日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

1月の終わりました。お疲れ様でした。

2016年01月31日 | Weblog

 こんにちは…。
 毎日寒いが日がつづきますね。最近は、雨は降っても雪にならなければいいと思うようになりました。
 雪になると、これほど便利な都会でも、列車の駅は大混乱ですからね。
 最近、職場ではインフルエンザで休みをとっている人もいます。ぼくとしては、インフルエンザになるよりも仕事をしていた方がまだいいと思っています。なぜなら、インフルエンザに勝つ体力がなくなっているのでは…と思うからです。
 皆様はいかがでしょうか。ぼくは、今いちばん気をつけているのは、十分に睡眠をとるということででしょうか。

 さて今週は、政治家の献金授受問題がありました。
 それも、与党の大臣となれば大問題です。
 安倍政権を支えてきた甘利経済再生担当相の辞任がありました。
 あいかわらず『政治とカネ』は永遠のテーマのようです。それだけ、政治にはカネがかかるということなのでしょうか。結局、自分で自分の墓穴を掘ってしまったようです。といっても、今の野党にはそれを徹底的に追及する力がないのではないかと思います。
 なぜなら、野党の民主党が大会で党名をかえて他の野党、それも維新の党と組織再編の提案がニュースになっていました。いったい、何を考えているののだろうかと思います。いま、大事なことは、党名を変えることでもなく分裂することでもなく、強力な野党の団結ではないのかと思いますが…。

 関西電力の高浜原発3号機が再稼働しました。これで、鹿児島の川内原発について2基目が稼働したことになります。福島原発事故の悪夢の解決もいまだできていないにもかかわらず、経済優先は他人の危機までも無視しているようです。いったいこの国はどこへ向かおうとしてうるのでしょうか。避難民はどこへいけというのでしょうか。ある意味、それは私たちの置けれている状況も同様になるということです。


 これが、唯一楽しい話題です。 
 リオデジャネイロ五輪の23歳以下サッカーアジア最終予選で日本代表が決勝で韓国を3対2でやぶり優勝しました。2対0と先制をされましたが、後半3点をとり逆転での勝利でした。信じられない…と思うほど短い時間でチャンスをものにした勝利で優勝しました。宿敵、韓国に勝ったことは大きでしょう。アジアでは宿敵のライバルで、いまはやりのリスペクトできるチームですから。



 昨年の暮れから楽しみにしていた正月休み…と思っていたら、月末となりました。
 なにか、1月がはやくも終わろうとしています。正月休みには、読んでおこうと思い図書館で数冊借りたものの、なんともなさけないことで完読したのは一冊でした。意志の弱い読者であることかと思いつつ、今月に読んだ本を紹介する月末になってしまいました。

 昨年同様、自分の好奇心のおもむくままに本を選んでいた。とくにジャンルをしぼって、さらには新年1月だからという気持ちでは読んでいたわけではありませんdした。とはいえ、読みたい本は増えるばかりで手がまわらないといったところが本当なのかもしれない。
 このごろフト思うことがある。「若いときにもっとがむしゃらに読んでおけばよかった」と。元来、怠け者の性分からぬけ出すわけもなく、今まできてしまった、といところが本当なのかもしれない。いつまで若いと思っていたら大間違いだった。いままで買って貯めておいた本などは、おそらく全部読めないのだろうと開きなおった1月でもありました。
 言い訳になってしまうのだが、齢を重ねるにつれて老眼になり、小さな文字をおいかけるのもめんどうくさくなってきたように思う。とりもなおさず、読む量も減ってきました。小説もめっきり減っていました。
 読書も体力が勝負なのでしょうかね。

 一生の中で、自分がまた読んでみたいと思う本はどれだけあるのでしょうか。
 本は読まなくても生命は維持できますが、読んでいいこともいっぱいあると思います。読むだけでも価値はあると思います。とはいえ、書店は減るし、小遣いも減るし…と条件がますます厳しくなるのが現実であるように思えます。それでも、自分が読んでみたい本をさがして求めたときの幸福感(大げさかも)もあるのではないかと思います。通勤電車で一心不乱で読んでいると、なにもかも忘れぼっとうするあまり、乗り越してしまうという失敗もありますが…ね。



【内容】
「ぐずぐず生きる」「80歳を過ぎたら手術は受けない」「仕事が嫌いなら、心を込めずに働く」「がん検診は受けない」…。人はいつか必ず死ぬ。崩壊寸前の日本の社会システムのなかで、どうしたら有限の命を面白く生きられるだろうか。そもそも面白いとはどういうことか。飾らない人生観と独自のマイノリティー視点で、現代社会の矛盾を鋭く突く!生きにくい世の中を少しでも快活に過ごす、本音炸裂エッセイ。

【著者略歴】池田/清彦
1947年、東京生まれ。東京教育大学理学部卒業、東京都立大学大学院生物学専攻博士課程修了。現在、早稲田大学国際教養学部教授。構造主義科学論、構造主義生物学の見地から、多彩な評論活動を行っている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■無限の命というものは、恐ろしく退屈なことではないあだろうか。背水の陣もなければ、一期一会もない。我々の人生が面白いのはいつか死ぬことを我々自身が知っているからに他ならない。無限の命であるならば、一日の楽しみがどんなにわずかであろうとも、ゼロでない限り無限倍すれば等しく無限になってしまう。有限の命であればこそ、今日どれだけ楽しかったかは意義のあるものとなる(p14)

■人生、同じ七十年を生きるにしても、次に新しい経験をすれば体感時間は長くなると思う。体感時間の長さは想起できる記憶の量に比例しているのかもしれない(p20)

■~六十歳から七十歳、五十歳から六十歳に比べてずっと速く過ぎたと言う人がほとんどなので、老化と共に体感時間がさらに加速することは間違いない(p21)

*死は確定的な事実であって、もはや変更することは不可能である。生は確定的な事実ではなく、現在進行形のプロセスである。過去はすでに決定されて変更はきかないが、未来はまさに選びつつあるのだ(p51)

■グローバリゼーションで最もいい思いをしているのは、アメリカの特権階級であろう。ならば、その見返りとして、世界の弱者に対して、いくら寛容であっても、寛容であり過ぎるということはないだろう。しかるにブッシュのアメリカは何をしたか。テロは悪い。それは当り前のことだ。しかし、世界最強の軍事力を背景に、負けることの絶対にない戦いを正義の戦争と称してはじめようとするのは、どう考えても最悪の選択としてしか言いようがない(「強者の寛容について」p77・「グローバル経済と現代奴隷制」ケビン・ベイルズ著・凱風社)

■若い時は、人生は有限だということは頭で理解していても、心はそれに抗って人生は無限だと思いたいであろう。私も三十代の後半までは、私に残された時間は無限とは言えないまでも充分すぎるくらいある、と思った(「病気は待ってくれない」p80)

*~突然、人間いつ死ぬかわからないから、その時最も大事だ、と思っていることをやらなければ、と思い立ったのである(p82)

*農耕、労働、戦争、奴隷。これらの起源はみな一緒なのだ。ひとたび、農耕を発明した人類はもはや元に戻れなくなった。農耕によって支えられている人口は、狩猟採集生活に戻ったら支えきれない。大半は餓死してしまうに違いない。だから労働をせざるを得ない(p91「働くということ」)

■昔、多くの人は宗教を信じていたから、最後に悔い改めれば天国(極楽)に行けるとおどかすことができた。今日、多くの人は死ねば死に切りと思っているので、死ぬと決まった人間は、ある意味では無敵になってしまう。直接的な欲望と死を隠蔽することにより合成立~(p150「食べる楽しみ」)


【メモ】
 最近まで「いつまでも若いと思うな」という言葉をかけられたことがなかった。誰かがいってくれたらきっと、この本ももっと身近になり手に取っていたことだろう、と言い訳をいいたくなる。

現実、馬齢を重ねると足腰が弱くなっていることに身をもって痛感するこの頃である。
 誰を恨む気はないが、今までの、生きてきた中で発した言葉が全部ふりかかる。有限な資源をいかにうまく自分のものにして生きるのかという命題でもあるように思う。
 人生の喜怒哀楽を気づく本でもある。自分はいままで何がいちばん楽しかったか、悲しかったのか考えさせられる本である。
 読む進むうちに、何を残してなにを捨てていくのか、今一度考えてみるとも大事な生なんだよーと思えた。
 誰に、言われているわkでもなく、自分の思うままにきた結果をどう始末するのか。いちばん難しい引き際を考えまえに、いったいこの世の中はどうなって動いてきたかを知るヒントになるだろうと思う。



【感想】
 久しぶりに思い出した名前だった。樺美智子という名前は、ある意味安保闘争という歴史の中で永遠に忘れない名前となったのだと思う。それ以降、奥野浩平「清秋の墓標」、高野悦子「二十歳の原点」、岸上大作「意思表示」など、政治に悩み生きた人たちのバイブルだったのかもしれない。安保闘争という時代。
 人は社会のなかで生きているという強烈なメッセージを残した若者だったように思う。だから、その社会をどう生きたらいいのか…模索の連続あってもいいよ、といっているように思えた。「政治」という冷たい壁にむかっていくなかで、「人が忘れてはいけないかけがえのないものは何ですか?」と問いかけてきた本でもあったように思う。
 ちなみに、樺美智子自身の日記「人知れず微笑まん」(三一新書)もある。ひたむきな、まじめな、ぐちょくな人生。でも、最後に微笑みたい…と。

「最後に」

誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ

1956年 美智子作





【内容】
 自分のいのちは自分だけのものだと考えると苦しくなる。死んだらすべてがなくなってしまうのか。なぜこの世には不平等な生があるのか―。著者は山深い森の生活から生まれた思考と、西洋哲学・仏教思想とを往還しながら、いのちのありかを探す旅に出る。そして、自分のいのちは自分だけのものではなく、他者や自然や、思いを寄せる人びとと共有しているものなのだと諒解していく。深く静かな思索。
■無人島でただ一人で暮らしていたと表現すれば自分だけでも生きていたように感じるかもしれないがそれは正しくない~。人間は自分の「いのち」は自分の身体のなかにあると感じる。もしも「いのち」が機械的な機能にすぎないというなら、つまり心臓が動き、血液が流れ、といったことにすぎないのなら、「いのち」とは生きている場のなかに成立しているものである。「いのち」は存在することができる。~その場をつくりだしているものが関係である。私たちは、他者との関係のなかに、自分の生きる場「いのち」が存在する場を成立させていた(:はじめに)

■上野村では死はタブーではない。普通の会話のなかで「そろそろ」というようなことが話される(p29)

■~新太郎さんに存在の自己諒解を与えていたのは自然ではなかったか。自然との関わりにおいて生みだされてきた村の暮らしが彼に存在の自己諒解を与えてきたのである(p72)

■~存在する「いのち」はひとつではないことになる。簡単に述べれば深い関係のなかに存在している「いのち」も、浅い関係のなかに存在している「いのち」であるということになって、「いのち」もまた多層的な存在ということにならないだろうか(p80)

■私たちは「関係」という言葉を使うと、自然との関係とか人びととの関係を想起する。ところが新太郎さんの世界にはもうひとつの関係が存在している。それは過去との関係といってよいし、歴史との関係、祖先との関係と表現してもかまわない。彼は過去の世界を受け継いだのである(p83)

■過去は現在の土台として現在のなかにある。未来もまた現在がつくりだす未来である。どちらも現在形のなかにあるといってもよい。つまり、人間には現在という刹那しか存在しないのである。~ひとつのとらえ方としては、私たちは過去、現在、未来という道程のなかにいる。ところがもうひとつのとらえ方としては、私たちには現在という刹那があるだけで、その刹那のなかに過去が感じられ、未来が感じられている(p89)

■永遠性とは、共同体に対する永遠の信頼があると感じられるものである(p92)

■ところが個人を基調とした社会では、社会も経済や文化など個人が未来に向けて生きていく道具にならざるをえない。個人にとっては、死は終焉である以上、すべてのことが終焉へと向かう過程で自分を支える道具にならざるをえないのである。そこに共同体が失ったゆえ成立した死生観があるといってもよい(p94)

■~生と死が親しい関係、穏やかな関係であるという関係であると。この基盤には、このようなことがあった。そこに新太郎さんの「いのち」が存在していて、同時に生きる世界があったのである(p100)

■人間から切り離された「他のもの」は第一に自然である。とともに自然から切り離されたとき、自然と人間の関係を基底において生みだされていく一切のものを人間は失った(p122)

■かつて個人は共同体に包まれた個人であった。~自然と結ばれてこそ成立する個人。村人や死者、歴史や文化と結ばれているがゆえに成立する個人は、何ものにも包まれない個人、自己完結する個人になった(p141)

■自分が死ねば、この世界は終わる。そういう個人になったのである。それが近代的な自由な個人であった。~トクヴィルが述べたように、森や湖を農地や牧場に変えた自分自身に感動いている人間、自己にしか価値を見いだせない人間を誕生させることになった(P141)

■根本的なものが問い直されず、しかしその理念を基に展開している現実のなかに巻込まれる、そういう怪しさがこの社会には成立している(p144)

■問い直さなければいけないのは存在とは何かである。たとえば、いけないのは存在とは何かである。たとえば、私は存在していう。どこに存在しているのか。私の結んでいる関係のなか、そんざいしているのか。


【感想】
 人はいつの日からか、自分の価値観を誰にも理解してもらおうなどとは思わなくなった。よく言えば「価値観の多様化」、悪く言えば「個性がなくなった」とも言えるのではないかと思う。主張があり、反目があり、それでもお互いが生きているという土台が理解しあえない時代…ということがわかる。

 それは、生命の生と死のありかたが不透明になってきたからだろう、と。
 何であれ、人のめにとまり影響を持ち、共有できる範囲を支えあうという作業を忘れてしまったのが、現代人ではなかったのか思えた本だった。

 東日本大震災・福島原発事故の3.11以降の生き方がそれぞれに問われている時代、この本はいい本だと思う。
 生命あるものはいったいどう守られなくてはいけないのか、それをどう伝えていったらいいのか…。
 もっと、はやく読んでいたかった本でもあるように思えた。



 1月も終わりですね。
 これといっていい思いもしていない1月でしたが、読者の皆様はいかがだったでしょうか。
 
 寒いせいっでしょうか、最近また腰痛が再発しました。急な動きをすると「ギクッ」ときそうで怖い日々を送っています。以前は、電車に座っていて乗り換えようとしたとき痛くて立てませんでした。ひと駅のりこすはめになってしまいました。病院では「軽い椎間板ヘルニア」との診断だったですが。

 仕事より体の日々です。これから先は、仕事の日々より自分の体の方が最優先させなければ「寝たきり」になってしまいますー。

 今週はこのへんで失礼します。まだまだ、寒い日が続きそうです。風などかひかないにこしたことはありません。それでは、楽しい2月を迎えてきださい。(…で何をしたい2月かが大事ですよー)

読んでくれた人、ありがとうございました。