こんにちは。
毎日暑い日が続いています。季節はまさに真夏「真っ最中」でしょうか、気温が35度超えもニュースになっています。人が涼を求めて動き出すころなのでしょうか。多摩川を散歩していると今年初めてのニーニーセミも声も聞こえはじめていました。足元ではバッタが忙しく飛び跳ねています。この時期、帽子も出かけるときの必須着用となっています。郊外の市民プールへの歩道には、大きな浮き輪を持ったたくさんの親子連れが出会います。ぼくも、昔は子どもと一緒にでかけたプールでした。この時期は、どこのプールも満員です。地元の人は何回も通ううちに、ピーク時を避けて行くようになります。
さて、今週は西日本の「豪雨災害」のニュースをよく聞きました。九州から四国、中国地方をおそった集中号豪雨は多くの方が亡くなられており、家屋の損害も大きなニュースのなっていました。日本の地形からして、せまい山すそや小川の走る近隣に多くの住民が住んでいます。それは、昔からそこが故郷として住み継がれた土地でもあるのでしょう。住み慣れた土地で「まさか…」と思っている余裕もなくダムから放水された大量の水は、山を削り、石をころがし、住民の住む裾野に土砂として流れていきます。泥と石と、さらには大木をも押し流してきたものです。
災害は時間が経つにつれその被害状況があきらかになってきています。かたや、この被害が起きるであろう時刻に自民党議員のお仲間たちは「赤坂自民亭」で楽しむ映像が流されていました。なんとも、非常識な無分別な方々なのでしょうと思えてなりませんでした。これが、今の政権に就く政治家の実態なのではないかと思えてなりません。こうなると、人災でもあるような気になってきます。(政治家の「緊張感」のない政治のために、日本の方向が災害にうちのめされているような景色に見えます。これも「赤坂自民亭」の人たちはきっと「想定外」で始まるのでしょうか…)。
この災害をみていたら、国会議員を増やすべきところはこんな地域の人たちではないのかな、と思えてきました。党利党略の議員の数を増やすのではなく地域の事情を考えた議員をつくることが大事なことではないかと思えました。
1カ月ほど前に始まったサッカーワールドカップロシア大会もいよいよ残り1試合(決勝)になりました。今回は、日本代表が思いがけなくベスト16入りを果たして毎日がワクワクする日々でした。それでも、最後は自力のある代表チームが残ったようです。以外だと思えたのは、今回はおなじみの南米代表が残っていないことでした。ネイマールを中心に多彩な攻撃力をもつブラジルも負けていました。残った代表チームは全部、ヨーロッパの国だったことも印象的でした。「自由奔放な圧倒的な攻撃力ブラジル…」というこれまでのブラジルらしくなかったようです。
ブラジルはネイマールを中心としたチームであることはわかっていましたが、第二のネイマールのような選手の活躍が目立たたかったのが敗因のではないかと思います。ほとんどのブラジル戦との相手国はネイマールをマークしてゴールから遠い距離で反則をもかえりみずマークしていたようにも見えました。事実、ある試合ではネイマールのアンダーソックスは相手選手の足元へのディフェンスによって、穴ぼこだらけでしたね。
ゴール前の迫力がありますが、ゴールから遠く離れたところのネイマールは恐怖にはなりません。ですから、なるべくゴールに近づけるまえにボールを奪取するよりも、ネイマールという選手を止めてしまえばいいとなっていたかのように見えました。そして、あいかわらずのディフェンスの悪さをつけば勝てることを多くの対戦国が実践していたようです。
ベルギーのルカクもストライカーです。ネイマール同様対戦チームから徹底的にマークされてもいいわかですが、ネイマールとちがうところは自分の体格をいかしてちゃんとアシストできる選手であったことでしょう。ディフェンスにも積極的に顔を出し、最終ラインをできるだけ守りやすいようにしているのも印象的でした。そして、ベルギーはルカクもいいのですが、ルカクと同様にシュートのうまい選手が二列あたりから猛スピードでボールをもらいにいく選手が目立っていました。カウンターでの攻撃力は一番であるでしょう。そして、最終ラインにみえる選手たちのきれいな人のラインは絶品ですね。みごとなコントロールで統率され、守りやすい状況をつねにつくりあげようとしていました。けっしてバラバラにならないようにしていたように見えた。
その結果、イングランドを破り史上初の3位になれたのでしょう。
思い返せば、2年ばかり千代田区に出向して本社に異動して思ったことが一つだけあった。
なんとなく暗い……。
初めは、これはぼくが年をとって再雇用者となった身で本社の若い人たちとの会話も合わないし、仕事の流れには乗っていないポジションだからだろうと考えていた。これで年金満額65歳まで働くのだろうと日々送っていた。
最近、ある役員が辞めて行った。ぼくたちの職場の真向かいに机があり一日中、座って何かをやっていたようだ。ほとんど席を立つこともなく過ごしていた人だ。意見を言えばまさに人の意見を「罵倒」するような人だっただけに、会話をする様子をみたことがなかった。ときおり、仕事のミスが出ると「始末書」や「事故報告書」について部下に助言(軽蔑のように聞こえる)をしていた。
その人が辞めてからどうなるのだろうかと見守っていたが、少しずつ人の声も前よりは聞こえる日々があるように思えた。
その様子を思い浮かべたら「呪縛」という言葉を思い出した。いまはまさにこの「呪縛」が「忖度」に代わっているような世の中のように思える。それがいちばん表れたのは「森友・加計問題」ではないかと思えた。時の権力者の意向をうまくとりまとめるために、言われないことまで気を回し権力者への「忖度」によってわが身を守るという世界だ。わが身もそれなりの身分であれば「保身」がはたらき、「忖度」見返りとして「身の安全」ができるということになる。これが、まさに「一石二鳥」の考えだ。そのことによって、なんとも無駄な税金がたくさん使われたことか。なんと、世の中は理不尽であることか。
過日読んだ新聞記事におもしろいのがあった。その内容は「『健康な食生活』という呪縛」(朝日新聞7月14日・高橋のぶ子)という題のコラムである。健康な食生活というブームもあり、多くのテレビ番組では健康にいい食物の紹介が多く語られている。テレビを参考にしてその食物を買っていたらいつの間にか、冷蔵庫がいっぱいなってしまった。来る日も来る日も放送された番組の紹介で買っていた冷蔵庫の中味を見ていたら呆然となってしまった…。これはテレビ番組の「コレも大事、アレも大事」という呪縛そのものではないかと気づいたのだった。ためしに、これをやめて自分の好きなものを食べて、飲み過ごしてみたら、体重も増えることもなく、体調良く、肌のむくみもなかった…というのである。
では、あの健康番組はいったいなんだったのか、ふと考えたという記事である。
自分の毎日のなかに、繰り返される事実に常に「相づち」をうたねばならない生活があるのではないのだろうかと思う。確かに「もっともだ」思えることも多い。「災害にはボランティアで復興へ」となれば、手伝いにというのが自分の人情という気持ちにインプットされる。そして、暑い中ボランティアに行く。それは、大変な人と一緒に暮らすことことへの恩返しのようなものだ。そして「できる範囲で」という気持ちでいくのでしょう。
それが、なにもやらない人に「こうしましょう…、あーしましょう」などと日々いわれても土台無理な話。それも、自分の経済基盤もあやふや生活の中でである。いつも思うが「○○やりましょう:という最後に「出来る範囲でね」を付帯決議ではないが語ってほしい気がする毎日である。なぜなら、みんなと同じにしなくてはならないことはないのだから。
日々繰り返される政権側にたつ人たちの「そんなのありか」と思えるほどのできごと。つい最近では、「赤坂地面亭」での騒ぎ、そして文科省の人の「裏口入学」問題。こんなことばかりが、本来やるべきこと以上に多くなるといつの間にか「あたりまえ」のようになるのが怖いと思える。そして、そんな人たちに自分の保身のために「忖度」し始めることが、なんとも恐ろしいことではないのでしょうか。そして、それが政治家や官僚だけに、最も危険なにおいを放っているように思えてしまう。なぜなら、政治家は法律をつくり思い通りに人々を誘導できるという大変重要な職業を担っているからである。それが、悪法であろうと、人が傷つくことであろうと最終的には「法律」に則りはかっていく社会である。そして最終的には憲法までも変えて、自分の行き場をいいようにしていこうと動きもあることも見過ごせない…。
話を戻して、日々の中で「なんかオカシイ」と思うことが多い。
辞めていった役員がどんなことをしていたのか知る余地もないが、ぼくが異動先ら戻ってきたとき感じたことは、今の社会の核心をイメージしている出来事なのではないかと思えた。できれば、嫌な人と一緒に仕事はしたくない、部下にもしたくない、と思ってできたのが人事だろう。この人は、これから伸びるだろう、いい経営者になるだろうというのではなく、「自分の言うことをちばん聞く」人を選んでいり風潮が大いと社会も職場も暗くなっていくのだろうと…。そして、その人たちだけの世界をつくることが「安心・安全」というカン違いを起こし、あげくの果てには「内部告発」された大企業も多いことだろう。(内部告発者ということをやらなければ働けなくなってきている会社って、いったいどんなものなのだろう)。
【セミ】
今年初めてのセミです。ニイニイゼミでしょうか。このセミはなかなか見ることはできません。なぜなら、木の模様に擬態していて、とても小さい体格だからです。こうして写真の写せることはめったにありません。散歩途中で声を聞き木を見まわしながら音のする方へと耳をかたむけてやっとその姿を見つけました。このセミは夏が来て最初に町中で鳴くき始めるセミのようです。声をきける期間も短く、クマゼミやアブラゼミが鳴き始めるころはその姿や声を聞くことは困難です。季節が移り変わる時間系列と同時にかわっていくようです。
子どもの頃は、セミの鳴き声のなかで遊んでいたように思います。夏休みが近づくと、カブトムシやカナブンを探しては捕えては、一緒に遊んでもらっていたようです。夏休みの宿題の自由テーマには、クラスの一人くらいは「昆虫採集」をテーマに提出する人もありました。お菓子の箱に綿をつめて、たくさんの虫がいました。ほとんど遊んでいる場所にいるような昆虫類でしたが、お菓子箱の中の昆虫はきれいで宝石のようでした。
今思うとなんと残酷なことをしていたのだろうと思います。子どもの頃は「可愛そう」などという気持ちより「珍しい」と思う気持ちが強くありました。夏の間だけの楽しみのような気さえしていました。必ず夏にめぐり合う昆虫でもありました。今よくいわれている「絶滅危惧種」などというのは少しも考えているわけはありませんでした。日々の遊び仲間のような、一年一度めぐりあう昆虫たちでした。野山に行っては名前の知らない虫たちをいっぱいつかまえて虫かごにいれて、眺めては逃がしていました。
「子どもは残酷」といいますです。それは、自分よりもっと弱い生き物にしか目がいかなかったのでしょう。何匹の虫の死骸をつくってもいました。そのなかで死んでしまのはかわいそうだと思うこともありました。とくに、虫に興味がわかなくなってからの年代につれ、虫たちの死がかわいそうに思えるようになった大事な時期だったのかもしれません。
その虫の生態をしれば知るほど季節のなかでめぐり合うことの大切さを思います。一年に一度だけ夏の暑い時期にだけめぐり合う虫たちがとてもいとおしいと、最近思うようになりました。小さな命を私たちの前に見せては一年の流れを感じさせてくれる生き物はかわいいですね。
ちなみにセミは卵を木などに産んで、産み終わったメスは死にます。4~5年後にやっと木々が土に降りて起きて幼虫になり、また近くの木にのぼり羽化します。そして飛ぶそうです。一夏が終わる前に死んでしまうそうです。短い一生です。世の中のスピードではなく最初から最後まで自分の速さで生きていく虫です。昔は子どもたちの生きたおもちゃであったように思えます。今は、こんな小さな虫にも生きていること、死ぬことを自覚させてくれる大事な虫です。なんの役にもたっていないようだ虫ですが、とんでもありません。虫のいのちは地球をすくっている生き物です…よ。
梅雨があけて、暑い毎日がやってきました。あまりの暑さのために「熱中症」で倒れる人が多いのには驚いています。最近の暑さは、人間の耐えられる許容範囲を超えて、命さえ危険にさらしています。気候が変わったのか、それとも人間自体が弱くなってしまったのか…、世の中はっきりしません。
私は、人間自体が弱くなってしまったように思えます。子どもの頃からの環境の変化に順応しながら成長していくおだろうと思えます。夏には太陽の下で涼しさを自然のなかでさがす行動をしながら遊んでいるように思います。大人のようにすぐに、クーラーのある部屋に飛び込んでしまうと、遊びの楽しさがなくなってしまうように思えます。
野に放て、子どもは小さな体を動かしながら生きる方向を見せつけるものだと思います。
サッカーワールドカップも終わったようです。
日本人もけっこうやれるようなサッカーがみられたのは楽しいワールドカップでした。残念なのは、クロアチアに優勝してほしかったですね。それでも2位です。やっぱり、クロアチアの技術はユーゴスラビアのすばらしい技術だということを改めて記憶した大会でした。
※クロアチア対フランスの決勝は2対4でフランスが勝ちました。もう少しだったのに…。それでも、いい試合をしたのでしょうね。
さて来週一週間は忙しくなりそうです。こうなると「同一労働・同一賃金」が気になってきます。いったいいくつまで働くのだろうかという不安もあります。
今週、バスのなかに忘れ物をしてしまい、バス会社の「忘れ物取扱い」という営業所に行ってきました。忘れ物はすぐに返していただいたのですが、担当のおばさんと、いろいろと話し込んでしまいました。そのおばさん定年は10年前に終わって、70歳になるそうです。家にいるよりは働いていた方がいい層そうです。これまで会社をたくさん異動してきて、今のところがきっと仕事での「終の棲家」のになるようです。私は、どこで何をしたいのだろうと思いました。
忘れ物を手元にもどしてもらって「世の中人の善意で支えられるているんだろうなぁ。でもときどきまれに悪意を持った人とも一緒に暮らしていることを忘れてはいなのだろう。悪意に足を引っ張られたら、どこかで自分を見失っていることだろうと思う。とはいえ、これまで助かったという気持ちさせてくれた人たちのことわ忘れないようにしたいもの…。悪意のみちた人は忘れてしまいたい。それでも絶対許さない人間でいたいと思う」と。
今週はこの辺で失礼します。
暑さもまだまだ続きます。無理のないよう送ってください。
読んでくれた人、ありがとうございました。