日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

3月に入りました

2016年03月06日 | Weblog


 こんにちは。
 少しずつですが、あたたかくなってきたのがわかりますね。水がぬるむというのでしょう。さくらもさいているところもあります。今年の新しい芽が出て、今年の花が咲きはじめようとしています。この繰り返しをこれまで何年も続けてきたことは自然の素晴らしさでもありますね。
 少しずつ変わっていくものを見つけては楽しく思うのはこの季節の楽しみでもあります。それが、とてもいいものであったり、自分を悲しませるものでもあったりしても、素直に受け入れていくしかなことをつくづく感じるこの頃です。休日に、よく通る散歩道。数年前はここの街路地に小さなお花の植木鉢を並べては水をやっていたおばさんがいたのですが、最近では見かけなくなった…と思いを持って散歩などしていることがると寂しい気持ちにもなりますね。休日の散歩道の景色が一つずつ変わって見えます。それもまた人生でしょうかねえ。
 自然の中で息を吹き返すもの、そこで息を引きとる者。そんな営みの繰り返しを今年も始まったということを感じる季節にもなってきました。そして今年も花粉症の季節になってきました。クシャミに体力がなくなっていくような心細さを感じるこのごろでもあります。

 さて、今週はどんなことがおきたのでしょうか。

◆1 認知症徘徊事故監督義務なし
 認知症の男性(91歳)の在宅介護をしていた妻(93歳)が疲れからうとうとしているうちに、男性が家を出て徘徊しJR東海の電車に衝突した。男は死亡、JR東海はこの親族の妻に損害賠償約720万円の請求をした。一審の名古屋地裁は妻と長男にJR東海の請求通り約720万円の賠償を命令。監督義務の責任を怠ったという理由だった。二審での名古屋高裁では、20年以上も離れて暮らす長男には監督義務はないとして、妻だけに約360万円の賠償を命じていた。最高裁では、妻にも監督義務責任は問えないとして賠償命令を棄却した判決をした。

 今回の判決は老老介護をする現実の視点をもった判決だと思う。そらに認知症がふえる時代にとっては、介護者にとっては、大きな判決になったように思うえた。損害賠償は必要であるのはわかるが、自分の責任で徘徊を許してしまった妻と事故でなくなった死人にムツをうつような判決はきびしいだろう。現実を直視したならば、全部が全部介護ができる範囲にない日本の現状がうきぼりになったように見えた。
 日本の社会保障の未熟さもあるなかで、ますます厳しい現実を裁判所がするようになれば法律はいったい誰のためにあるのだろうかという疑問がわいてくる。
 そんな中の今回の判決には、これからの高齢者問題に対する法律の方向があったように思えた。

◆2 女子サッカーなでしこジャパンリオ五輪出場は困難か?
 日本で行われれいる、リk五輪女子サッカー出場アジア最終予選。
 日本は、オーストラリア、中国に負け、韓国に引き分けで勝ち点「1」のみだ。五輪出場枠は、全部で6チーム総あたりで勝ち点が多い上位2チームのみが出場権を獲得する。
 ワールドカップでは優勝、オリンピックでは銀メダルまど輝かしいサッカー女子であったが、今年、沢穂希選手が引退し、チームは若返りで挑んだ大会であった。しかし、これまで3試合の結果から、注目されていた試合はまだえきていないように思える。

 なぜなのだろうか?
 これまでの戦績をみれば、今回の大会では対戦相手は必ずワールドカップに出場した選手をマークしてくる。だからボールも多く触れないあだろうと予想していた。だから、新しく出場した選手の活躍が期待さていた。しかし、結果はミスは多く、パスボールにたいしてもコンビネーションがいまひとつでズレでいた。まだまだ、若い選手たちは、ワールドクラスのスピードに慣れていないようだった。だから、タイミングも連携もよくなかった。ミスも連発した。相手にチームはそれを読んでいたかのように、ミスをついて若い選手を翻弄して勝ち点をあげたように見えた。守備のバランスが悪ければ、シュートの本数も正確性もずれる。

 なでしこジャパンのつなぐサッカーができず、点をとるためにロングパスは多くなったり、ゴール前での駆け引きに翻弄されたキーパーも未熟だった。これは仕方のないように思えた。経験がまだ足らないとはっきりわかった試合でもあった。それが目につく試合だった。だから負けてばかりいた。信じられない試合結果となったのは当然だろうと思う。残り2試合、日本らしいつなぐサッカーを思い出してほしい。





 歩く足元に小さな花が咲きはじめて季節は春へむかっています。その一方で今年の冬の思い出がよぎる季節でもあります。訃報は1月に。同級生の人が亡くなった。それも大病だった。知人の入院。さらにはぼく自身の飛蚊症と…。他人から自分まで老化がいうことを深く考える春先になりそうだ。
 どれも、やはり「よる年波にはかてない」というとおり、自分の肉体の衰えからくるそれぞれのシグナルだろうと思う。「無理を承知で何とか…」肉体ではなくなってきたのろう。だから、その分を生きてきた「知恵(浅知恵)」でカバーしていく必要があるのかもしれないと思えてくる。

 職場ではけっして無理をしているつもりはないのであるが、それをわかる同年齢の人もなく、一馬力をフル回転させ仕事をこなしている。そんな職場にきた人がうまいことを言った。「一人では出稼ぎのようなものだろう」と。そういえば、出向とはいえ、現実には出稼ぎ者みたいなものだと思う。冬の農閑期に地方から出稼ぎに来る人のことである。今は「出稼ぎ」という言葉は死語にになるつうあるように思うが、まだいるのだろうと思う。それに代わってでてきたの「派遣社員」ということかもしれない。それも、現代版女工哀史のようなブラック企業にあって、辞めさせれたり、過労死自殺になったりするニュースも多くなってきた。

 ブラック企業は一時の繁栄はあるものの、働き続けることなのどは考えていない。そのため、いずれ企業淘汰によってつぶれていく企業だろうか…。とはいえ、そこに働く人にとってはみもふたもない残酷な話だ。そうなるまえに、政治であれ、労働組合であれ考えてほしいことは働く人の実態だ。
 春闘本番であるが、こんな人たちのことはいっこうに考えていない大手組合にもみえるのはぼくだけだろうか。現実、自分のことでせいいっぱい。働くことが、自分らのためになって、本当に家族の人のためになっているのか考えさせられる季節でもある。

 いまは、少しずつ自分の体と対話しながらやる仕事にしようしている。春は、もっと動けるだろうと思う季節でもあるとおもう。身も着るものも軽くなる。とはいえ、今年の自分はそうなっていくか、相談のうえ初めていくしかないと思う。(無理はせぬことは第一だ)。

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 春に近づきつつある日々、うれしい温かさが身にしみてくる日々である。
 今年は、東日本大震災5年目。東京電力福島第一原発事故から5年めである。状況はすこしもよくなってように思える。いまだに、避難している人たちは日本全国にいる状態だ。除染はしたが、その除染したものを置くべきところも不明。これから出てくるであろう放射能被害についても問題途上にある。そんな中、今後は「被曝」がどだけ出てkるのかも未知数。仮設住宅でお孤独死も増えていたという。時間とともに高齢化がすすみ増加傾向にもあるという。
 原発再稼働でさえ、トラブルで停止。なにをやっているのだろうかと。
 まったく予断を許さぬ状況はちっとも変っていない。5年後はもっとよくなっていいはずだと思うのだが、それがかわっていないのは何が問題ないなのだろうかと。

 日々の生活の中で、ぼくの心の中には「地震」の揺れの経験が残っているように感じているのが正直なところ。
 3月も始まった。今月は、5年前よりちょっとよくなったと思えるニュースや出来事に触れてみたいものだ。
 それにしても、日々の生活の中で「何がうれしいって…」という会話が少なくなったような気がするなあ。
 けっきょく、誰もが自分のことだえで精一杯なんだろう。ぼくも自分の生活で精一杯というのが正直なところだと思う。沖縄であれ、福島であれ、それは大きな問題だと思ってもそれを、自分の身近なこととして、そしてできる範囲でと考えていくことはむずかしいのだろうと思う。ただ、身近にそれに近い人などと話すことによって「それは問題だ」と考えていくしかないように思う。なぜなら、当事者にはなれない現実をそれぞれ抱えていきているのが現実だだろう。それでも、話したり、聞いいたりすることで少しは自分にもできることを考え行動すことしかないのかもしれない。

 読んでくれた人、ありがとうございました。

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