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ぶらぶら人生

心の呟き

「花に嵐の……」

2009-05-30 | 身辺雑記
 ここ幾日も、曇り日が続いている。
 風の強い日もあった。小雨が地面を濡らす日もあった。
 気分も、さえない。

 手近にあった本をぱらぱらめくる。
 寺山修司著『ポケットに名言を』(角川文庫)。(写真①)

 <学生だった私にとっての、最初の「名言」は、井伏鱒二の
   花に嵐のたとえもあるさ
   さよならだけが人生だ
  私はこの詩を口ずさむことで、私自身のクライシス・モメントを何度乗り越え
 たか知れやしなかった。「さよならだけが人生だ」という言葉は、言わば私の処
 世訓である。私の思想は、今やさよなら主義とでも言ったもので、それはさまざ
 まの因習との葛藤、人を画一化してしまう権力悪と正面切って闘う時に、現状維
 持を唱える幾つかの理念に(慣習とその信仰に)さよならを言うことによっての
 み、成り立っているようなところさえ、ある。>

 と、目次 1の「言葉を友人に持とう」の、初めの方に記されていた。
 この短い文章だけ読んでも、寺山修司の生き方に対する信条をうかがえるような気がする。
 が、ここで私が注目したのは、井伏鱒二の詩として取り上げられている名句についてである。
 先日書いたブログで、『ことばの花束』の中から引用した句に、
  <花発(ひら)けば風雨多く 人生 別離足(おお)し> 「唐詩選」
 があった。

 その詩句の名訳が、井伏鱒二の
  <花に嵐のたとえもあるぞ(寺山修司の本では、「あるさ」になっている)
   さよならだけが人生だ>
 であることは知っていた。
 が、その時、この詩の作者やその前にあるはずの詩句が思い出せなかった。
 そのままにしていたところ、今日また、<寺山修司にとっての名言>として、井伏鱒二の名訳に出くわすことになったのだ。

 そこで、井伏鱒二の本を書棚から探し出して調べてみた。
 扉の部分に幾枚かの写真が掲載されている。その中に、井伏鱒二自筆の、この詩句を書いた<書>が見つかったのだった。(写真②)

 その書には、都合よく、原詩も添えられていた。
  <花発多風雨 人生足別離>

 これを手がかりに、作者や五言絶句詩の全体を調べることができた。
 作者は唐の詩人・宇 武陵である。
 詩題は、「勧酒(酒を勧む)」で、友人との別れに際して、お酒を勧める詩である。

   勧君金屈巵  君に勧む 金屈巵(きんくつし)
   満酌不須辞  満酌 辞するを須(もち)ゐず
   花発多風雨  花発(ひら)けば 風雨多し
   人生足別離  人生 別離足(た)る
       (注 「ことばの花束」では、<足(おお)し>と読んでいる。)

 この詩全体を井伏鱒二は、次のように訳している。

   コノサカヅキヲ受ケテクレ
   ドウゾナミナミツガシテオクレ
   ハナニアラシノタトヘモアルゾ
   サヨナラダケガ人生ダ

 学生時代の漢文の時間を思い出した。
 この漢詩を学び、井伏鱒二訳を、その授業で聞いたことも…。
 が、詩全体を思い出すことができず、手元の資料を調べてみた。
 上記の訳文が、『漢詩名句辞典』(大修館書店)の中に出ていた。
 (注 <金屈巵>は、黄金の取っ手の付いた酒盃の意味。巵はさかずき。)

 それにしても、井伏鱒二の訳文<サヨナラダケガ人生ダ>はうまい。
 そのとおりだとしみじみ思う。
 別離の悲哀は、永く生きれば生きるほど、<足し=多し>ということになるだろう。そして、極論すれば、<サヨナラダケガ人生ダ>ということになる。
 さらに、寺山修司氏のような解釈さえ可能にするほど、奥深い。

 調べごとなどしていると、鬱屈しがちな気持ちから、しばらくは開放された。
 昼過ぎ、知己のS氏から電話があった。
 受話器を置いてから、用件はなんだったのだろう? と、思った。
 どう考えても、特別な用があったようには思えない。
 人はふと、人を懐かしむことがるのだろう。
 S氏も、単に、心寂しかっただけなのかもしれない……。

 追記 寺山修司著のカバー絵を面白いなと眺め、誰の作品だろう?と思った。
    カバーの裏面に、<林静一>の名前を見つけた。
    パソコンで調べ、イラストレーター、漫画家として著名な人だと知り、な
    るほどと思った。  


 ①           ②
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