ぶらぶら人生

心の呟き

枇杷の花

2006-11-03 | 散歩道
 今日は、11月3日。文化の日。三連休の初日。
 365日が、みな休日の私にとっては何の感慨もなく、ただ新たな日として、今日を迎えるだけなのだが……。

 朝の散歩で浜辺に出てみると、磯釣りの人が多い。
 <今日は何の日?>と考え、祝日であることに気づく。
 駐車場に<大分ナンバー>の車が止まっていた。はるばるここまで来なくても、と一瞬思う。が、釣り人には、釣り人の思いがあるのだろう。釣れる魚の種類が違うのかもしれないし、夢を釣りに来ているのかもしれない。
 私だって、海辺に住みながら、他県の海を見に旅をする。山が側にあるのに、山を見に、はるばる出かけたりもする。何か夢を探したり、思い出との再会を楽しみにしたり、旅立ちには、様々な思いが交錯するものだ……。
 そう考えてみると、釣りをしながら、全国津津浦浦旅をする人があっても、不思議なことではない。釣り道具を道連れに、外国に出かける人がいたって、おかしくはない。

 散歩していて、今朝は、枇杷の花が咲いているのに気づいた。(写真)
 かなり前から、葉の付け根に、淡黄色の小さな球形状のものが群がっていた。枇杷の花かしら? などと思って眺めていたのだ。
 今朝、花が咲いたのを見て、あれは蕾だったと知った。

 以前住んでいた家の脇に、枇杷の木があった。その木には、お店で売っている、やや長めの実ではなく、まん丸な小さな実がよく実った。実の色も、オレンジ色が濃いめだった。中には大きな種があって、果肉は少なかったが、店頭に並ぶ枇杷とは比較にならないほど、甘味が多く、おいしかった。
 家の側にあったのだから、枇杷の蕾も花も見てきたはずである。
 しかし、今になって、これが枇杷の花! と、改めて眺めているのだ。人間は、何かに目を泳がせても見てはいず、音を耳にしても、全く聞いていないことは多いようだ。
 心が伴わなければ、見えもせず聞こえもしない、ということらしい。

 歳時記を開き、「枇杷の花」の項を読んでいたら、
  枇杷咲くか裏庭とんと用のなく  大橋敦子
  裏口へ廻る用向き枇杷の花   山崎ひさを
 といった句に会い、案外身近にありながら、人との関わりは、そう密でない花のようにも思った。実が熟すれば、食す楽しみを忘れなくても。
 よく見れば、心に残る、私好みの花である。
 歳時記には、<初冬に黄をおびた白く小さい五弁花が多数集まって咲く。芳香はあるが、概して慎ましい、地味、寂しい、ひっそりという印象が強い。……冬の静かな景に似合う花である。[長尾美保]>と書かれている。
 樹下に佇んだとき、芳香は感じなかったが、もっと近づけばほのかな香りがあるのだろうか。
 花盛りはこれからである。
 散歩の途次、目にする枇杷の木は、所を違えて二本。
 花が増え、風の向きによっては、その芳香を楽しめるのかも知れない。
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水不足

2006-11-03 | 身辺雑記

 今年は紅葉の時期が遅れているらしい。
 十月は暖かな日が多かった。朝夕の冷え込みも、さほど厳しくなかった。紅葉の条件を満たすには、気象条件が大いに影響するらしい。
 私の家には、三本のモミジの木があるのだが、近年きれいに色づいたことがない。しかも、落葉が早い。
 先日、植物に詳しい義弟に、理由を尋ねてみた。
 「多分、水不足でしょう」
 との返事だった。
 根の張り方によっては、水不足のこたえない木もあるけれど、モミジはだめらしい。夏が暑かったし、大体に雨量も少なかった。それなのに、水をやることをしなかった。さらに、家の庭は、もともと土質がよくない。岩盤を砕いてできた土地なので。

 如雨露で水遣りするのは、鉢物だけ。庭木は無視してきた。
 家のモミジの紅葉加減を見ると、葉先がみな茶色になっている。(写真)
 紅葉の美しさとは程遠い。
 私は、義弟の言葉に、なるほどと納得した。
 生きとし生けるもの、愛情なくしては、うまく育たないのだと。
 その日以来、鉢物に水を与えるとき、モミジにも、如雨露一杯分の水を注ぐことにした。来年は、美しい紅葉を見せてくれと念じながら。

 先刻、妹にそのことを電話で伝えたところ、
 「冬の間はやらなくてもいいと思う。春先になってから、雨のない日にやる程度にしたら……」
 とのこと。
 過保護も、命を生かすことにはならないということらしい。
 難しい!

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