今日、知った言葉、二つ。
その1 「ジャネの法則」
その2 「摘便」
私が知らなかっただけで、二つとも、常識的な言葉なのかもしれない。
多分、そうだろう。
前者は、「あすか新聞」(平成28年12月号 編集後記《入口に置いてあったもの》)を読んで。
後者は、今日の「朝日新聞」のエッセイ 『野の花 あったか話』 (徳永進)《毎週、土曜日に掲載》を読んで。
「ジャネの法則」とは?
ポール・ジャネ(19世紀のフランスの哲学者)が発案したことを、甥の心理学者ピエール・ジャネが著書で紹介した法則で、
<生涯のある時期における時間の心理的長さは、年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)>
という考え方のようだ。
だから、歳を重ねるごとに、一年がますます早く過ぎ去るように感じられるというのだ。
が、私はもっと単純に考えている。
心身が老いると、万事に要領が悪くなり、例えば、このブログ一つを投稿するのにも、以前のようにさっさと文章がまとまらない。
思考力も、表現力も、鈍くなっている。
それでも、長く生きてきただけに、良否の判断だけはできるので、少しでもいい文章にしようと苦労する。
その結果、さらに余計な時間がかかってしまう。
かつては10分で歩けた距離を、今は、15分くらいかけて歩いている。
一事が万事! である。
当然、一日になし得ることが大きく減少し、一年になし得ることも、大きく減少する。
その状況が、日々が瞬く間に過ぎてしまうような気分にさせるのだろう。
老いからくる衰えは、個人差があるにしても、厄介至極なものだと思う。
それでも、何とか日々を楽しんで生きようと、努めてはいるつもりである。
「摘便」について
徳永進さんのエッセイは、毎回読んでいる。
(これまでにも、ブログに書いた記憶はあるが、その内容は思い出せない……。)
いつも、ほんわかした温かみのあるエッセイだ。
今日は、<来たか、冬>という題であった。
雪深い季節の往診について、書かれた文章である。
その中に、
…「待っとりました」と88歳の女性。「便秘で腹張って」。摘便すると
ヤギさんのような便が20個くらい。摘便の指にも力がこもる。…
とあるのを読み、摘便という治療法が、歴然と存在することを知った。
排便がうまくいかないときは、浣腸するしかないのだろうと、私は思っていたのだ。
そこで、自らの災難(尋常な苦痛ではなかった)は、浣腸にすがるしかないと判断し、せっかくの日曜日なのに、甥夫婦に買い物を頼んだ。
が、2時間余り苦しんだのち、浣腸が届く前に、なんとか目的が達せられた。(老いは大変!と、またまた思う。)
上記の引用文中の<ヤギさんのような便>を読んだとき、ふと、晩年の父の言葉を思い出した。
「小さな直方体の便が出るが、どうしてかなあ?」
と、呟いたのを。
無駄口の少ない父のつぶやきには、不安が潜んでいたのでは?
その時、私は本気で父の不安に向き合うことなく、数学の教師だった父の言は、便の表現も数学的だなと思ったのだ。
私は今、自身が老いて、父の抱いたであろう不安に、真摯な向き合い方が足りなかったのでは?
と、自省している。
今になって気づいても、どうしようもないけれど…。
83歳の最後は、取り返しようのない<自省の日>となった。
その1 「ジャネの法則」
その2 「摘便」
私が知らなかっただけで、二つとも、常識的な言葉なのかもしれない。
多分、そうだろう。
前者は、「あすか新聞」(平成28年12月号 編集後記《入口に置いてあったもの》)を読んで。
後者は、今日の「朝日新聞」のエッセイ 『野の花 あったか話』 (徳永進)《毎週、土曜日に掲載》を読んで。
「ジャネの法則」とは?
ポール・ジャネ(19世紀のフランスの哲学者)が発案したことを、甥の心理学者ピエール・ジャネが著書で紹介した法則で、
<生涯のある時期における時間の心理的長さは、年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)>
という考え方のようだ。
だから、歳を重ねるごとに、一年がますます早く過ぎ去るように感じられるというのだ。
が、私はもっと単純に考えている。
心身が老いると、万事に要領が悪くなり、例えば、このブログ一つを投稿するのにも、以前のようにさっさと文章がまとまらない。
思考力も、表現力も、鈍くなっている。
それでも、長く生きてきただけに、良否の判断だけはできるので、少しでもいい文章にしようと苦労する。
その結果、さらに余計な時間がかかってしまう。
かつては10分で歩けた距離を、今は、15分くらいかけて歩いている。
一事が万事! である。
当然、一日になし得ることが大きく減少し、一年になし得ることも、大きく減少する。
その状況が、日々が瞬く間に過ぎてしまうような気分にさせるのだろう。
老いからくる衰えは、個人差があるにしても、厄介至極なものだと思う。
それでも、何とか日々を楽しんで生きようと、努めてはいるつもりである。
「摘便」について
徳永進さんのエッセイは、毎回読んでいる。
(これまでにも、ブログに書いた記憶はあるが、その内容は思い出せない……。)
いつも、ほんわかした温かみのあるエッセイだ。
今日は、<来たか、冬>という題であった。
雪深い季節の往診について、書かれた文章である。
その中に、
…「待っとりました」と88歳の女性。「便秘で腹張って」。摘便すると
ヤギさんのような便が20個くらい。摘便の指にも力がこもる。…
とあるのを読み、摘便という治療法が、歴然と存在することを知った。
排便がうまくいかないときは、浣腸するしかないのだろうと、私は思っていたのだ。
そこで、自らの災難(尋常な苦痛ではなかった)は、浣腸にすがるしかないと判断し、せっかくの日曜日なのに、甥夫婦に買い物を頼んだ。
が、2時間余り苦しんだのち、浣腸が届く前に、なんとか目的が達せられた。(老いは大変!と、またまた思う。)
上記の引用文中の<ヤギさんのような便>を読んだとき、ふと、晩年の父の言葉を思い出した。
「小さな直方体の便が出るが、どうしてかなあ?」
と、呟いたのを。
無駄口の少ない父のつぶやきには、不安が潜んでいたのでは?
その時、私は本気で父の不安に向き合うことなく、数学の教師だった父の言は、便の表現も数学的だなと思ったのだ。
私は今、自身が老いて、父の抱いたであろう不安に、真摯な向き合い方が足りなかったのでは?
と、自省している。
今になって気づいても、どうしようもないけれど…。
83歳の最後は、取り返しようのない<自省の日>となった。