日々徒然に

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天気大荒れで被害をみつめて

2018年07月08日 | Weblog

 こんにちは。
 関東地方では、休日は雨模様という当初の予報はちがってよく晴れています。土曜日は千葉県で地震がありました。一方、西日本では天気が大荒れで豪雨が災害が発生していました。各地で河川の氾濫や土砂崩れなどの被害が拡大して救助活動続いています。新聞報道の写真をみていると川の水が氾濫して道や家の境目も埋め尽くしていることがわかります。この梅雨前線はこれからも続いて行くもようとか、大変な状況です。救助も追いつかない状況もあるともなっています。(死者71人不明との新聞報道)

 今日本を被っているのは災難ばかりです。
 集中豪雨、地震、原発の放射能、基地…と安倍政治と思える一週間でもありました。豪雨の中では毎日、雨と風の音と、崩れる音が多い日々です。楽しい人の声より自然の怖さをめのあたりにしている日々だと思えます。(合掌)

 そしてそれぞれの個人への災難。
 今週はいやなことばりの日々でした。




 災難は大きな自然災害のなか、今週私にも災難がありました。
 先月の私の給料が多く払われて、総務の担当者から「過給支払いの件について」の電話があったりました。過給払いについて、三十数年間働いていて初めてのこと(こんなことがあってはならない)。最後は人間の目で確認するそうなのですが、今までミスは聞いたことがありませんでした。翌日、上司や役員が謝罪にきましたが、私の気持ちの中では「何をいまさら…」という怒りでした。

 「始末書」もでてきましたが、何をやっても無駄なように思えました。なんともやりきれないことにも思えました。おそらく、こうなったミスには何らかの伏線があったのでしょう。思い返せば役員の報酬について思い出されました。そのことについて、誰もが気にせずいた結果として私のミスにつながってきたのではないかと思えました。

 それにしても、結局上司も担当者にも「自分のことではない」という深層心理があるのでしょう。そんなことのようにも見えました。
 責任はどうとるのか。紙切れ一枚で終わりにしてしまうような気がします。災難にあった、私のことは返金で終わらせようとしているのが見えかくれしていることがわかりました。

 こういう事例がけっこうあるようです。会社のミスで何カ月も過給支給された返却をもとめた事例でした。そんな場合は、会社は返却を求めることが出来るとなっています。しかし、会社のミスで行なわれたものなので、過給された人は分割で返納していくとができるということです。
 あとは、誰も過給に気づかずそのままいくということです。そのままでいけば、会社の過給部分は何らかの名目で処理されていくのでしょう。(実際は、それはおもてに出てこないようですが)。

 ただでさえ、薄給になりこのうえ傷口に塩をぬるようなことに本当にまいってしまいました。これからは、私がどう返納していくが問われてきそうです。(現在思案中)。
 一部年金支給者になって、その分給料が安くなっていく月の出来事でした。自分たちで契約書をつくっておいて、それはないよ…と思います。それでも、担当者以下責任者の今後はどうなるのでしょうか…。今回もこれからもなんの責任も問われなく終わるのでしょうか。ほんとうにまいった月初めでした。
 誰にも災難があるとうことではないでしょう。ある日突然、病気や事故になったりすることがありまが、それが自分であることはほとんど考えないでしょう。そんなとき、どう乗り越えていくのか…。人それぞれ違うのでしょう。そんなとき、日々の会話が大事だなと覚えます。解決策を少しでも聞ければいいのです。そんなことと、生活をしていくなかでたくさんの問題をかかえて解決の糸口を模索しているように思えます。災難は、なんでも個人で解決するのは最終的判断になるのですが、猶予があればそれに付随したことをいろいろ話す時間が大切なように思えます。




【神頼み】
 人間はわがままなもので、都合が悪くなると「神頼み」のようなことを考えるようです。自然災害によって飢饉なども長い歴史の中で経験してきました。
 人間の力ではどうしようもない自然災害は止めようもできません。受け入れるしかないのだと思います。それでも、いまほど発達した、暮らしやすい環境にしたのは人間です。それも、政治という機会のなかで莫大な税金によってつくってきたのだと思います。しかし、自然災害はそれさえも簡単に破壊して甚大な災害をつくってしまいます。

 川の防波堤を洪水にそなえて工事をしてもそれ以上に自然の驚異的な力のまえでは木の葉のように簡単に破壊されてしまうのが現実でしょう。それも、検証し、もっと強い防波堤をつくることが災害の教訓によって出てくるのだと思えます。そうしたことに税金などをつくのであれば、人は災害にまたむかっていけるし、希望をもつことができるのではないのでしょうか。

 今週、オウム真理教という教団がおこした1995年の地下鉄サリン事件の首謀者と幹部6人の死刑が執行されたというニュースがありました。こちらも、神頼みの人たちの教壇であることにはかわりはないと思います。そして、その信者の人たちは、まじめで人でエリートと呼ばれる人も多くいたといいます。それなのになぜこんな凶悪なカルト集団になってしまった真相はまだ解明されていないということです。そんな中にあって、「死刑」より解明をもっとするべきだという意見もありました。それでもなぜ「死刑」は執行されていったのかはときの法務大臣以下与党の思惑もあるでしょう。

 今回の「死刑執行」について様々な有識者の意見が新聞に載っていました。作家の中村文則さんは「なぜ人がカルトに深入りしていくのか。教義に感銘して信者になるよりも、『やさしくされたい』という気持ちから入る人が多いと思います。そお意味では、この事件の課題は現在につながっています。…コ今回の死刑のやり方はも最悪で、全て最後まで最悪のままだったと思います」と述べています。また映像作家の森達也さんは「無差別殺傷として地下鉄サリン事件はは、多くの人々に直接深刻な影響を与えましたが、社会のありようにも変容をもたらしました。『正義か悪か』という二分論が強まり、悪や敵とまいなされた者を社会から排除する動きが噴出したのです」という宗教の背景をもっと知るべきだという意見がありました。

 事件被害者の救済をしている弁護士の中村裕二さんは「私は、今回の死刑執行は終わりではなく、破壊的なカルト教団と社会がどのように向き合いべきかを考えるスタートだ、とみるべきだと思います。…被害者への健康診断や医療などの取り組みが重要です。国が中心になってやってほしいです。経済状態が苦しく『賠償金を早く欲しい』という声も多くありました。オウムの後継団体『アレフ』が支払うと約束した賠償金を支払わない状態が続いているためです。…被害者救済はまだ道半ばです。…世界が死刑廃止の方向に向かっている中、一日7人もの死刑を執行したことは国際社会の批判も浴びるでしょう」(朝日新聞7月7日掲載されていたもの)

 時代背景によって「神頼み」も内容も変わっていくのしょう。
 さらに、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本県)の宗教関係施設が国際遺産に指定されました。こちらも宗教です。江戸時代の権力者の利用され、最後には弾圧され信者は迫害をうけたことは知られています。遠藤周作の『沈黙』という小説にはこのことが書かれています。信者が迫害されててでも命がけで守ろうといしたものは、キリスト教というより人間として尊厳であったように思える小説でした。

 「宗教」は人間の政争の道具で使われた時代が多々あったと思います。その抗議として事件が起きたことのようにも思えます。「神頼み」のように安易に入りやすい心の拠りどころとしてあります。だから一言にくくって「こわい」という気持ちをもつことは、その時代の反映でもあるということだと思います。非難されるべくは宗教ではなくその時代背景が大きいと思えました。 




 「災難」は生きていれば、いつでも、どこでもついてくる…ように思える一週間でした。それが自分の失敗でか他人の失敗でかが違いくらいではないかと思います。そして、それがどこまで許せるのかという「許容範囲」が問われるものでもあります。「今日範囲」は自分でどうにか解決できる範囲のことを言うのでしょうか。他人がしくじって自分に迷惑をかけたとしても、四苦八苦したものの解決できそうなことなら「仕方ない」と思えてしまいます。それでもまさの犯罪的で人の尊厳にふれるものは、「忘れてもと許せない」こともあるようです。人はけっこういやなことを忘れながら生きているからいいのです。

 大事なことは、忘れられる時間を持つことが大事だとも思えます。「過労死」などは、忘れられる時間もなく体力もなくなったとき起きるではないかと思えます。忘れなくなると眠れなくなりますし、悪くなると「躁鬱」にもあるようにも思えます。もうひとつ、忘れることを助けることができることは、人との会話ではないのでしょうか。

 職場で働いていると再雇用者より若い人の方が圧倒的に多いには話しすらさを日々経験しています。スマホばかり見ている状況では話す機会が奪われいるように見えます。一人の時はいいのですが、何人かでいるときでもスマホばかり見てる人には嫌気さえ覚えます。そんなに大事なことを見てるのでしょうか。いま必要なことなのでしょうか…などと思います。ふと、この若ものたちのストレス解消はどうしているのだろうか…と心配になります。

 河島英五の「酒と泪と男と女」に♪忘れてしまいことや、どういしょうもない寂しささに♪にお酒があります。でも、やっぱり人です。
 老いてくると、他人のことなども考える体力なくなって「勝ってにしろ」と思うばかりの日々です。そのくせ、困ったときはよろしくとわがままです。これは自分も認めるところでしょうか。
 まあ、どうにか一つ一つ考え行動していく中で解決の糸口をみつけていくしなないような気がします。

 それでは今週はこの辺で失礼します。
 とんだ災難に遭われた方にも思いをもって生きていきたいと思います。そして出来る範囲で、出来るところから始めていきたいとものです。
 読んでくれた人、ありがとうございました。