ぶらぶら人生

心の呟き

堤中納言物語

2006-06-11 | 身辺雑記
 先日のブログに、「桑の実 熟す」と題した原稿を書いた。その中で、幼かった昔、あの、白くぬんめりとした蚕に、どうしてもなじめなかったことを記した。今でも、ぬめぬめとした感じの生きものは好きになれない。蛇、蚯蚓、ナメクジなど、大から小まで、気味が悪い。いくら命あるものを愛護せよ、と言われても、感覚としてどうにもならない。理屈ではないのだ。
 私は、あの原稿を書きながら、ふと高校時代に、古典の学習として学んだ『堤中納言物語』を思い出したのだった。十篇の短編からなる物語の、全部を学習したのかどうかは思い出せないが、その中の異色作品「虫めづる姫君」は、とりわけ印象深かったので覚えている。
 <毛虫を愛する姫君>は、私にしてみれば、まるで異世界を生きる女性だった。しかし、その物語は、無類に面白かったという記憶がある。一体、何がどのように面白かったのか、説明を求められれば、説得力のある十分な解答など、できそうにもないのだが……。
 この際、久々に古典作品を読み返し、あの面白さはなんだったのか、考えてみるのもいいと思い、『日本古典文学体系』13巻を取り出してきた。

 『堤中納言物語』を学んだのが、高校の二年生だったか、三年生であったかもよく覚えていない。先生は、ニックネームを「茶瓶」といった。あの先生くらい綽名がまかり通っていた先生は珍しい。皆が「茶瓶」としか言わなかったので、なかなかお名前を思い出せない。が、確か、「竹○先生」とおっしゃったような気がする。
 度のきつい眼鏡をかけていらっしゃった。別に怖い印象はなかったが、ニックネームの由来は、茶瓶の如くよく沸騰なさるからだと聞いていた。怒りっぽい先生だったのだろう。
 ところが、私たちの授業中に、一度もその特性を発揮なさったことはない。私のクラスが優秀な生徒ぞろい(?)だったのか、先生も次第にお年を召され、往年の覇気をなくしていらっしゃったのか、その辺のことは定かでない。
 「虫めづる姫君」の、文学としての面白さを、どのように解き明かしてくださったのかも、思い出せない。いたずらに大学受験の勉強として、古語文法や古語の意味を習得することに懸命であったのか、自らの学習姿勢についても、記憶は曖昧模糊としている。

 いずれ「虫めづる姫君」を読み返してから、感想を記すことにしよう。

 (実は今、私はとてもしょげ返っている。というのは、昨日投稿したブログが、何のはずみか分からぬまま、完全に消失してしまったのだ。「面白かった鼎談記事」と題して、3000字を越えた長文を結構楽しみながら書いて、投稿したのだった。今朝開いた時には存在したのに、先刻開けたとき、何か操作を誤ったのだろうか? 題名だけが残って、肝心な中身が消えた。残念至極で、今日はこれ以上書く元気がない! )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする