退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「信じるという装置=宗教」の「有効性」について

2011-07-27 02:16:09 | Weblog
くもりときどき晴れ。暑さはそれほどでもなく。

渡辺照宏「涅槃への道」を途中まで読む。

八十歳で入滅したという仏陀のお話を
パーリ語の「涅槃教」を元に英語・ドイツ語・スペイン語訳も参考にして語る内容。

「人間」が「動物化」しつつあるのなら
「宗教」がもう一度役に立つのかもしれないと思って参考までに読んでいる次第。

本来望ましいのは「宗教」を「過去のもの」にすることだけれど
如何せん人々の「理性」や「言語能力」には期待できそうもない。

むしろ「読解能力」は下がる一方だと思われもするので
それならいっそどこかに「絶対者」を置いて「信仰」という形式を生かすのもアリかと。

今のところ興味深いのはキリスト教・イスラム教同様
仏教においても「地獄に堕ちる」という共通点があること。

現代のわれわれにとって「地獄に堕ちる」ことの「リアル」はさほどでもない。
それに代わる「リアルな恐怖」を生み出す「設定」はどんなものなのだろう。

「来世で救われたい気持ち」はもちろん「現世の辛さ」による。
せめて「生まれ変わったら」という思いを抱かせるほどの「辛さ」が当時は平気で身近にあったはず。

とりあえず何とか生きられてしまう環境を手に入れているはずのわれわれは
その「幸福」も知らずいたずらにあれこれ悩んだりして。

もちろん人は「現在の悩み」の「取るに足りなさ」を自覚することなく
ひたすら「現在の悩み」を悩む存在ではある。

少しだけ他人に望むことがあるとするなら
「素敵な笑顔の持ち主」であってくれさえすればということ。

「笑顔教」などというものはあるはずもないけれど
「屈託の無さ」を感じさせる瞬間を「力」に変えることは出来る。

実は「笑顔が似合う」ということも
おそらくは「ひとつの才能」と呼んでいいほど貴重なもの。

自分にできないことを他人に望むのが人の「基本」だと知りつつ。
コメント
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