日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

梅雨の晴れ間に・・・外へでれば

2020年07月12日 | Weblog
こんにちは。
 梅雨ですね。毎日、雨のなかを出かける日々が続きます。雨は降るだけではなく、度を超すと災害をつくってしまいます。九州を襲った集中豪富は1週間いまだのその恐怖をつくっています。報道によると浸水1万棟、避難3600人の避難者生活を送る状況になっています。この状況でコロナ禍の危険もあわせておそっている状況です。 昔は梅雨といえば、静かに1週間あるいは10日間雨が降り続けることですんでいたように思います。集中豪雨は秋の台風の季節くらいでした。これは、日本にとっては異常気象になっていると思えます。それというのも、森林火災や森林伐採などで世界的規模で緑が消えていく状況と比例していることにも影響するそうです。人るによる、ごく一部の資本家たちの経済の度を超えたことが起こされたリスクともいえるのではないかと思えてきます。

 ここ数日、都内の新型コロナウイルス感染者が日々増えてきました。若者を中心にその感染者の数字は増えているといいます。そして、脳裏には「第2波」も近づきつつあるのかもしれません。特に都市部を中心に「緊急事態宣言」が解除され、経済活動も始まってからのでことです。「医療機関に余裕がある」と行政者は余裕の発言をしていました。病院にはいったかいなかでその感染状況の考えているようなところがあります。本来は、感染しない状況を少しでも多くつくることが予防なのでしょう。それが、日々真逆になっていくように思います。通勤電車はコロナ感染前の混雑をつくりつつあります。症状もない人もいるようです。感染がビリヤードの玉突き状態に、一人が二人、二人が三人へと増えていく景色がみえるようです。


 雨の多い季節。電車に乗るほどの遠方へいくことがなくなった。山歩きはいつ再開できるのだろうかという思いをよそに、休日にはあちこち散歩にでることが多くなった。考えてみると、新型コロナウイルス感染が出はじめたころは、休日には近所の都営墓地を歩いていた。主に墓地のなかで眠る作家や俳優の墓地を探しては歩いていた。それでも、墓地が広すぎるのでバスに乗ることもあった。
 都内をバスを乗り継いでめぐる本も紹介されている。バスで行けば、ある程度ピンポイントで目的地に着くことができる利便性は、電車の比ではないだろうと思う。それだけ、バスは市民の足になっていることがわかる。
 ただ、バスは電車ほど時間に対してはルーズである。それは、市内を走っている分、許される範囲だと思える。交通渋滞に巻き込まれたときなどは、同じところに向かうバスが連なってくることもある。それだけ、電車の運転手よりも多くのことに気を回さなければいけないのだから大変だろうと思う。

 子どもの頃、バスに乗るは町の医者に行くときだった。それも、歯医者さんに。子どもでも安心して乗れるのは車掌さんがいたからだろう。目的地にいくのに分からないければ聞けばいいという安心感があった。降りるタイミングも車掌が教えてくれて安全だった。おそらく、運転手も運転することだけに集中できていた時代でよかったと思う。なつかしいバスガイドのお姉さんの姿はもうどこにもないだろうなあ。あっても観光バスくらいだろう。市内をまわっているバスの車掌さんは歌は歌わないが、今アナウンスされている停留所の名前をやさしく、誰にでも聞き取りやすい声で案内していた。子どものときわかないとき何度も聞いた。それでも、聞くたびに分からりやすく説明したくれた。のんびりした時代だったのだろうと思う。おそらく、知らずしらずのうちに人との距離や、仕事の大変さを日常の生活のなかで教わっていたのだろうと思う。
 いまはスマホで行き先から目的地までの時間までわかってしまう。しかし、その時々の対応にはあの時代の車掌さんにおよばないだろう。到着する時間はわかっても、実際はほとんどその時間とはちがってくるのが生きている社会である。その社会にいる子どもから老人まで、安心して乗れたのは、車掌さんがいたからだろう。
 私の好きな詩人に鈴木文子さんという人がいる。彼女は東武鉄道に働きながら誌を書いてきたひとである。バスときくとその人のことを思い出す。
「廃車」
師走の風は吹きぬけていく 国道ぞいの原っぱのかたすみで
ポンコツの愛用者といっしょに 雨ざらしになっている
おまえにであった むかし おまえはシムウマと呼ばれ
満員の乗客を乗せて ぶるんぶるん元気に箸っていた。
          〇   〇
入社したのは十二月だった 面接の時
定年まで勤めたいといったのは 私だけだった
香水の香りよりも 床にひいた軽油の匂いが好きだった
妹や友達から バス臭いといわれるのがうれしかった
あれから二十年 三度の辞令で配転になった職場の机で
手にした一枚の表彰状
          〇   〇
車掌? ああそんな仕事もありましたね
車掌なって言葉すっかり忘れてました
紺の制服にパリッと白い衿 ? ワンマンカー反対のステッカー ?
さあ知りませんな 何十年前ですか それ ?
その頃走っていたツーマン車 ? とうの昔ポンコツですな
          〇   〇
ならんでいるワンマンカーたちに 楽しかったシマウマの時代を
話してやろうと思ったが やめた。
あの頃の想い出を ポンコツになったおまえと
忘れられてしまった 車掌の私と語ろう
雨の日 雨もりがひどいと文句を言われ
仕方なくお客さんに 傘をさしてもらったことがあったっけ
何台も原因不明の雨もりで 工場の人たちをてこずらせていた
おまえにそんな記憶があるかい。
          〇   〇
塗装のはげたシマウマの 自家用車の中で
申訳なさそうにしている大きな図体
おんぼろバスのおまえでのボデーに 表彰状を貼ってやろう
「あなたは入社以来 その機能をよく発揮し、社業の発展に寄与されました…」
からっ風が吹きにける原っぱで おまえのエンジンは生きかえり
満員の乗客をのせ 紺の制服を着た私の「発車オーライ」が聞えたようだ。
※私は今まで、働くことの苦しさや厳しさばかりを作品にしてきたようだ。できれば今後は、働くことのできる喜びを書いて行きたいものだと考えている。と同時に、自分という婦人労働者の場を、作品としてさらけだしたい気持ちもあるのだが、いざ書いてと、必ず浅学学非才を労った作品になっているから、まだその勇気は本物ではない。(あとがき)より 
鈴木文子・オリジン出版センターより
 という詩を思い出しました。

 新聞を読んでいたら、新型コロナウイルス感染が増えていくことと、九州地方を襲った集中豪雨での災害のニュースが多い中に、二つの死亡事件の記事が目に入った。一つは愛知県蒲郡市の民家で昨年7月、介護に疲れて義母(当時96歳)を殺害したとして、殺人罪に問われた無職大塚文子被告(71歳)に対する裁判員裁判の判決が10日、名古屋地裁岡崎支部であった。裁判では「周囲から十分な援助が得られず、精神的に追い込まれら」とし、懲役3年執行猶予5年(求刑懲役6年)が言い渡された。二つ目は、東京大田区蒲田の自宅マンションに長女(3歳)を8日間置き去りにして死亡させたとして、保護責任者遺棄致死の疑いで母親の梯沙希容疑者(24歳)が警視庁に逮捕された、という二つの記事が悲しい気持ちになってしまった。

 愛知の事件では人生の最期をどこで誰といるのか、一方蒲田の方は、人生これからという命がなくなっていく姿があったように思う。そして、これが日本の抱えている「介護問題」や「8050問題」なのだろうと思えるし、蒲田の方は「育児問題」や「子育て問題」など、人生の最初と最後の形としてはあまりしも残酷なけっかなのだろうと思える。あるとき、どこで生まれ、どこで死んでいくのか・・・誰にでもあてはまるようなニュースだった。私にとっては、きっと前者のほうだろう。
 コロナ禍の時代、そのなかでも人は生きていくためにいろいろな犠牲をともなっていくのだろうと思う。それが、いちばん身近ひとであったりすれば、悲しみやつらさはだれよりも身近になっていく。そうであれば、国内でもこれらの事件の中に生きているいて、生かされたいることをつくずく感じる。
 そんなことを考えさせられたニュースであった。


 「忙しい・・・、忙しい」といって仕事などをやっているうちはまだ幸せな方なのかもしれない。できる範囲で生きて仕事があるだけまだましなの方かもしれないと思う。日本中が、コロナ禍、集中豪雨災害、ときどき起きる地震におびえて生活している現実。できるだけ、そのことを小さくすることで日々がどうにか送られている現状だ。あるいは、忘れている時間をつくることで暮しているようにも思う。
 それがそうできるうちはまだいい方なのだろう。それは、他人が与えてもらうものでもなく、日々の自分のなかで培っていくしかない。あとは、自分たちのための政治なり、働き方をつくるようにしていく「新しい生活習慣」を求めていくしかないのだろう。
 
 とはいえ、めんどうくさい、いそがしいの愚痴は続くのだろう。梅雨の晴れ間に少しでも気晴らしにと散歩をすることは続けようかと思う。お天気も精神的にめいる日もつくるものだななーと思う。
 今週は重いニュースばかりでした。
 今週はこの辺で。読んでくれた人、ありがとうございました。