ヴォルテール作 植田祐次訳(岩波文庫)
《あらすじ》
人を疑うことを知らぬ純真な若者カンディード。楽園のような故郷を追放され、苦難と災厄に満ちた社会へ放り出された彼がついに見つけた真理とは……。当時の社会・思想への痛烈な批判を、主人公の苛酷な運命に託した啓蒙思想の巨人ヴォルテール(1694-1778)の代表作。作者の世界観の変遷を跡づける5篇のコントを併収。新訳。
《収録作品》
ミクロメガス(哲学的物語)/この世は成り行き任せ(バブーク自ら記した幻覚)/ザディーグまたは運命(東洋の物語)/メムノン(または人間の知恵)/スカルマンタドの旅物語(彼自身による手稿)/カンディードまたは最善説〈オプティミスム〉
《この一文》
” ロックを信奉する小さな男がすぐそばにいた。最後にその男に言葉をかけると、男はこう言った。
「わたしは自分がどんなふうに考えているのか分かりませんが、五官のきっかけがなければ決して考えなかったことは分かります。非物質で知的な実体が存在するということは、わたしが信じて疑わないことです。しかし、神には思考を物質に伝える力がないということは、わたしが強く疑っていることです。わたしは永遠の力をあがめます。それを制限するのは、わたしの役目ではありません。わたしはなに一つ断言はいたしません。物体の存在はわれわれが考える以上にたくさんあるかもしれないと信じるだけで満足しています。」
ーー「ミクロメガス(哲学的物語)」より ”
”「不可解きわまる人間よ」と、彼は叫んだ。「いったい、どうしたらこれほどの下劣さと偉大さ、徳行と犯罪とを結合させることができるのか」
ーー「この世は成り行き任せ(バブーク自ら記した幻覚)」より”
『バビロンの王女・アマベッドの手紙』に引き続き、ヴォルテールを読みました。二冊に収められた計八話を読み通して思うことと言えば、ヴォルテールは偉大です。圧倒的な表現力、おそるべき批判精神。この迫力はただ事ではありません。私の精神活動に大きな影響を与えるものとなることは、ほとんど決定的となりました。
上に引用した「ミクロメガス」は、冒頭からかなり面白かったです。ミクロメガス氏はシリウス星人で、友達の土星人とともに地球へ降り立ちます。SFだ。内容は、副題と引用した箇所からもお分かりの通り、哲学的な対話を中心とした物語です。色々な考え方が提示されているのですが、どうやら私もロック派っぽいです。ちょっと勉強してみようかと思ってます。
もうひとつ上に一文を引用した「この世は成り行き任せ」もとても興味深いです。天使により命を受けたバブークは、ペルセポリスが滅ぼすべき土地であるかを調査しますが、そこには良いところがあるかと思えば悪いところもあり、しかも両者は同時に存在し互いに分ちがたく緊密に結びついているのでした。彼はどのように報告したらよいのか悩みます。悪と見える物事のもう一方の面が善に繋がっている、ということをうまく表現したところが、凄い。しかも物語としても面白いのです。
「ザディーグまたは運命」は、「バビロンの王女」に似て比較的楽しめる物語でした。主人公のザディーグはその誰よりも優れた才能のためなのか、次々と災難に見舞われます。しかし、最終的には、「バビロンの王女」のアマザンのように、そのたぐい稀な性質のために、最終的にはしかるべき地位を手に入れます。ハッピーエンドです。もちろん、これまでに読んだヴォルテールの物語は、どれもそれなりにハッピーエンド(もしくは”さほど悪くない終わり”)で、嫌な読後感に苦しむことはありません。この物語はそのうちでも、壮大なハッピーエンドと言えますかね。「バビロンの王女」に似ていたと思うのはそこです。
「アマベッドの手紙」を読んだ時、その生々しさに少々おじけづいてしまった私ですが、「カンディード」はそれを遥かにしのぐ生々しさです。この世のありとあらゆる悪行と不幸が、これでもかと陳列されています。あまりに立て続けにならべられるので、しまいにはそれにも慣れてしまいそうなほどでした。それが恐ろしい。話中の数々の残虐行為は、それがたかだか物語の中の話だと言って済まされないだろう深刻さをもって迫ります。いくらでも実際に起こり得ただろうし、現在も起こっているかもしれず、これからも起こるでしょう。そう思うと、まことに暗胆たる気持ちになりました。
「バビロンの王女」同様、「カンディード」でも、若者は世界中を飛び回り世の中のありとあらゆる悪に翻弄され、一方で人間がほとんど到達できないような土地にのみ存在する善意と幸福の国をも訪れます。”すべては最善の状態にある”と信じるカンディードも、どこまでも彼を滅ぼそうとするようにしか見えない苛酷な運命に見舞われ、最終的にはある結論に達します。私もその結論にはとても納得しました。人間は必要なものを必要なだけ自らの手で育て獲得できればよいわけで、過剰のものを持てば奪われ、それを与えられても足りず、足りなければ奪い、奪われれば奪い返すというようにひたすら新しく不幸を生み出すばかりなのかもしれません。私には、この物語の結末は決して派手ではありませんが、身に沁みました。人間は不足を自らの裁量でもって補うことが出来るはずだ、それには権力や富などはほとんど必要がない。ささやかではありますが、強固な希望が打ち立てられているように感じました。
ヴォルテールの作品に少しばかり触れてみて気が付いたことは、彼の物語はいつも、大地震や疫病などの自然災害と、殺戮や暴行、強奪など人間によってひき起こされるあらゆる犯罪が、誰彼かまわずあらゆる人間の上に等しくふりかかることへの疑問が提示されているようです。また、我こそがそのような災厄や悪行から人々を守り教育すると触れ回っている高い地位にある者が、その立場を利用して考えうる限りの悪徳を生み出しのさばっているということに対する彼の激しい怒りも感じます。
そして、そのような絶望的な世の中を、いつも異邦人が見てまわることになります。この形式が、これらの物語を一層印象深いものにしているのではないでしょうか。主人公が彼とは違う考えと風習を持つ人々を観察する目になることで、読み手もまた物事にはあらゆる見方があり得るということ、世間はときに不可解な迷信のようなものに支配されてしまうことなどに気付かされるようです。
この人は私にとってはただの人ではなくなりました。彼が私よりも先に生きて考えてのこしてくれたことを、感謝せずにはいられません。きっとこの先、何度でも読み返すことになるでしょう。
《あらすじ》
人を疑うことを知らぬ純真な若者カンディード。楽園のような故郷を追放され、苦難と災厄に満ちた社会へ放り出された彼がついに見つけた真理とは……。当時の社会・思想への痛烈な批判を、主人公の苛酷な運命に託した啓蒙思想の巨人ヴォルテール(1694-1778)の代表作。作者の世界観の変遷を跡づける5篇のコントを併収。新訳。
《収録作品》
ミクロメガス(哲学的物語)/この世は成り行き任せ(バブーク自ら記した幻覚)/ザディーグまたは運命(東洋の物語)/メムノン(または人間の知恵)/スカルマンタドの旅物語(彼自身による手稿)/カンディードまたは最善説〈オプティミスム〉
《この一文》
” ロックを信奉する小さな男がすぐそばにいた。最後にその男に言葉をかけると、男はこう言った。
「わたしは自分がどんなふうに考えているのか分かりませんが、五官のきっかけがなければ決して考えなかったことは分かります。非物質で知的な実体が存在するということは、わたしが信じて疑わないことです。しかし、神には思考を物質に伝える力がないということは、わたしが強く疑っていることです。わたしは永遠の力をあがめます。それを制限するのは、わたしの役目ではありません。わたしはなに一つ断言はいたしません。物体の存在はわれわれが考える以上にたくさんあるかもしれないと信じるだけで満足しています。」
ーー「ミクロメガス(哲学的物語)」より ”
”「不可解きわまる人間よ」と、彼は叫んだ。「いったい、どうしたらこれほどの下劣さと偉大さ、徳行と犯罪とを結合させることができるのか」
ーー「この世は成り行き任せ(バブーク自ら記した幻覚)」より”
『バビロンの王女・アマベッドの手紙』に引き続き、ヴォルテールを読みました。二冊に収められた計八話を読み通して思うことと言えば、ヴォルテールは偉大です。圧倒的な表現力、おそるべき批判精神。この迫力はただ事ではありません。私の精神活動に大きな影響を与えるものとなることは、ほとんど決定的となりました。
上に引用した「ミクロメガス」は、冒頭からかなり面白かったです。ミクロメガス氏はシリウス星人で、友達の土星人とともに地球へ降り立ちます。SFだ。内容は、副題と引用した箇所からもお分かりの通り、哲学的な対話を中心とした物語です。色々な考え方が提示されているのですが、どうやら私もロック派っぽいです。ちょっと勉強してみようかと思ってます。
もうひとつ上に一文を引用した「この世は成り行き任せ」もとても興味深いです。天使により命を受けたバブークは、ペルセポリスが滅ぼすべき土地であるかを調査しますが、そこには良いところがあるかと思えば悪いところもあり、しかも両者は同時に存在し互いに分ちがたく緊密に結びついているのでした。彼はどのように報告したらよいのか悩みます。悪と見える物事のもう一方の面が善に繋がっている、ということをうまく表現したところが、凄い。しかも物語としても面白いのです。
「ザディーグまたは運命」は、「バビロンの王女」に似て比較的楽しめる物語でした。主人公のザディーグはその誰よりも優れた才能のためなのか、次々と災難に見舞われます。しかし、最終的には、「バビロンの王女」のアマザンのように、そのたぐい稀な性質のために、最終的にはしかるべき地位を手に入れます。ハッピーエンドです。もちろん、これまでに読んだヴォルテールの物語は、どれもそれなりにハッピーエンド(もしくは”さほど悪くない終わり”)で、嫌な読後感に苦しむことはありません。この物語はそのうちでも、壮大なハッピーエンドと言えますかね。「バビロンの王女」に似ていたと思うのはそこです。
「アマベッドの手紙」を読んだ時、その生々しさに少々おじけづいてしまった私ですが、「カンディード」はそれを遥かにしのぐ生々しさです。この世のありとあらゆる悪行と不幸が、これでもかと陳列されています。あまりに立て続けにならべられるので、しまいにはそれにも慣れてしまいそうなほどでした。それが恐ろしい。話中の数々の残虐行為は、それがたかだか物語の中の話だと言って済まされないだろう深刻さをもって迫ります。いくらでも実際に起こり得ただろうし、現在も起こっているかもしれず、これからも起こるでしょう。そう思うと、まことに暗胆たる気持ちになりました。
「バビロンの王女」同様、「カンディード」でも、若者は世界中を飛び回り世の中のありとあらゆる悪に翻弄され、一方で人間がほとんど到達できないような土地にのみ存在する善意と幸福の国をも訪れます。”すべては最善の状態にある”と信じるカンディードも、どこまでも彼を滅ぼそうとするようにしか見えない苛酷な運命に見舞われ、最終的にはある結論に達します。私もその結論にはとても納得しました。人間は必要なものを必要なだけ自らの手で育て獲得できればよいわけで、過剰のものを持てば奪われ、それを与えられても足りず、足りなければ奪い、奪われれば奪い返すというようにひたすら新しく不幸を生み出すばかりなのかもしれません。私には、この物語の結末は決して派手ではありませんが、身に沁みました。人間は不足を自らの裁量でもって補うことが出来るはずだ、それには権力や富などはほとんど必要がない。ささやかではありますが、強固な希望が打ち立てられているように感じました。
ヴォルテールの作品に少しばかり触れてみて気が付いたことは、彼の物語はいつも、大地震や疫病などの自然災害と、殺戮や暴行、強奪など人間によってひき起こされるあらゆる犯罪が、誰彼かまわずあらゆる人間の上に等しくふりかかることへの疑問が提示されているようです。また、我こそがそのような災厄や悪行から人々を守り教育すると触れ回っている高い地位にある者が、その立場を利用して考えうる限りの悪徳を生み出しのさばっているということに対する彼の激しい怒りも感じます。
そして、そのような絶望的な世の中を、いつも異邦人が見てまわることになります。この形式が、これらの物語を一層印象深いものにしているのではないでしょうか。主人公が彼とは違う考えと風習を持つ人々を観察する目になることで、読み手もまた物事にはあらゆる見方があり得るということ、世間はときに不可解な迷信のようなものに支配されてしまうことなどに気付かされるようです。
この人は私にとってはただの人ではなくなりました。彼が私よりも先に生きて考えてのこしてくれたことを、感謝せずにはいられません。きっとこの先、何度でも読み返すことになるでしょう。
彼のどの作品にも、権威や権力に対する不信感、ひいては徹底した価値の相対化、といった面が強く現れているように思います。小説作品においては、そうした思想を実に洗練したやり方で、物語としても面白く読ませる手腕はただごとではありません。
18世紀という時代を考えると、確かに当時のヴォルテールの絶大な名声もうなづけるというものです。
旧訳版岩波文庫の『カンディード』は、岩波文庫ワーストセラーの一位だったそうですが、まったくおかしな話ですね。
>権威や権力に対する不信感、ひいては徹底した価値の相対化、といった面が強く現れているように思います。
おっしゃる通りですねー。
そして、それにも関わらず物語としての面白さを十分に保持しているのには、私も全くうならされました。展開はだいたいワンパターンなのに、それでも面白くて仕方がありませんでした。凄いぞ、ヴォルテール。
しかし、ワーストセラー1位って……。あんまりですね; こんなに面白いのになんででしょう? 新訳版はもっと売れてるといいなあ。