ぶらぶら人生

心の呟き

茨木のり子著 『ハングルへの旅』

2007-06-20 | 身辺雑記

 草花舎のYさんから借りて、『ハングルへ旅』(茨木のり子著)を読んだ。
 この本は、1986年、朝日新聞社から刊行され、さらに1989年、朝日文庫に形を変え、多くの人々に読まれたようだ。私が借りて読んだのも、後者の文庫本である。

 茨木のり子の作品については、かつてのブログにも書いたが、詩集『倚りかからず』(1999年、筑摩書房刊)と、没後に出版された『歳月』(2007年2月、花神社刊)を読んだに過ぎない。それ以外では、初期の詩の幾編かとエッセイの二、三編を読んでいる程度で、名前はよく知っていても、その実を知らない詩人といっていい。

 1975年、ご主人と死別。その後、長い歳月をひとりで生きた人であることなども、『歳月』を読むまでは知らなかった。したがって、ハングルとの関わりなど、知る由もなかった。
 このたび改めて、『歳月』に付された<茨木のり子著作目録>に目を通し、『ハングルへの旅』の出版後に、『韓国現代詩選』<訳編>(1992年、花神社刊)という、ハングルに関連した著作のあることも知った。

 この本は、茨木のり子の、50代から学び始めたハングルが、生半可なものではなかったとことの証のような著作である。
 『ハングルへの旅』は、ハングルを学び始めて10年後に書かれた本である。
 <隣国語の魅力、おもしろさに、いろんな角度から光りをあてて、日本人、特に若い人たちに「私もやってみようかな」と、ふと心の動くような、いわば誘惑の書をかきたかったのである。>
 と、作品を書くに至った経緯や意図を「あとがき」に述べている。

 すでに、<日暮れて道遠し>の年齢に至った私自身は、改めて隣国語を学ぼうと誘発されることはなかったが、それでも、この本は十分読みごたえがあった。一番近いお隣の国なのに、あまりにも知らなさ過ぎることが多いことにも気づかされた。
 言語の問題に限らず、生活習慣、文化に至るまで……。
 例えば、表紙カバー(写真)の装丁は、韓国の指貫をあしらったものだという。
 私の学生時代に使った指貫とはまるで違う。実に可愛らしくて、お裁縫も楽しくなりそうだ。(が、具体的な使い方はよく分からない。どんなふうに、この指貫に針を当てるのだろう?) 
 これなどは、実に些細なことなのだが、この一例をもってしても分かるように、国が違えば、あらゆる面で、みなそれぞれ異なるという当たり前なことを、新たな驚きを伴って知ることができた。
 数え上げればきりがないほど、異文化の魅力に触れることができた。
 生活習慣(例えば食事作法や行儀作法)などの違い等々。
 こうした違いは、どれがよくてどれが悪いといった問題ではないだろう。それぞれの伝統の違いに過ぎないことに対しても、かつては、自国の価値基準で他を律しようとする非を重ねてきた。そんな歴史のことなども思い起こさせ、考えさせる書でもあった。
 
 中国、韓国、日本など、表記の母体が漢字という共通点を持ちながら、それぞれが大きく異なるのもおもしろい。
 例えば、「工夫」という表記一つをとってみても、韓国では<勉強>の意であり、中国では<時間、暇、腕まえ>を表し、日本では、<いろいろ考えてよい方法を得ようとすること>といった具合に、字面が同じでも、読み方も意味も異なるという事実。
 作者は、<日本語とハングルの間>の章で、具体例をたくさん挙げ、相通じる面や異なる面を教えてくれている。

 私にとっては、ハングルの、あの記号的な文字が、実に煩瑣に思えるのだが、本来は発音記号として、世宗大王によって、約500年前に考案され、文字化されたものであるという。それによって、それまで無知蒙昧とされた多くの人たちが、読み書きできるようになったというのだから、世宗大王の業績は大きい。そうした歴史を知るのも嬉しいことだった。
 中国の簡体字の歴史の浅さから、同じように新しい表記法かと勝手に思っていたのだが……。

 読み物としておもしろかったのは、<旅の記憶>や<こちら側とむこう側>などの章だった。詩人の感性や鋭い目で捉えた世界が、詩人の豊かな表現で記されていてるので、読んでいて飽くことがなかった。
 作者が最後に取り上げた詩人のことは、忘れられない。
 罪もないのに、悲しく短い生を強いられた詩人<尹東柱(ユンドンジュ)>。
 その名も、その生涯も初めて知って、ひどく胸が痛んだ。
 幾つかの詩が紹介されてはいたが、もっと多くの詩を読んでみたい。1984年に伊吹郷氏によって完訳された、全詩集『空と風と星と詩』(記録社)があるという。
 入手可能なら、ぜひ読みたいと思っている。


 私的なことだが、この本を読みながら、ただ一度、朝鮮の一家と身近に暮らした日々のことを思い出した。遠い昔、小学校の低学年のころのことである。
 その一家には、私より二、三歳年上の、学齢の異なる同級生の女の子がいた。その兄はすでに上級学校の生徒だったが、優秀な人だと聞いていた。二人の子供は、私たちとなんら変わるところがなかった。が、その両親は、子供の目からも、いかにも異国の風習を生きる人に見えた。
 私の母が妹を出産した後のことだったと思う。
 その当時の、とある日のことが忘れられない。
 隣家の母親が、私の母の体調を案じ、たどたどしい日本語で、
 「オクサン、コレ ノメ。 エット、ジョウニナル」
 (奥さん、これをお飲みなさい。非常に滋養になるから。)
 と、山羊の乳を届けてくださったのだ。今でも、言葉の響きとその場の光景を鮮明に覚えている。母はその好意を喜び、いただいた山羊の乳を嬉しそうに飲んだ。それを見届け、隣の人は帰ってゆかれた。
 十歳にならぬ前のことなのだが、ほのぼのとした思い出として、しっかり心にとどまっている。
 今思えば、母は、他人に対し、差別や偏見を持たない人間だった。それだけに、隣人からもやさしさを送られていたのだと思う。

 それだけでなく、日ごろから、母は、隣家の生活を見て、いいと思うもことは、自分の生活に取り入れたりもしていた。
 例えば、洗濯の方法。今のように、洗濯機のない時代、母は、あの波型の洗濯板で、大家族の衣類を、ごしごし洗っていたのだが、あるときから隣家の洗濯法をまね、これは効率がいいと、以後長く実践した。それは洗濯物を棒でたたいたり、足で踏んだりして汚れを落とす方法であった。

 その家族と隣り合って生活したのは二年だけだった。父の転勤で、私の一家が引っ越した後、戦中戦後を、どのように過ごされたのか知る由もないのだが……。
 偏見差別が当たり前であった時代、理不尽な言動を見聞きするなかで、それを全くしなかった母から、子供ながらに、私はひとつの生き方を学んだように思う。――そんな自らの思い出も心に去来させながら、この本を読んだのだった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 6月の庭 (ヘリクリサム) | トップ | 店先で (オランダイチゴ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿