山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

西東京市、渋沢栄一・敬三関連の展示

2021-12-29 19:11:17 | 旅行・街歩き

今年、日曜夜8時からのNHK大河ドラマ「晴天を衝け」は、だいたい毎週見ていた。

そして渋沢栄一という人には、これまで見てきた他のドラマの主人公以上に親近感がわき、尊敬の念を抱いたのである。

今日は最終回の再放送をやっていたので、もう一度見たのだが、晩年になってもなお青年の頃の意志の強さと変わらぬ行動力に、すごいなあと思うばかりだった。

世の中から一目置かれるような地位を得ても、その上に胡坐をかくような人ではなく、いくつになっても純粋で、常に世のため人のために尽くす人だ。
時々のぞかせる無鉄砲のようなまっすぐな人柄が、ああ、若い時と同じだなあと笑ってしまう。

関東大震災の直後も、危険だから地方に逃げたほうがよいという若者の意見に対し「何のために生き残ったんだ」といって、身内が止めるのも聞かずに、人助けにでかけるという性質。

孫の渋沢敬三によれば、栄一は、よく食べ、よくしゃべる人だったそうだ。それで、長生きをしたのだろう。長生きの系統なのか、敬三の息子(栄一のひ孫)の渋沢雅英氏も90代で今現在も健在である。

・・・

さてさて、前置きが長くなったが、10月の末に西東京市の郷土資料室に行ったところ、たまたま渋沢栄一や敬三に関連する展示に遭遇したので、そのことを書こうと思う。

まさか西東京市に渋沢栄一に関連するものがあるとは思いもしなかった。ここが意外にも渋沢栄一に縁があったのである。

その日、私は所沢街道の六角地蔵尊を見に行ったのだが、歩いて行けるところに郷土資料室があることを知り、ついでに足を運んでみたのだった。

その場所は、新青梅街道のニトリ田無店のあたりから北西へ徒歩数分のところで、廃校になった小学校の校舎の中であった。

まさか校舎の中にあるとは思わず、見つけるのに苦労した。

この日は、「東京、文化財ウィーク」というのぼりが立っていた。
これは文化の日の前後(10/30~11/7)に都内の文化財の公開や企画事業が実施され、都民が文化財に触れる機会を作っているものだそうだ。(今調べました。)

校舎に入り、階段を上って2階に行くと「郷土資料室」がみつかった。

そして、渋沢栄一や敬三に関する展示を見ることになった。

ここで、西東京市というのは、江戸時代から明治に移行するころにも、渋沢栄一やその周辺人物と、政治的・歴史的にも縁があったのだが、このへんの説明はむずかしいので省略する。

簡単に言えば、この地は、埼玉にも通じる場所であったので、拠点となったのだそうだ。

そうして、一番関心を持ったのは、ドラマの最終回で語り手となっていた、栄一の孫の敬三のことである。

この人は、日本で初の「民俗学博物館」を作った人で、その博物館が保谷(現在の西東京市)にあったのだそうだ。

この人は、ドラマでも描かれていたが、生物が好きで、本当はそちらの道へ進みたかったのだが、栄一の息子篤二が廃嫡されたことにより、栄一の望みに従って、孫の敬三が後継者となったのだった。

この人は栄一に見込まれ、すごくかわいがられていたようだし、敬三も祖父栄一を尊敬し慕っていたことがよくわかる。

本人の望まぬ道に進んだとはいえ、実業家・財界人・政治家として日銀総裁や大蔵大臣までやった優秀な人だ。

一方、その傍らで自分の好きな民俗学者としての活動もしている。
元々、生物への興味や関心が強く、収集・整理力に優れていたとのことだ。

そして、1921年(大正10年)ころから、アチックミューゼアムというのを結成し、民具や漁業関係の研究をし、庶民の生活文化の究明をしたそうで、多くの研究者を精神的にも財政的にも援助したのだそうだ。

そして、民俗学博物館創設のリーダーとなり、保谷の地に日本初の野外展示物を含む博物館、研究所を設立したそうである。

この日本初の民族学博物館、本館の当時の写真が展示されていた。
左が収蔵館、右が陳列室、右端に農機具置き場が写っているとのこと。

今は、何も残っていないので残念だが、保谷駅から500mくらいの所、かえで通りに民俗学博物館の説明板があるそうだ。

渋沢栄一の孫だけあって、パワーがあり、色々なことをした人なんだなと思った。

民俗学博物館に関わった人は、渋沢敬三・高橋文太郎・今和次郎という人だそうである。

・・・

この郷土資料館は、常設展示も色々盛りだくさんで、手作り感があり、なかなか見ごたえがあった。

あまり目立たない場所にあるのだが、多くの人が足を運ぶ価値があると思った。



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