日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

梅雨の真っ只中で…

2011年06月12日 | Weblog


 梅雨真っ只中…。
 これも、自然のめぐみと思うのは東日本大震災がったからでしょうか。自然の動きには逆らえないし、まして傲慢に自然を壊している状況で何も言いようがない気がします。
 今は、自然の流れを素直に受け止めて、それを楽しむ方がより、人間らしいし、人生が楽しいだろうと思うようになっています。

 休日いつも歩く散歩道。
アジサイが気になって、雨の中、見にいって来ました。今年も咲いていました。冬には、すっかり枯れて、これでまた咲くのかな…、と思っていましたが、今年も緑の葉をいっぱいつけて咲いていました。「富士には月見草がよく似合う」とあれば、「道端にはアジサイがよく似合う」と思います。

 アジサイというと「男はつらいよ」のシリーズの「寅次郎あじさいの恋」を思い出します。
 マドンナは女優・いしだあゆみさんでした。
 夫に先だだたれ、娘を丹後の実家にあずけ、京都の陶芸家のところで働いていたかがり(のいしだあゆみ)が失恋し、実家に帰ってしまう。丹後に帰ってしまった、かがりを慰めて、励まそうと寅次郎が丹後を訪ねる。
さらに、葛飾に帰ってきた寅次郎をかかがりが友達と訪ねる。そして、鎌倉のあじさいの季節にデートという話。

 かがりが鎌倉にデートにさそい自分の決断を寅次郎にむけるが、寅次郎はふってしまう。
このシーン。鎌倉にゆっくり夕暮になっていく…。少しずつ、寅次郎とかがりの会話が途切れていく…。なにか、もの悲しいシーン。かがりの強い気持ちと、寅次郎がかがりの思いを振り切り旅に出るの場面が思い出される。
 かがりがどんな思い出、寅に会いにきたのかと思うと、その思い切りさにとても人間らしい、悲しさや素晴らしさを感じてしまう。

 そして、振り返れば、寅のやさしさも、心から拍手を送りたいと思った映画だった。

 かがりはアジサイのように、季節のなか、時間を追って花色をかえ、美しくなっていて、しっかり大地に根をはって咲く花でもある。

◎今週は「スクラップ2011」は休みです。

 東日本大震災、福島第一原発事故のレベル7はまだ続いています。余震もあります。放射能は範囲も広がる…し、危険がいっぱいの日本ですが続きます。

 最近の新聞のコラム「時間は忘却をも促す。時を経て不安が薄れるのは救いであっても、被災地への思いまで色あせぬようにしたい。思い出すのは、広島原爆の写真に寄せた石垣りんさんの詩の一節。<午前八時一五分は毎朝くる…>」という記事でした。

 また、原発事故の関してのコラムに「自然災害は起きてしまえばそれ以上動きませんが、原発事故は戦争と同じです。こちらの対応次第では状況がどんどん変わっていく。対応を間違えれば命も取られます」と。さらに「チェルノブイリ事故は20世紀の戦争だ。これまでとは姿を変えた戦争だ。これによって多くの人々が死に、これからも死につづけるだろう」…(毎日6月6日)

 ……と続きます。




涙なんだ
作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童
編曲:横田明紀男

あまりにひっそり流すから
そうとは気付かず 見過してた
俯く仕草 思えば
そうか 涙なんだ

女の涙は苦手だと
余計な一言 付け加えて
心に鍵掛けたね
そうか 涙なんだ

ぼくに心配かけまいと
いつも気丈に振るまってた
たまにシーツが濡れてる
あれも 涙なんだ

長い歳月 暮らしても
あなたの気持ちを思いやらず
勘違いだね 今更
何だ 涙なんだ

鈍いぼくを
許して欲しい
思いに甘えて
ぼくの腕は
そのためにある
あなたを抱き締めるため
あなたを抱き締めるため
ルー涙なんだ ルー涙なんだ
ルー涙なんだ ルー涙なんだ


◎休日の朝…眠い目をしながら、久しぶりに「ラジオ深夜放送」を聴いていた。エンディングにこの曲が流れてきた。静かななかで、曲を聴いていたら、今までのなかで何回泣いたかな…と思った。
 
 ここ久しく涙など流したことがないねえ…。うらを返せば、悲しいとき、うれしいときにめぐり合わないからかな、と思った。
 最近にめぐりあった涙は、大震災のときの家族全員無事だったとき、わが家の妻と娘が涙を流したくらい…。

 振り返れば、私は、なぜか、涙をながしたことがここ何年もない。涙も流せないほど悲喜こもごもから、縁遠くなってしまったのかと思う。それとも、「心に鍵」をかけたのか、笑いはするが、感激しない自分が多いのに気がつく。

 何かの記事に、男と女では、女のほうが長生きな理由として、涙があるという。女はすぐ泣く、それに比べて、男はがまんしていることが多く、ストレスを多くためるそうである。そのため、精神的に苦痛が多い男がどうしても早死にするという。本当かウソか、思いあたるところが多い。

 涙…。うれしくも、悲しくも、この涙が一つの節目をつくっているのだろうと思う。涙で洗い流して再出発…てな具合に、心のスイッチになっているのだろう。
 でも、涙を流して、それを受け止めてくれる人がいることが、人生でいちばんいいことだと思う。涙は流してもいい。ただ、それを見つめてくれる人。そして、その涙に意味を誰よりも理解してくれる人がいることがいちばんいいのかもしれないと思った。

 この一曲を聴いてそう、思う。



 私は、半世紀も生きてきて、すでに棺箱に近づいている。そんな、私が「怒られる」ことは、めったになくなった。むしろ、若い人に対して怒っているほうが多いかもしれない。それは、ほとんどが、仕事であるが…。

 最近、私の仕事でミスをしてしまって、担当者に怒られたことがあった。怒られたというより、担当者が、お客からの苦情を直接、私にぶつけた単純なものだった。
 しかし、よくよく、考えてみれば「怒っている意味」がわからない。ただただ、激怒する感情を私にぶつけているようなものに見えた。

 とりあえず、謝る…。それでも、怒った人は怒りがおそまらず、なにもいわず(いえないのか)さってしまう。

 単純なことで、ことの前後がないようで、そして、その人を励ますような怒り方があっていいように思った。
 そう思った。きっと、彼が、もっとしつこく私に怒っていたら、「ちょっとまて、どうしてこうなってしまうのか、君も一緒に考えてみませんか。そして、反省してみないか…」と言ったのかもしれない。

 だいたい、怒ってしまうのは、本人の考えと違うとか、他の場所でいやなことがあったとかが引きがねになっていることが多い。
 その腹いせに、怒られるひとはかわいそうだが、前後の事実関係をもっとくわしくさぐってみれば、どちらにも非があることが多いと思う。そうしたら、それを、認め合うことで次の仕事をしたほうが、お互いにとって気持ちのいい、仕事ができるというものではないかと思った。

 さて、こんな思いはすでに、大昔の哲学者もかくも難しく考えていた。
「怒りについて」ということについて、紀元前4世紀ごろの哲学者・セネカの言葉がある。「…怒りとは短い狂気であると言った識者がいる。狂気も同様に、己を抑えられず、体面を忘れ、係累に思いを馳せず、着手したことに意固地に固執し、理性にも耳を閉ざし、些細な理由に激しては正義も真理も見分けず、瓦礫の崩壊にさも似て、砕け落ちては押し潰したものの上に飛散する」(「怒りについて」セネカ・岩波文庫)とある。これも、真理。

 とはいえ、腹を立てることと「怒る」ことは同じようになっているのではないかと思うことがある。本当は、ちがうのだと思っていても、現実にはそうなっている。
 本当に「怒る」べき相手を探すと、まりにも膨大な資料が必要にならだろうと思う。だから、単純に、人と傷つくのも考えず怒ってしまう…これが本音だと思う。なら、怒るより、諭して生きた方がいいのではないか。その方が、自分が思う事を素直になれると思うのだが…。
 多忙ななか、そんな余裕がない!のが現実だがそう思いたい、と思う。
 だから、怒るべき理由がわからなくなっているのだと思えた時間だった。

*読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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