ぶらぶら人生

心の呟き

えーと、あれは? 

2006-06-05 | 身辺雑記

 M駅に降り立ち、広場に出たところで、私は一人の男性に偶然出会った。二十年ほど前に、同じ職場で、一緒に働いていた人だ。
 「お久しぶりです。」
と、久闊を叙し、
 「杖などついて、どうなさったのですか?」
と、無遠慮ながら、その程度の単刀直入な質問は赦されそうな気がして尋ねた。
 「もう心身ともにだめ。……あなたは、いつまでも若々しくて。」
 若々しくあるはずはない。が、彼に比べれば、私が年齢的に少し若いし、いちおう挨拶語と受け取り、暫く立ち話することになった。

 何をもって人間の幸・不幸を量ればよいのか、基準を定めることは難しい。が、彼の現在の姿に、私は、いささか寂寥を覚えてしまったのだ。経済的に不如意なはずもなく、杖にすがりながらでも自分で歩き、人の手を借りずに、自立して生活できるというのは、今年喜寿を迎える人にとって、そう嘆かわしいことでもない。が、なんとなく彼の身辺に漂う、孤独な寂寞感が否めなかったのだ。
 老いの発する、何か大切なものが抜け落ちてしまったような、独特な雰囲気?
 これは人事ではない。私自身も、われ知らず醸し出している雰囲気なのかもしれないのだ……。 
 風聞として、彼の妻なる人は、認知症だと聞いていた。
 「奥様は?」
と尋ねると、
 「あれはもうずっと前から病院に居る。」
との返事。やはり風の噂は本当らしい。
 「じゃあ、今おひとりですか?」
と尋ねると、<今は××市の次男宅で世話になっている。好きなお酒だけが楽しみで、息子の嫁が、毎晩用意してくれる>と語った時、初めて彼の顔がほころんだ。
 ××市は、隣県の町で、列車に乗って一時間のところだ。
 お金を下ろしに来たり、妻の見舞いに行ったり、折々M市に帰ってくるとのことだった。今日もいずれかの用事で、長年住み慣れた町を訪問、ということなのだろう。
 「次にお会いするまでお元気で!」
 「あなたも、どうぞお元気で!」 

 この原稿の主眼は、むしろ、この後に続く出来事にある。
 私は、どこか寂しそうな、かつての同僚と別れた後、突如、私の頭を襲った霧のような靄のようなものに悩まされたのだ。
 今、親しく言葉を交わした人の名は?
 えーと、あれは、なんとおっしゃる方だったかしら?
 銀行に寄って通帳記載をしようと、その方向に歩きながら、考える。すっと名前が出てこない。
 あいにく通帳記載の余白がなくなり、窓口に回るようにと、器械の声が指示した。窓口に通帳を預け、番号札を貰って、椅子にかけた。その間も、あの方は? と、頭の中の記憶装置は、忙しく答えを探し回っている。
 ア行音の名前ではないし、カ行でもないし、サ行? と、考えていた時、
 「あら、こんにちは」と、声をかけられた。
 慌てて現実に返る。パソコン教室の副社長・○○さんだ。
 記憶装置の方はひとまず停止させ、○○さんと相対す。パソコンを使っていると、しばしば疑問が生じる。どうにも先へ進めなくなると、会社に電話し、指導を仰ぐことが多い。いつも親切に対応していただくので、そのお礼を言う。

 一瞬、○○さんに声をかけられたとき、私はどんな表情をしていただろう? と考える。
 私は人中にありながら、ひとりの世界に浸っていることが多い。したがって、こちらから人に声をかけるより、かけられる方が遥かに多い。
 しかも、その時は、完全に記憶装置の中に閉じこもっていたので、外の世界とは遮断状態だった。人は居ても、居ないのと同じだった。
 焦点のない、虚ろな顔をしていたのだろうか。或いは真剣そのものの顔をしていたのだろうか。
 そう考えた時、ふと、八木保義の、最近読んだばかりの歌を思い出した。
 いささかの問につまりて居る吾のいかなる面をしてゐつらむか
 
私の場合は、人からの問ではない。が、状況は似たようなものだ。自ら発した疑問に自ら答えられなくなって、考え込んでいる状態は同じだ。
 <いかなる面をしてゐつらむか>と、気になったのは瞬間で、また私は記憶装置の世界に戻っていった。

 窓口係りの女性が、やや声を大きくして、二度目の呼び出しをしたとき、やっと私が呼ばれていることに気づいた。
 新旧二冊の通帳を受け取って、外に出た。
 頭は、サ行音の名前からタ行に入り、ナ行に至っている。
 どうもナ行音のようだ。かなり解答への距離が縮まったような気がする。
 ナ行には、結構知人が多い。ナ音で、彼とは関係のない故人の名前が思い浮かび、取り留めのない思い出までもが心を掠めた。
 銀行を出て十メートルばかり歩いたところだった。突如、霧が晴れた。
 「野○ ○○!」
 <そうだ、「野○ ○○さん」、どうしてそれがさっと出てこないんだろう!? 一年に一度ではあるが、賀状も交換しているというのに>と、訝る。 
 しかし、ナ行音であることは正しかった。
 
 一人の名前を思い出すのに、どうしてこうも迂回しなくてはならないのだろう? これが典型的な老いの現象というものかもしれない。箪笥の引き出しをあけ、ここでもない、ではあちらかな、と衣類を探す時と全く同じやり方で、やっとたどり着いた、かつての同僚の名前。赤瀬川原平「老人力」を思い出し、自らを慰めてみたが、なんだかひどく無駄な時間を費やしてしまったような気がして、気分の方は、頭の霧が晴れた割合には、すっきりしない。
 <これ以上、年は取りたくないな>と、心に呟く。
 最近、脳に関する本を二冊読んでみたが、脳の働きを活性化するためによいとされる単純計算や音読など、実生活に取り入れる気には、まだなれないでいる。でもそんな猶予はないのかもしれない。
 案外楽天的な私は、先ほどまでの難儀な格闘は忘れ、<まあいいか、年相応の老人力というものだろう>と思い諦め、老境に入る自分を、ひとり戯画化して楽しむのもいいかもしれない、などとも考えてしまうのだった。

 ところで、彼の方は、私の名前が分かっていたのだろうか? 今頃、彼の方も、<あれ、今の人、名前なんといったっけ?>と、暗中模索のさ中かもしれない。
 そう思うと、急におかしくなってきた。
 

コメント (1)
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