銅鑼の音が響くようなBGM付のアニメを作りたい。
ジャヮーンと鳴るのが、かえって静けさを引き立たせるように始まる感じで。時はまだ陽の昇る前の薄青さ。脈絡はなるべくないほうがよろしい。
やってみたいことは沢山あるのに、出来上がってみるといつも退屈な話ばかりになるのはどうしてなのか。奇妙で不可思議な物語を愛する私から、かけらほどもそんなお話が取り出せないというのは、それこそ不思議である。何でも適当にまとめようとする性質を、そろそろ改めたい。私が今やっているようなことは、丸っきり自分だけの楽しみのためなのに、もっと好き勝手に出来ないのはどうしたことか。
よし、今度こそ、私の好きなものを突き詰めることにしよう。例えば、夢みたいに美しくて不思議な夢の話とか。
私は明け方の時間が最も好きで美しいと思っているのに、そういう表現をしたことが何故だかないことにも気が付いた。誰も見ていない早朝の薄明るい西の空に、光を失ってただ白い穴が明いたように月が浮かんでいたこととか。その明け方の月も、冬の終わりの朝と夏の盛りの朝では違って見えたこととか。私の見たその西の空にかかる月は、つまりいつも海の上にあったこととか。初めて海から昇る太陽を見た時、波と浜辺を貫くように映る赤い光の帯を追いかけたこととか。その浜辺には漁船から流れたのであろう大きな電球が落ちていて、それに映った自分の姿は天地が逆さまに見えたこととか。
好きなものを挙げてみると、私は物語をつくるのには向いていないような気もしてくる。私が心を動かされるのは、切り取られた一瞬の光景。思い出すのは、きれいな色ばかりで、物語では全然ない。
しかし、もっとよく思い出してみると、好きなのは色だけでなく、あの雰囲気。静かでひんやりした感じ。誰かと一緒にいても、まるで自分ひとりでいるのと同じように思えるあの感じ。その誰かもまるで自分自身のように思えるあの奇妙な共感。あれをなんとか再構築できないだろうか。あの空間には確かになにか物語があるような気がする。このあいだみた夢みたいな。
そういうのを、今までついにすることの出来なかった努力をして作り上げてみるのはどうだろうか。自分にだけ面白いものを作ってみる。ひとに見てもらいたいものではなくて、自分がみたいものを作るのが、私のような人間には合ってるのかもしれない。自己愛が強過ぎるのだろうか。そうだとしても、それが正しいとか間違っているとかいう判断を私には出来そうもない。少なくとも、何か作りたいという衝動を抑えられないならば、せめて自分が面白いと思えるほうがいい。でなければ、本当に何の意味もなくなってしまう気がする。
夜は、こんなふうに必要以上に感傷的になり混乱するので辛い時間だ。
明日の朝になって読み返したら、何でこんなことになってたのかと不思議になるのだろうな。
でも、こうやって夜と朝で感情まで引き裂かれているようなのは、面白い。そしてその間には、また別なふうに引き裂かれている夢の時間があったりして。
ちょっと思ったこととか夢の話といった個人的な体験を取り出してみせることは、どんなに詰まらないことに思えても、人類の発展のためにすこしは役立つ。と信じたい。こんなメモをさらすのも、恥を忘れたわけではなく、その一環なのです。私は、大きな砂の城を作るための一粒になりたい。たとえそれが誰にも見られないまま朝の波にあっけなく跡形もなく押し流されてしまうものだとしても。
あ、私の中で何故か「明け方」と「砂」が分ち難く結びついている理由を、今すこし思い出した。