こんにちは。
温かくなってきました。桜も来週いっぱいで散ってしまうのでしょうか。少しずつ春本番です。空を見上げていたらツバメが大きな輪をかいて飛んでいました。新型コロナに世界中が騒然としていても、自分の生きることへいっしょう懸命さに感動している時間でもあります。それでも、この新型コロナの出口がみえない限り落ち着かないといったところが正直なところでしょうか。
そして日々増える感染者。「いつかは自分のところ」に、と思う日々でもある。
そしてもうひとつ。これだけ感染者が増えてれば働くこともままならない状態になっていることも現実になってきたように思う。小さな会社では、働く人も体のことを考えれば、在宅勤務も必要になってくる。しかし、製造業業ではまず無理だろうから「自宅待機」状態になってしまう。そして、商品ができなくなってしまうから利益がなくなってしまう・・・。結果として「会社倒産」がたくさん発生している。本当はこんなときのために「政治」があるはずだったのに、あまりにも機能していない。まさに、「新型コロナの犠牲者」になっている。医療関係者も大変だが、日々働くことで生活をしている人は医者へもかかれなくなってしまう。ほんとうに、政治はこういう人たちのことを救っていくのだろうか。
日々新聞の読む欄に、感染者数とその人の働く職場の状態を考えると気持ちが落ち込んでしまう日々である。
日々のわすれ方・・・2
今週はことばにふるえる日々だった
1 オーバーシュート
2 クラスター
3 ロックアウト
どれもが初めてきく響きである
為政者はその意味を語らず
一束にまとめたがっていくその言葉には
きっと私もはいっているのだろうか
朝日の空気のなかに
昼のにおいのなかに
夜の温もりのなかに
入りこんんできては震える日がつくられる
いのちを話すべき言葉はいまはまだ遠い
こんどはどんな言葉がでてくるのだろう
いま「羅針盤」となることばはどこにあるのだろうか
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いつになったら「オーバーシュート」でどこが「クラスター」で権力はいつ「ロックアウト」するのだろうかという日々である。いずれも、危険な状態を示された結果としてのものだろう。それでも、もっと身近な「マスク」や「医療」に対する情報が欲しいと思っている。こうなってしまって、これまでの政治の在りかたが問われていることだろう。各地方の医療機関を財政的に減らしてきた結果に、新型コロナである。病院は少なくなってしまっているのだから「疲弊」してしまう。事実、医療機関は大変というニュースは日々、伝えられている。機械や情報がいくら進歩しても、最終的に手をくだすのはその道の人間ななんだとつくずく思う。それをつくってきたのも人間である。うらを返せば、いちばん大事な「命」を守ることがいかに大事なのか考えさせてられる日々だと思う。
2月終わりごろマスクが店頭からきえて長い・・・。いまだに店頭でその姿はないようだ。職場で「マスクがなくて困ったね・・・」などと話をしていたらちょっと多めにストックして人から「これを使ってください」と貰ったこともある。思えば、私も都心からマスクが消え始めた頃、都下のお店はまだあったので買って持っていったことを思い出した。
それにしても花粉症のために買っておいたマスクがこんなことで使われようとは思ってもみなかった。あまり歓迎したくない使い方になってしまった。通勤電車でも見わたせば9割の人がマスクをしている。それでも、品切れで買えなかったのだろうか着けていない人もいる。手作りの人もいる。
今、いちばん必要としてる人は医療従事者だという。それはわかる一番新型コロナと最前線で戦っている人である。十分な道具が必要になっていることだろう。
とはいえ、正直「自分の身は自分で守る」というマインドコントロールされて久しい。これだけの感染病はいまや個人でどうのこうの、という時ではなかろう。なんのために政治家に税金を費やしているのだ、とも思う。
世の中、本当はまわりまわって他人によって自分にかえってくることが多い。裏を返せば、自分によって他人に迷惑をかけたり、ありがられたりしている。そんなことを思うと、医療関係者であれ、町の工場で働く人であれ、本来あるべき生活をちゃんとやるように政治家に声を大にしていってもいいと思う。事実、新型コロナで演劇・音楽会などが中止に追い込まれて「失業状態」が続く。さらには観光業界、自粛で人の動きもない。利益がなければ人件費を払えない。そうなると、資本主義では働く人を解雇したり無給状態にしたりする。雇用もできなくなる。(ちなみに総務省が先月31日に発表した失業率は2月の失業率は前月と同じで、完全失業率は前年度比は3万人増えて159万人と増え続けている)
新型コロナで「働き方が変わった?」。
3月に就業時短があったが現在はなくなった。本来はこれからやるべきことなのだろう。いったいどうなっているのだろうか・・・。
最近、出向先では新型コロナ対策の「危機管理」としての提案があった。私は部外者であるのできいたいたのだが「参加してください」ということもあって出席してきた。それによると、現在の職場体制を二交代制(本社・自宅勤務)にするものだった。そのことによってどうやったら負担がすくなくスムーズにいくかということで意見をいったほしいと。これはできる職場とできない職場あるのが、編集・校正などは自宅でもできることはけっこうある。ただ、まとめ役は本社で進捗状況などを指示・連絡をしないといけないということになったのだった。そんなことを話して、来週一週間実施するというもことのなった。さて、どうなることか・・・。
すでに大企業では、自宅勤務に必要なものは全部会社が用意して設定しているという。うらやましいなあーと思った。
でも自宅勤務というのは便利なように思えるかもしれないが、こんな時だからやるのもいいと思う。これは「危機」に対してのこと。これが続けばやっぱり「不安」も増大するのではないかと思うかもしれない。会社の様子もわからない。自宅勤務時間は最低でも、仕事の道具の前には常にいることになるのでけっこう拘束されるだろう。まして、自宅が会社の一部としていつのまにか利用されるようになっているのである。
そんなことを思うと「今だけ」にしてほしいと思う。
今年は新型コロナで振り回されるのだろうなーと思っている。少しもいいことがない日々が続きそうだ。スポーツもなく、外出自粛で遠出もできないだろう。温かくなってきたので山歩きを・・・と思うが敬遠しがちになる。いったい出口は見えてくるのだろうか。
最近、会社の帰りに新規採用になった若者(20歳代)の人と一緒になることが多くなった。ほんの20分ほどの時間だがけっこう楽しい時間になった。それにしても、最近の若者(どうもこうなってしまう老人の枕ことばでお許しを)は、自分のことを語りたくないようだ。どうしてかと思うと、自分のことを語るということは、自分の「弱み」を言っているように思えてしまうのだろうか。
あまり語らないのは「弱み」をイジメられる一つの手段になってなってしまっているからだろうか。まさにブラックに近い会社はそう考えるかもしれないなーと思う。事実、前いた会社では残業代さえでないこともあったということをよく耳にしたこともある。「残業代は出してください」と言える人格ができればいい。そういうことは学校教育でやらないだろう。素直なのはいいが、自分の主張を曲げることが素直じゃあるまい・・・。
とはいえ、わずかな時間だがけっこう楽しい。自分がいかに若者に励まされているかわかる。ただ、その若者をいじけさせるのも老人なのかもしれない。そんなことを思いながら今週は一緒に帰った日々だった。
決定的なことはこれかは若者が時代をつくっていくということだ。だから、若者が元気に働ける、楽しめる社会があるということは老人も元気だということだろう。
4月は出会いと別れの季節ともいいます。
今年は、これもなかなか真正面から出会える時期にはなっていないようです。自宅待機あり、自宅勤務あり、時間差通勤あり・・・とそれぞれゆっくり話す時間がもてそうな時期になっていません。
今週、30年以上一緒に働いてきた人が辞めていきました。詳細はきけなかったことは残念に思います。余裕がないようです。辞めてからどんなことをしようとしているのか・・・など、自分のいつかは辞めるのでしょうから参考にしたいと思っていました。語ることもなく辞めていきました。ちょっと寂しい週でもありました。
一生のうち出会いと別れがつねについてくるものです。
どんな別れがあったのでしょうか。そしてどんな出会いがあったのでしょうか。ひとつひとつ大切にしていきたいものです。
読んでくれた人、ありがとうございました。