日米安保によって、オスプレイの配備について日本は発言する立場にないと、野田ドジョウ内閣の閣僚たちが発言している。未亡人製造機とまで言われた、できそこないのオスプレイである。
アメリカ軍は、死亡事故をAとしやや軽い事故をB、部品の落下など軽微なものはCとランク付けされている。今回事故の内容について、政府がアメリカに伺いを立てて発表しようとしているのは、Aだけである。
住宅の密集する最も危険な普天間に持ってくるなら、Cランクの物でも重大な事故につながる。しかし、県民感情をたきつけないように、きっと隠ぺいしたままになるのだろう。
しかし、このできそこないの輸送機が、安全ならそれでいいのかということの方が、もっと重要なのである。基地や輸送機や戦闘機が、安全で静かなら米軍がいて良いのか。アメリカ従属象徴の基地をなくすことを問うべきである。
オスプレイの危険性やそれを隠ぺいする政府に姿勢をつくことを、テコにして基地の存在そのものをなくすべく訴えていかなければならない。
原発にも同じことが言える。安全ならいいのか。事故を起こさない原発はあり得ないが、人災なら可能な限り減らすことはできよう。
原発再稼働については、安全以前の問題がある。福島原発事故についても、東電は津波と電源喪失のせいにしたままである。国会事故調は人災としている。
しかし、地震そのもので電源が喪失したことも、現場では事故への対応はもちろんのこと、原子炉の構造的な問題など、事故原因につながる無数の問題がほとんど手つかずのままである。
加えて、再稼働を許可した大飯原発の直下には、活断層と思われる断層がある。見つかったのではない。無視してきたのがばれたのであるが、こうした問題はなかったことにしての再稼働である。安全性など確認されていない。人的な配置を強化したに過ぎない。
原発の稼働についての安全性はないがしろにしてはならない。しかし、安全なら稼働しても良いのかということにはならない。
核反応を地上で人間が操作すること、そのものを問わねばならない。放射性廃棄物の処理は解決不能の問題である。核兵器転用の問題も、必ず浮上する。
安全性は、単なる理屈で構わない。安全ならいいのではなく、それは単なる問題提起でしかなく、基地についても原発についても、あることそのものを問わねばならないのである。