山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

「千の風」と靖国神社

2007-01-21 09:55:13 | 未分類過去
「千の風になって」の歌詞を聴いて、正直言ってまず思い出したのは靖国神社参拝問題だ。

靖国神社に行って手を合わせないでください。
そこに私はいません、神になんかなってません。

などという詞が浮かんできてしまうのは、私だけだろうか?

戦死者の家族でも、靖国神社ではなく自分の家のお墓にいるんだと主張する人がいる。
勝手に英霊として祀られているだけだから、関係ないと思っている人もいるようだ。

そんなことを書くからと言って、私は靖国参拝にむやみに反対する者ではない。
なぜなら、戦後60年以上になる今日まで、戦死者をまとめて祀ってきたのは靖国神社なのだから、そういう経緯や歴史をチャラにして今さら新しい慰霊施設を作ればいいというものでもないように思う。やはり、消しきれない歴史というものがある。それが、重大な問題点を抱えていてもしかたがないのではと思う。その問題を抱え続けること自体が、戦争というものの複雑さを忘れずにいることにつながっているのかもしれない。周辺国との摩擦や解決できない問題をすっきりさせたいとは願うものの、そもそも、そう簡単に過去を清算することなどできるはずがない。

さらに、靖国神社は、軍人や兵士自体が、国のために命を懸けた後は靖国に帰る、といって出征していったわけで、そのような内容の辞世の句を詠んでいる人も多い。その句が、軍国主義の中で無理矢理詠まされたとか、洗脳されていたのだとかいう人もいるが、そのへんも難しい。本気で自らそう思っていた人もいるだろうし、そういう勢いにのまれた人もいるだろうし、そう思わざるを得なかったひともいるだろう。
とにかく、生前に「死後は英霊となって靖国にいます」と言って、本当にそう思って戦死した人もいることは確かだろう。

どの死者も、おそらく千の風になっていると思うが、靖国神社も自宅の墓も存在し、そこに眠っているという解釈も否定できないのが現実であり、靖国神社をどうするか、参拝をどう捕らえるかという問題を無くすことはできない。

話は変わるが、外国人が靖国参拝を軍国主義の肯定としか認識できないことが、大きな摩擦の原因であると思う。そこに参拝すれば、その誕生から現在にいたるその施設のもつ性質のすべてに参拝者が賛同していると思いこんでいる。
しかし、そこに行って頭を垂れることは必ずしもそういうことを意味しているわけではない。小泉元首相などは「英霊を顕彰する」ための施設に行って、「戦争犠牲者を追悼する」という行為をしているのであり、そこにズレがある。そのズレを理解し受け入れることができる人とできない人が存在する。
中には本当に英霊を顕彰している人も存在するだろうから、単に靖国参拝に賛成するしないの2種類で人間をわけることはできない。
中国や韓国のひとに、日本人の行動様式や心の中まで理解してもらうのは大変なことだ。

それにしても、いろんなしがらみをふっと忘れて、千の風になっていると感じることができたときに、安らぎがあるような気がする。

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