ぶらぶら人生

心の呟き

赤い実 8 (檀の実)

2006-11-24 | 散歩道
 この木は、以前から存在を知っている。初夏のころ、花を眺めながら、何の木だろう? と、思ったことがある。カメラにも収めたはずだ。
 今朝の散歩で、赤い実がたくさんついているのに気づいた。毎朝、木の傍を通りながら、今まで気づかなかったのは、反対側の崖に咲く菊の花ばかり眺めていたかららしい。
 赤い実をカメラに収めた。(写真)
 ちょうどその時、顔だけは見知っている人に出会った。
 朝の挨拶を交わした後、
 「この木は何でしょう?」
 と、尋ねてみた。
 「まゆみ、です。……白い実のなる木もありますよ」
 と、教えてくださった。
 「あれも、まゆみ。あちらは実が少ないですね」
 指差された方向を見ると、数歩離れた位置に、少量の赤い実をつけた木があった。
 「暫くすると、実がはじけて結構きれいです」
 とも、教えてくださった。
 はじけた実は、どんな姿になるのだろう? 朝の散歩の楽しみが、また一つ加わった。
 <ああ、これが、まゆみ>と、もう一度眺め直し、急に一木に親しみを覚えた。長年、その名を知りながら、そして、その木を眺めていながら、まゆみとは知らなかった私は、今日新たに、友人を得た思いだった。これからは、四季折々、この木との語らいをすることになるだろう。

 「まゆみ」は、漢字では「檀」や「真弓」の字が当てられる。別名では「山錦木」とも言うそうだ。
 その材は、将棋の駒やこけしを作るのに使われ、昔は弓を作るのに使われたことから「真弓」の字が当てられたらしい。
 女の子の名前にもよくあり、音の響きがかわいらしい。
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赤い実 7 (柊の実)

2006-11-24 | 散歩道
 散歩の途次、花がたくさん植えてある家の主に会い、呼び止められた。
 「ブルースターの花を上げましょう。挿し木にしてみてください」
 と言われ、主について家の横に廻ってみた。
 道路側から見える範囲の草花は、以前から楽しませてもらっていたのだが、家横には、更に所狭しと鉢やプランターが並び、様々な植物が栽培されている。

 見ると、赤い実をつけた木がある。(写真。撮り方がまずく、余分なものまで入ってしまった。柊は右側の木。)
 「あれは?」と尋ねると、「柊です」との返事。
 なるほど葉には、柊独特の棘がある。柊があんな赤い実をつけるとは知らなかった。
 家にある柊は、葉の色が異なる。今まで、葉にしか目が止まらなかったが、それぞれの時期には、ひそやかに花を咲かせ、それなりの実をつけているのだろうか?
 詳しいことは分からないが、種類の多い木なのかもしれない。

 柊といえば、垣根として聳えていた、東京の全生病院を思い出す。そこを訪れたのが、何年だったか、定かには思い出せない。夏であったことだけは確かである。
 『いのちの初夜』などを書き残した作家、北条民雄について研究中だった師のお供で、光岡良二氏を全生病院に訪ねたのだった。その時いただいた光岡氏の著書、北条民雄について書かれた『いのちの火影』の出版が昭和45年だから、それよりは後のことだろう。
 アルバムを探せば、柊の垣根の前で、光岡氏と並んで撮った写真があるはずだが、すぐには出てきそうにない。
 書棚から、『いのちの火影』を取り出して、めくってみた。北条民雄の随筆に、『柊の垣にかこまれて』という作品のあることを知った。そこで、私の持っている文庫本『北条民雄集』(新潮社)を、早速開けてみたが、残念ながら、その随筆は載っていなかった。
 私の胸内には、あの柊の垣根が、異様な寂しさを伴って、印象深く残っている。
 全生病院での生活を余儀なくされ、終の棲家とせざるを得なかった光岡氏や北条民雄は、どんな思いで、あの棘を持つ柊の垣根を、眺めておられたのであろうか。
 今もあの垣根は存在し、この季節、赤い実をつけているのだろうか、などと思いながら、帰途、遠い昔を思い出したのだった。
 読みたい本、読まねばならない本がたくさんある。その中に光岡良二、北條民雄の本も加えることにしたい。
 
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赤い実 6 (紅紫檀)

2006-11-24 | 身辺雑記
 鉢の中の赤い実。
 紅紫檀(べにしたん)、またの名をコトネアスターというのだそうだ。(写真)
 一昨年、「新ミニ盆栽」<毎月届く、小さな大自然>という広告に魅せられて、つい衝動注文をしてしまった。植物の栽培にそう熱意があるわけでもないのに……。
 求めた鉢の12個中、既にだめにしたものもある。
 木瓜と黄梅の二鉢は、義弟に頼んで再生させてもらった。

 この紅紫檀は、一昨年の11月に配送されてきた。
 始めから、針金で形が整えられていた。自由を拘束され、哀れである。自然に任せれば、どんな形になるのだろう?
 大きくもならず、赤い実だけはつけている。
 
 この木を見るごとに、中原中也の詩句を思い出す。

 わが生は、下手な植木師らに
 あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!(『山羊の歌』「つみびとの歌」)

 型にはめることは、人間にとっても、植物にとっても、あまり好ましいこととは思えない。私はあるがまま、自然であることを好む。
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赤い実 5 (千両)

2006-11-24 | 散歩道
 散歩道、道路に面した他家の庭先に、千両の赤い実を見つけた。(写真)
 普通は、「万両」に対し、「千両」と書かれることが多いようだが、「千蓼」の字が当てられたり、別名「草珊瑚」と呼ばれたりするようだ。
 品よく、緑の葉に乗るように赤い実をつけ、姿形も色の取り合わせも美しい。
 お正月用の花として喜ばれる理由も納得できる。

 家の花壇に、二年前、庭師さんに頼んで千両を植えてもらったのだが、うまく根付かなかった。今も、十数センチほどの丈に、数枚の葉のついた茎が残ってはいるが、成長するかどうか心もとない。遠からず、完全に消滅しそうな気配である。
 万両は、鳥が種を運んだらしく、実をつけるまでに成長した二本の木と、年ごと大きくなりつつある木と、計三本ある。
 今庭に降り立ってみたところ、まだ真っ赤にはなっていないが、淡黄緑色に赤みのさしたつややかな実は、アクセサリーとして胸に飾りたくなるような美しさだ。小さい方の木にも、十個あまりの実がなっていた。
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