ブルーベルだけど

君にはどうでもいいことばかりだね

時の流れに Ⅳ

2016-04-23 12:26:59 | 日記
勿論こんなかっこ良くなかったし、16歳で家を出てバンドを転々としながら放浪の旅に ・・・ とはいかなかったけど、僕は第一志望の高校に合格した。


穏やかな日に指定の販売所で教科書一式を買い、兄が大学進学で一人暮らしを始めると、ステレオを一人占めした。 オレンジ色のスタイラスが奏でる Tubular Bells は柔らかく骨太で、曲の持つ独特の閉塞感、孤独感を覚えながら春の陽が暖かい部屋でのんびりできた。

兄の勉強部屋だった2階の3帖板間へ持ち込んだコンクリートブロックにスピーカーを載せ、雰囲気満点となったささやかなオーディオルームに籠り、父がなぜか「寝酒にいいらしい」と持ってきた〝赤玉ハニーワイン(一升瓶入り!)〟を飲みながら、音楽に酔いしれた。


入学式当日には同級生に素敵な女の子がいることを知る。 この子、実は剣道の有段者で結構手強かった。 1年次の教室は1階。 窓から顔を出すと右手に渡り廊下。 その傍では栗の花が独特の臭気を発し、渡り廊下のこちら側にはリンゴジュースの自動販売機があった。 そんな教室で人生の恩師に出会う。

小~中と、当時は暴力教師がいて、「口のききかたが ・・・」などと殴られていたので、目上に対する言葉遣いは妙に丁寧だった。 そんなある日、窓にもたれ外を眺めていると、担任が横で同じポーズをとり話しかけてきた。

思わず飼い馴らされた口調で応じると優しい笑顔を向け、「〇〇(←僕の名前)~、なんでそんなかしこまってんのー?」と素っ頓狂な声で言われ、驚くと同時に、教師への憎しみで塗り固めた壁が崩れた。

その教師の担当は英語。 お世辞にも発音が上手いとは言えなかったが、授業が面白くて飽きなかった。 僕はすぐに打ち解け、時には家まで車で送ってもらったり、「先生、これがこれから世界の主流になる音楽です」などと Rainbow On Stage の収録カセットを渡したり、先生宅にお邪魔して焼肉をご馳走になったりしていた。

その先生は生徒と禁断の恋に落ち結婚。 先生の奥様と言うより、部活の先輩のような姿の若く綺麗な女性を目前に緊張気味の焼肉も、「〇〇(←僕の名前)~、おまえ箸の使い方下手くそだなー」との先生の叱咤激励を受け、美味さにも負け何度もご飯をお替わりした。


・・・・・・・ 高校卒業から20年以上経ったある日、深夜にトイレへ入ると足音が近づき扉を隔てた直近で消えた。 胸騒ぎがしてPCを起動し、溜めていたメールの中に兄からの知らせを見つけることができた。

翌日は仕事を途中放棄し早めに切り上げて故郷へと駆けつけ、通夜に参列した。 振る舞いがなかったのか、ギリギリの時刻は人気もまばら。 帰途では車窓の向こうの灯りが砕けていた。 安〇先生 ・・・ 返せぬ恩義は永遠のものになった ・・・・・・・


本人ですら忘れつつあった一連の想い出を、あのカセットを車でよく聴いていたことを、癌で亡くなる間際まで嬉しそうに話していたと、当時病棟薬剤師をしていた兄から聞いた。 教師という仕事がいかに尊く、いかに有難い存在かを思い知った。


掛け替えのないひととの出会いをプレゼントしてくれた高校入学 ・・・ 坊主頭が校則だった中学時代の余波を払拭するため、僕は髪を伸ばし始めた。
 

自由な気風の高校だった。 他校で鉄パイプの櫓が崩れ怪我人が出たという前年の事故を受け、入学した年には「イベントにおけるデコレーションは自粛」との通達が県から出されていた。 ところがある日の放課後、突然生徒会長の声が校内放送から鳴り渡る。 「全校生徒はグラウンドに集合するように」と。 その日は体育祭の準備で大勢残っていた。

面白半分で校庭へ出ると生徒会長が真剣な面持で朝礼台に上がり「自粛とはけしからん。 権利を奪う横暴を許してはならない。 責任を持って賛同する者は挙手を」と発声。 全校の腕は垂直に立ち並び、皆大きな声を上げ、満場一致となった。 間近で毅然と静視していた白髪の校長はこれを受諾。 僕らは高揚し、誰にも誇れる学校であることを確信した。

即刻、保管庫を堂々と開錠して資材を運び出し、慎重に組み立てを開始した。 今思えば、校長の重い覚悟が身に染みる。 僕らは全く子供だが、子供なりに、「自由」「権利」「責任」などという慣れない言葉を心に刻んでいた。 この出来事がなければ軽薄な快楽主義者になっていたかも知れない。


時折、自宅最寄駅始発を利用した。 この電車 ・・・ 自宅最寄駅のある路線と高校最寄駅のある路線との股間に位置する乗換駅を経由していたのでは遅刻必至。 ところが、途中の 〇〇〇〇〇駅 から10分ほどの走り歩きで高校最寄の 〇〇〇〇駅 へ、そしてその先にある高校の始業時刻へとギリギリ間に合った。

夜更かしと、その電車をよく利用していた ちょっと可愛い先輩に会いたい想いが重なり、10分ほどの早朝ランニングは何度も実施された。


そうそう、バンドを結成したくて同級に声をかけまくった。 幸い 家〇くんはドラムが上手く、続いて進学校なのに喧嘩が強く校外でも怖がられていたリーゼントボーイの 結〇くんがボーカルを買って出てくれた。 あとはギターだ ・・・ 当時の僕はベースを志望するもギターは上手い人材がおらず、やむなくベースに 家〇くんの友人だった 榊〇くんを迎え入れ、僕が担当することになった。

僕が友人から借りたギターを弾くと、皆驚愕した。 小学時代から弾いているから歴は意外と長い。 僕と 家〇くんは、ほどなく他校でも知られる存在になっていった。


ところが、肝心のギターがない。 そう言えば中学への通学路にあるあの家からギターの音が聞こえたな ・・・ そんないい加減過ぎる記憶を頼りにその家を尋ねると、迎えた丸顔浅黒で太目(失礼!)のご婦人が、「あいにく息子(持ち主)は大学進学で上京して居ませんが大丈夫でしょう」と、奇跡の快諾。

それはブラックのストラト。 メーカーは Gibbon 。 僕はこれに、親戚から貰ったオモチャのギターに付いていた細長アームをねじ込み、あちこちのスタジオで音合わせをし、その秋の文化祭でステージに立った。

その後も人類愛的親切心に支えられ、ギターは幾度となく両家を往復したが、進級と同時に様々な方策により念願のギターを手に入れる。

Fernandes のハンドメイドとかで、取説には Burny Custom との文字が、トレードマークらしいウサギのイラストとともに書かれていた。 定価は7万5千円で、通学路線の乗換駅にある楽器店経営者の 徳〇さんに世話してもらったものだ。 木目が綺麗で格好いいナチュラルでメイプルネック ♪

入荷の知らせを受けて取りに行った際、レジカウンターの向かって左奥に立て掛けられていた思っていたより少し小さく見える商品を店員が目の前に持ってくる様子をワクワクしながら見つめる僕 ・・・ 今も鮮明に覚えている。


付属のハードケースはこのブログのプロフィールフォトにも写り込んでいる。 スリムで恰好良く、今も Fender USA のうち1本を入れている。

正に「弾きまくった」という表現がピッタリくる。 商家で両親の干渉が少なく、土曜の早朝に弾き始め、時折食べてトイレに行ってまた弾いて、気が付くと日曜の夕暮れ時に至っていることが何度もあった。


2年次の担任は 永〇先生。 大嫌いな地理を担当していたこと、理屈っぽくて陰気臭かったことから、出来る限り関わらず避けるようにしていた。

僕は音響工学を志していたが、そいつは家まで押しかけ「オーディオは所詮ブーム。 何時廃れるか分らんから薬剤師になった方がいい」と、両親に吹き込んでしまったため、薬学部を目指すハメに。

その先生とは最後まで馴染めなかったが、見識は見事的中! 今は感謝しつつ申し訳なく思っている。


この頃、ボーカルは上手くて声が良く声量のある 菊〇くんに、ベースは当時の音源を今聴いてもプロに近いレベルの 神〇くん(何と愛用は Gibson の Thunderbird ← Greco や Gibbon じゃないよ(笑))にメンバーチェンジ。


当時はギター以外のことには疎く、ディストーションはアンプの入力ボリューム(GAIN)で得るものだと思っていたが、中には〝どうにもこうにも歪まない〟アンプもあった。

スタジオで YAMAHA のスタックに直結して〝どうにもこうにも歪まない〟音で弾いている僕を不思議そうな顔で見ていた他校同学年でリーゼント強面のバンド仲間に「〇〇さん(←僕のことを尊敬してくれていたので「さん付け」だった)はエフェクター使わないの?」と訊かれ、「それって何?」と訊き返した僕は、このとき初めてそんなものの存在を知った(笑)

と言うことで、間もなくドイツの戦車のようなダークグリーンの Maxon D&S と、その数ヶ月後にはピンクがかったブライトレッドの Maxon Compandor を入手し、その切り替えや ON/OFF 、Compandor 及びギターのボリューム調整の組み合わせにより、ディストーション、くすんだクランチ、通常のクランチ、ず太いクリーン、通常のクリーン等々、音にバリエーションを持たせることができた。


こいつを武器に、エリアや楽器メーカー主催のコンサートやイベントに出まくった。

夏には、神〇くん経由で依頼された地元大型スーパーの新店オープン記念イベントにも出演し、事前に経営側から出されたリクエストに応え〝南こうせつとかぐや姫〟や、リリースされたばかりの〝南こうせつ〟ソロアルバムの曲を〝南こうせつの熱狂的ファンで歌が上手く声がそっくりな〟他校生徒を急遽ボーカルに起用して演奏した(笑)

僕の希望を快諾し、興味津々で そのスーパーの業務用冷蔵室に入らせてもらったが、恐ろしく寒くてすぐに外へ出たことも懐かしい。 出演料が貰える嬉しさより、練習中に何本も差し入れてもらった紙パックのサンキストレモンやサンキストオレンジの冷たくて酸っぱくて爽やかな美味しさが際だった夏の日の想い出。

別バンドの大学生や社会人、更にはサングラスの危なそうな男などから「メンバーにならないか?」と誘われたものの、そこまでの勇気はなかった。

まだオリジナル曲がなかった僕らは、その年の文化祭で 世良公則 & ツイスト と Char の曲を披露した。 体育館の客席には僕らの噂を聞いた他校生徒も大勢駆けつけ寿司詰め状態。 拍手と歓声が鳴り響き、これに応え、狂ったようなアクションを繰り返し、膝を床に付け、弦を舞台の縁に擦り付けた。 ステージを片付けてケースを持つ僕の後ろには、何やら怪しげな女子の行列ができていた。


その後、校内の武道場等で何度かミニコンサートを行うも、いよいよ大学受験準備に。 授業では当時まだ読み取り精度が低かったマークシートの練習をさせられた。 そう、僕らは栄えある第1回共通一次(現在のセンター試験)の実験台になった世代。 もう歳バレちゃったね。


英語が恐ろしく苦手で、ヘタをすると偏差値40を切った。 逆に化学は得意で、県内でトップ10に入ることもあった。 数学もまーいける。 う~ん、英語は? そうだ、歌詞を訳そう! ・・・ そんな我流の勉強法で英語の偏差値が50を超えると、受験科目の総合偏差値は劇的に上昇。 こりゃいいぞ!!

地元志向が強いエリアだったせいか進路指導は東京の大学事情に疎く、予備校の模試で私立大を国立大と間違えたり、女子大に願書を送って注意書の紙切れが入った返信用封筒が二つ折りのまま戻ってきたり、学部一括入試なのに学科毎の合格率が出て判断を誤らせたり、と散々だった。


最終年次の担任は生物担当の H(苗字が一文字の)先生。 妙に冷静で面倒見がよく、ひょうきんな方で、よく準備室を訪ねては話を聞いてもらった。 その後、姪が入学した高校のパンフレットを見せられると、忘れもしない〝怪獣ミニラ〟の如くの御顔が校長として載っているのを目撃。 懐かしさを噛み締めたこのサプライズさえ、今や懐かしい想い出に。


受験遠征では、幼少期から僕を可愛がってくれていた親戚宅(東京都心駅前一等地に建つエレベーターが設置された親戚所有のビル!)最上階の社員寮を拠点とした。

未明の地元駅の待合に置かれた円柱形の石油ストーブで暖をとったこと、親戚宅の朝食に並んだ即席みそ汁、都営地下鉄の車内 ・・・ 受験前夜にはジャズ命の友人に試聴を強制されたカセットで JIM HALL の Concierto de Aranjuez を聴き、社員寮窓下の大通りを流れる車のライトを眺めながら、束の間の都会生活を満喫した。


僕はマークシートが得意だった。 いよいよ本試験では地元の難関公立大薬学部にも合格可能な点数を稼ぎ出したことから、〝怪獣ミニラ〟が志望変更を薦めてきたが、東京への憧れが強くて辞退。 合格した第一志望の薬科大への入学手続きを済ませた。

ある日職員室へ呼び出しをくらい仕方なく入室すると、僕の氏名と「〇〇薬科大学合格」の文字が毛筆で、他より少し大きなサイズの模造紙に書かれ、天井から吊り下げられていた。

合格後、あの〝Ommadawn〟へと辿り着いた某地方都市の地下街を歩いていると、何とBGMで Incantations が流れている。 「凄い街だっ!」と素直に感動していた当時の僕は、情けないほど純朴なヤツだった。


母親に連れられベージュがかった淡いグレーのスーツと革靴を買ってもらい、布団袋を一杯に膨らませて荷造りも完了。 本格的な飲酒も喫煙も、不器用でほろ苦い初体験も、卒業間際に起きた重い出来事も味わった高校生活は終わり、海岸沿いの田舎町をあとにした。

上京時の両親の気持ちはどうだったか? 目前ばかり見ていた若い頃には無縁だったが、何とかひとの親の端くれになることが出来、同じ瞬間を経てようやくその有難味を知った。




フォトの彼は19歳。 伝説へのカウントダウンは既に始まっている。







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