうということはない。
同じ番組を観ることが「共通の話題」としてもはや機能しているのかどうか。

かつて確かにそういう「時代」はあった。
そして確かにそういう「時代」が終わろうとしている。

さて。

過去において「こうしていれば」もしくは「ああしていなかったら」という「視点」をもたらすのが
「仮定法過去完了」という「時制」。

それはおそらく「現在」から振り返ってみるという「条件」によって成立していて
いわゆる「可能世界」を「身近なもの」にする「文法」。

ただしこの「文法」は「現在の視点」をいたずらに「正当化」するだけで
人々に「未来」を見失わせるという「効果」を持ちやすいので注意。

本来「未知としての未来」は常に新鮮であるはずで
いわゆる「永遠に続く日常」などという方が実は「フィクション」だったりする。

「奇跡」というのはいかにも「宗教的」ではあるけれど
繰り返すがそれはあくまで「現在」を前提とした言い回しにすぎず。

「常に現在を生きること」が実はとんでもない「未来」を見出す「準備」にもなるはず。
要は「処理能力」に限りのある自分にだけ頼らないこと。

「論理」とはこうして「世界」を開くためにあるものだから
「風が吹けば桶屋がもうかる」というのは決して「戯言」ではなかったりする。

「世界のわからなさ」に対してわれわれの「無力さ」が明らかになることは
むしろ「生来の当然」だと知ろう。

だからこそわずかに「法則らしきもの」を見つけた人々を褒め称え
それに依存しようとする「性向」があるので気を付けたいところ。

女子を「たくましいもの」だと見なす男子の傾向は
「自分のささやかな論理=ルール」を超えて「そうなんだもの」と「肯定する力」にあるように思えるが如何。
コメント
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