退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「思い付き」について

2011-07-08 03:36:46 | Weblog
youtube。

椎名林檎が長谷川きよしと歌った「灰色の瞳」。
以前にも採り上げたけれど。

淡谷のり子「ドンニャ・マリキータ」を歌ってはくれないだろうか。
いかにもピッタリな感じがするので是非。

もちろん個人的な「世界」の中でだけの思い付きなので
それがどうこうなるわけではない。

椎名林檎と淡谷のり子を結び付けたいだけ。
ただそれだけのこと。

ワルツを歌っていた記憶もあるので
ちょいと欧風な雰囲気が望ましいかと思って。

めんどくさいあれこれは全部超えて
出来る限りの「伏線」を引いてみたい。

本人がすでに意識しているのならOK。
してなかったらよろしく。

実は「タイマーズ」としての清志郎を巡って
原発関係でふむふむと思っていたのだが。

アマポーラ」なら沢田研二も歌ったことがあるし。
たしか「once upon a time in America」(’84)のセルジオ・レオーネ監督作品に添えた曲だったはず。

ジュリーの「退廃的な声」とは違って
淡谷のり子バージョンはあくまで「爽やか」。

深夜の妄想につき
ご容赦願いたいところ。
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「まっぴらだよぉ」ということについて

2011-07-08 01:58:42 | Weblog
雨。深夜に止む。

忌野清志郎「ロックで独立する方法」を読む。

ストリートでやっている若者たちに対する言葉からもわかるように
本人の「プロ意識」が相当強いことをあらためて確認する。

「プロ意識」をもう少し噛み砕くなら
「人様の前でそんなことやってていいのかよ」ということ。

大してやりたい音楽もなく他人のコピーをするだけなら
「カラオケで好きに歌う」自己満足と変わりないのだと。

そして「音で勝負している」のだから
歌詞やメロディーだけで判断してもしょうがないということなど。

一曲の中でやたらにコードが変わるのは「間が持たないからだろう」という指摘にも納得。
「目先の変化」より「シンプルなグルーヴ」を大切にとか。

ある時期以降「こいつらの音楽はいいから売りたい」という姿勢が消え
「お仕事」としてのマネージメントを「こなす」だけに終わっているというのにもうなずく。

出来上がった「組織」の中で「数字」のみを追い求めると
「業界」を問わず「同じこと」が起きる。

それはまさしく「官僚化」で
「いづこも同じ秋の夕暮れ」だったり。

アルバム「シングル・マン」から「甲州街道はもう秋なのさ」など。
以前にも書いたけれど「まっぴら」という言葉をこれほど見事に音に乗せた曲はない。

「うそばっかり」というリフレインも現在のあれこれにピッタリ。
この「魂」を感じたら「ロックに生きる」よりない。

それは音楽としての「ロック」に限定されるものではなく
このようにして人はついつい「感染する」。

「個性」とは「欠陥」である。
それをどう生かすかはあなた次第。
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何もない日

2011-07-07 03:13:07 | Weblog
くもり。また夜にちょいと降る。

「夕立ち」ならぬ「晩立ち」とでもいうべき現象が頻繁に。
ある種の「熱帯化」だと思えばいいのか。

仕事場に置いてあったビニール傘が役に立ったものの
こんなことがしばらく続くのかと思うとめんどくさい限り。

そういえば休日が木曜になる初めての前夜。
そろそろソウルバーに行かなければならないのだが仕事その他の都合でなかなか。

今年の「季節労働」は今までよりラクになりそう。
「リクエスト」のせいで早起きしなければならない日も少しだけあるけれど。

「お呼び」がかかるだけありがたいことだと解釈しておくことにする。
もちろん最低限の貨幣集めのためにも悪いことではなく。

今日は特に収穫なし。
眠くなったら寝る。
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「生物学的同一性」について

2011-07-06 02:54:31 | Weblog
晴れ。湿気少なく夜に涼しく。

「なぜあの人はあやまちを認めないのか」読了。

誰もが逃れられない「罠」がわれわれの中に「装備」されている。
そうとでも考えておいた方がよさそう。

それほどに「認知的不協和」に耐えられない「体質」を持っているのだと。
出来れば「あやまち」については素直に認めつつ互いに「一歩」でも歩み寄られればいいけれど。

「言うは易し行うは難し」という言葉の「真骨頂」が
ますます身近に感じられてくる次第。

「自己正当化」は自動的に相手を「敵」にしてしまう。
その「危険性」を知っておくことは悪いことではないだろう。

スティング「Russian」はそのあたりのことをかすめて歌っているように思われるのだが。
フルシチョフが「bury=葬る」と言うのもレーガンが「protect=守る」と言うのも「表裏一体」。

「growing feeling of hysteria=増大するヒステリックな感情」については常に気をつけたい。
すでにわが国ではその種のことが「日常」になっている感じもするので。

おそらく大切なのはよくも悪くも「付き合い続けること」か。
ただしその「付き合い」の「中身」が問題なのは当然。

「窮鼠猫を噛む」のことわざ通り
人も追いつめられれば何事かを「仕出かして」しまう。

「売り言葉に買い言葉」がさらに事態をエスカレートさせれば
ときどき見かけなくもない「悲劇」が生まれることもあり。

「出来れば」と繰り返して
そこに「笑い」が含まれていれば少しは「やさしく」なれるかもしれない。

われわれは平等に「ウンコ製造機」である。
そこに「優雅」も「下賎」もない。

ギリシャ語に引っかければ「ξ=クサイ」。
最上の香水にはその「臭い」が必要らしいという「あいまい情報」を敢えてまぶしておく。
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「正当化」について

2011-07-05 02:53:48 | Weblog
くもりときどき晴れ。夜に雨も。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン
「なぜあの人はあやまちを認めないのか」を途中まで再読。

たとえば自分の気に入っている人がこちらから見て「よろしくないこと」をしたときに起きる
「好きとキライ」の気持ちの「矛盾」を「認知的不協和」と呼ぶ。

あるいは自分が「マズイ」と思っていることをしてしまったときも同様。
その度合いが強ければ強いほど「正当化」が行われる。

人はついついそうしてしまう生き物らしい。
傍から見れば「言い訳」にすぎないような「理由」を作り上げることで落ち着く模様。

カッコ付きなはずの「正しさ」からカッコを取ること。
おそらく誰もそこからは逃れられないと思った方がよさそうで。

それは「真摯な反省」でどうにかなるものではない「事実」に注意したいもの。

ここで明らかになるのはやはり「人の単純さ」。
「正しさ」にこだわるのは自分が実は「正しくない」と思っているからという「筋道」はわかりやすいはず。

おそらく「わたしはこう思うのだけれどあなたはどう思うのか」ぐらいが丁度いいのかも。
ただしここでも物事の「白黒」をハッキリさせたがるわれわれの「単純さ」が邪魔をしたりもする。

もちろん否応なく「白黒」を付けなければならないこともあり。
だからこそ「決着」には出来るだけ慎重であるべきだという「基本」はいともたやすく忘れ去られる。

むしろ何事かを「決着」させるより
「新たな視点」を提供する方が面白そうだし。

そもそも「正しさ」が時の流れによって変化するものであることも覚えておきたい。
なぜならわれわれの「不完全さ」は唯一「不変あるいは普遍」であったりするから。
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いろんな「乗り物酔い」について

2011-07-04 02:41:27 | Weblog
くもり。夕方に雨。

日垣隆「現代日本の問題集」を読む。

今から7年前の本なので話題はやや「古い」ものの
わが国ではいつものように「古い話題」が「新しい」ままで。

たとえばいとも簡単に「公約」を反故にした小泉元首相の姿は
現在の民主党にも同様に見られたり。

「第十三章 凶悪犯罪はすべて起訴すべきである」と
「第十四章 心神耗弱を廃止せよ」は年来の著者の持論で全く「正しい」。

覚醒剤やアルコールによる「酩酊」を理由に「心神耗弱」が主張され
むしろ「罪が軽くなる」のはどう考えてもおかしい。

飲酒運転によって人を殺してしまった場合には
その当人から運転免許を奪うべきだという主張ももっとも。

かつて飲酒運転が見逃されていたのは
「少々(?)飲んだくらいでは運転を誤らない」という「暗黙の前提」があったため。

実際それがどうであったのかは不明なので
統計に詳しい方面に教えていただきたいけれど。

現在では「ブレーキとアクセルの踏み間違い」による過失も少なくなく
高齢者や「運転に向かない人」の免許更新についても考える必要がありそう。

郊外や過疎地ではどうしても車に頼らずには生活できない「条件」があったりもするので
「乗り物依存」を脱する形での「街づくり」や「システム」についても同様。

宇沢弘文の古典「自動車の社会的費用」などは忘れられてしまっているのだろう。
同じテーマで現在について考えてみてもよさそうなのだけれど。

自動車会社の「都合」によって「人々の日常」が変わる一方
それらに「依存」することで「平穏な暮らし」を得ている人々も少なくないので難しいのか。

ただしそうした「平穏な暮らし」はある一部のみに保障されているもので
それ以外の比較的「多数の人々」にとって「特定の都合」はむしろ「苦痛」だったり。

どんな生き方を選ぼうとそれぞれがそこそこ「楽しく暮らせる環境」。
憲法にあるはずの「生存権」を思い出してみよう。
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あらためて「ごっこ」について

2011-07-03 03:12:15 | Weblog
くもり。湿気多し。

「郵便的不安たち」読了。

「電力不足」という「フィクション」の中で物事が動いている。
「人々の善意」が「ウソ」によって動員されている。

何の疑いもなく「地デジ移行」をする人々も同様。
アナログテレビには「字幕」を邪魔する「カウントダウン」がこれ見よがしに。

どうせ「ウソをつく」ならもっとスマートにやっていただきたいもの。
そこまで堂々と「馬脚」を表すならいっそ「ウソ」などつくなと言いたくなるほど。

わが国の「バナナリパブリック化」はますます進行中。
「本物の右翼」はどこにいるのか。

どこにも「意志」のない結果
いたずらに「既得権益」を維持しようとする動きだけが突出して。

それでもそれなりに振る舞う必要だけは感じているのか
「ヘタな役者たち」は「ごっこ」を演じ続ける。

「ごっこ」を揶揄するだけではもはや手遅れ。
というよりその「流れ」はもはや止めようがないのだろう。

「騙す方」にも「騙される方」にもウンザリするよりない。
せいぜい好きにするがいいさ。

以前にも引用したけれど「むかうむき(向こうむき)になっているオットセイ」のつもり。

この「圧倒的なバカバカしさ」とは「違う世界」を生きる「意志」だけはある。
ときどき「引っ込め、バカ野郎」と「客席」から叫ぶこともあるかもしれないけれど。

「お前の望みはなんだ?」

映画「CURE」の萩原聖人のように振る舞いたくなる気持ちがなくもない。
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「おなごのリアル」について

2011-07-02 04:27:05 | Weblog
深夜にちょいとyoutube。

レディ・ガガ「born this way」のヴィデオ・クリップを観る。

歌詞を確認したところ
「だってそうなんだもの」という「おなご印満開」の内容。

歌声はEurythmixのアニー・レノックスで
パフォーマンスはmadonnaという解釈をしておく。

「80年代の再来」と短くまとめてみるとわかりやすいのか。
「マニフェスト・オブ・ザ・マザーモンスター」という語りで始まる。

映像は性器を強調しながらまるで「エイリアン」。
「新しい種族の登場」を歌いながら案外昔の「引用」で。

要は「好きに生きればいいのよ」というメッセージの横溢。
「おなごへの応援歌」と思えばいい。

「イオナ、私は美しい」という化粧品のCMがかつてあったけれど
それをかなり「下世話」にした雰囲気がむしろ「本音のリアル」を生むという仕組み。

実際の彼女は身長155cmと外国人の平均から見るとかなり小柄で
裕福な家庭に生まれながらそれがめんどくさかった模様。

言うまでもないが「レディー・ガガ」という名前は
クイーンの「レディオ・ガガ」に由来する。

「素肌をさらす」という行為が「本当の私を見せる」という具合。
わが国でもそのようなおなごは少なくない。

ある意味あきれるほど「シンプル」なメッセージは
なるほど全世界に伝わりやすくなるのも「当然」ということで。

個人的にはもう少し「工夫」があってもいいだろうと思いつつ
あらためて「おなごに対する抑圧」というものの大きさについて再認識する次第。

彼女に「バーブラ・ストライサンド」の影が見えるのは
「深読み」に過ぎるのかどうか。
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「用意しておくこと」について

2011-07-02 02:24:45 | Weblog
くもり。蒸し暑い。

「郵便的不安たち」を「Ⅲ」の後半まで読み進む。

ここには「望ましい知的水準」があるということを今さらながら確認する。
もちろんそれは「個人的な趣味」としての「感想」。

今後それが「趣味」として「成立」するのかどうかも疑わしいほど
少なくとも自分の周囲にいる人々は圧倒的に「読解力」を持っていない。

彼ら彼女らの中心は常に「自分」にあり
その「自分」を疑う前に必ず「他人もしくは対象が悪い」のが基本。

「七度尋ねて人を疑え」ということわざもあるものの
どうしても「謙虚」になれないらしい。

面白いのは彼ら彼女らが「結果」を素直に振り返れないこと。
「同じ失敗」を繰り返し「反省の弁」も述べながら具体的な「変化」は一向にないままで。

それが「DV=ドメスティック・バイオレンス」あるいは「反復脅迫」と同じことならば
そのあたりの「因果」を探るあたりに「解決策」はあるのか。

少なくともひしひしと感じられるのは
彼ら彼女らは「自分が悪かった」と認めると「すべて」が崩れてしまうように思っていること。

その一方で「無知」に居直って
「自分はこうしか出来ない」と多寡をくくる態度も見られる。

「向上心」というものが「一定の基準」によって「担保」されるものであるとするなら
どこかでそれを見つけてもらいたいもの。

どんな「世界」にも文句なしの「凄み」を持っているものはある。

その「出会い」を用意すべく
あらゆる方向に「アンテナ」を向けておく「作業」だけは確保しておいていいのではないか。
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「確率=ご縁」という「翻訳」について

2011-07-01 02:11:23 | Weblog
晴れ。今日も暑い。

束の間の連休は結局「避暑」に終わる。
エアコンのない身として実は仕事も「避暑」のうちだと悟る。

東浩紀「郵便的不安たち」を少し読む。

12年前の本だから「状況」はかなり変わったけれど
なるほど著者の「読み」は優れていて「状況判断」も的確だったことをあらためて知る。

それにしても今年「不惑」になる著者以降
「目ぼしい人材」が登場していないのはなぜなのだろう。

こちらの「アンテナ」が錆びているせいならいいのだけれど。
「過去」と「現在」を「繫ぐ者」としての「視点」がもはや失われてしまったせいだろうか。

かつて「見通せる」と思っていた「全体」が「実はそうではないもの」だと気付いて久しい。
おそらく今は「全体を見通せないこと」など思い浮かばないほど「身近な世界」しか存在せず。

「偶然」に対してたいていの人は「物語」を用意する。
そこに何らかの「意味」を与える。

なぜならその「偶然」が「それまでの常識を覆す」形で「迫ってくる」ように思えるから。
もっとも「世界」はそもそも「複雑」で人の「解釈」など平気ではねのけるもの。

普段そのことに気付けないもしくはある種の「法則」に疑いを持たないからこそ
まるで「世界が変わったかのように」思えてしまうことには敏感でありたい。

「ややこしい」と思えるならそれは「世界」のせいで「私」のせいではない、と言っておく。

もっともそれは「私による世界」なのだから
「あなたの世界」はご自由に。

もしそこに「交わるもの」があった時にはよろしく。
「ご縁」があればいずれ。
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