退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

たまには「考える」ということについて

2011-07-09 02:38:44 | Weblog
晴れ。さすがに夜も暑い。

フリードリヒ・A・ハイエク「隷従への道」を途中まで読む。

「社会主義」という名前の「計画化」が破綻するのは必然。
なぜならどんな優秀な人間も「神のごとく」すべてを考慮することは出来ないから。

むしろそれは「ファシズム」や「ナチズム」や「スターリニズム」を用意することになり
実に「危険な考え方」だという。

ただし同じ「計画化」でも「各個人の知識と創意に最大の余地を与える」ものはよく
「すべての活動を中央が指導し組織化する」のはよろしくないらしい。

あくまで「理想」としての「社会主義」を否定したものではないことにも注意。
「誰もが安楽に暮らせる社会」を「理想」とすることにそもそも反対者などいるわけもなく。

現代で言えば「上意下達」の中央集権システムより「地方分権」をということにでもなるのか。
「地域独占」で「電源三法」によって守られている電力会社などいらないことはよくわかる。

いずれにせよ明確なことは
「特定の人間たち」が作る「利益」のみが「利益」なのではないということ。

「官僚化」した人間は自分の所属する組織の枠組みでしか物事を捉えられず
その「貧しさ」がどれほど他人にとって「迷惑千万」であるかも考慮しないもしくはできない。

もっともその枠組みの中に「好ましい理想」があれば
本来持っている「処理能力」を十二分に生かせることにもなるけれど。

さて。

「余分な貨幣」を手に入れることが「さまざまな可能性」を手に入れることになるというのは「ウソ」で
むしろ「あらゆるものとの交換可能性」に「いたずらにさまよう」ことになったり。

あるいは「手段」であったはずのそれが
いつのまにか「目的」になっていたり。

その「危険性」に敏感であることと同時に
いつまでたっても「物質的豊かさ」しか求めない「精神の貧しさ」が目立つのはなぜか。

「自由」や「隷従」の意味について
時には考えてみることがあってもいいだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする