退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「リアルに対応すること=知性」について

2011-07-11 03:10:41 | Weblog
晴れ。暑いアツイ。

仕事でちょいと早出して
間があいたので新刊を買ってコメダへ。

宮台真司・飯田哲也「原発社会からの離脱」を読む。

「合理的なこと」がそのまま通用しないのがわが国の「普通」らしい。
「神が見ている」といったような厳しい「宗教的な地盤」がないと「倫理」はズブズブになるのだと。

そうした「圧倒的な前提」がないと
人はきちんとふるまえないということらしい。

飯田哲也が幼少時に「一家離散」に近い経験をしていて
「貧乏」を知っているというのが興味深い。

おそらく「底」を見たことがあると
あとは「いかに浮き上がるか」という視点が定まりやすいのだろう。

もちろん「父親に庇護された上での貧乏」という「余裕」があったからで
それがないとたぶん「金の亡者」になったりする危険もある。

「原子力ムラ」をある種の「高み」から批判することに終始した高木仁三郎に対して
「友敵関係」にこだわらず「一致」を目指す形のコミュニケーションをとるスタンスはそこに始まるはず。

要は「リアル」をどう捉えるのかということ。
「具体的な努力」のないところからは何も始まらない。

わが国において「宗教」が力を持たないのだとするなら
「底」と接触のあった「頭のいい人」がその「代替物」になるのか。

少なくともいたずらな「豊かさ」に惑わされない人を
「実力の発揮できる地位」に迎えて「国難」を乗り越えたいもの。

そして「スポーツ」における「ルール」が文字通り「ルール」として機能して
その上で「競争すること」が「自然」なのだという「前提」くらいは維持したい。

ひとつの「モデル」が「突破口」になりやがて「自然」にもなるのだから
「従来の前提もしくは不可能だという判断」に重きを置き過ぎる「悪弊」には気をつけたい。

本書の裏に実は
「全共闘世代」に対する「しょっぺー=使えない」という判断があることも忘れずに。
コメント
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