半透明記録

もやもや日記

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『肩胛骨は翼のなごり』

2010年01月15日 | 読書日記ー英米

デイヴィッド・アーモンド 山田順子訳
(創元推理文庫)


《あらすじ》
引っ越してきたばかりの家。古びたガレージの茶箱のうしろの暗い陰に、ぼくは彼をみつけた。ほこりまみれでやせおとろえ、髪や肩にはアオバエの死骸が散らばっている。「なにが望みだ?」しわがれきしんだ声。アスピリンやテイクアウトの中国料理、アオバエや蜘蛛の死骸を食べ、ブラウンエールを飲む。フクロウたちが彼に餌を運ぶ。誰も知らない不可思議な存在。彼はいったい何? ぼくは隣に住む変わり者の少女ミナと一緒に彼をかくまうが……
命の不思議と生の喜びに満ちた、素晴らしい物語。カーネギー賞、ウイットブレット賞受賞の傑作。

《この一文》
“「進化に終わりはない」ミナはいった。そしてすっと膝を進め、ぼくのそばに寄ってきた。「あたしたちは前進する覚悟をしなければならない。でもそれは、あたしたちが永久に存在するということを意味するわけではない」 ”




「きっとこうなるだろう」「こうなればいい」と思いながら読んでいって、実際にその通りの結末を迎えましたが、そこには意外性がなかったかと言えば大ありで、予想通りの物語の中には、それ以上のものが込められていました。実に感動的な物語です。

主人公の少年マイケルは、引越し先の庭にある崩れかけたガレージの奥に、不可思議な人物を見つけます。よぼよぼで、薄汚れた、不可思議なその人物は、ぼろぼろの黒いスーツを着ているが、背中のあたりには膨らみがある。

と、このあたりで私はガルシア=マルケスの「大きな翼のある、ひどく年取った男」を連想しましたが、あとがきの訳者による解説にも、作者のガルシア=マルケスなどとの影響関係についてちらっと言及されていました。ガルシア=マルケスのこの短篇は、かつて私を、その当時の私にとってはあまりにも奇妙で不思議で濃密な世界観によって激しく驚愕させたものでしたが、この『肩胛骨は翼のなごり』は、同じような題材を扱い、同じように奇妙で不可思議な世界を描いてはいますが、もっと透明で、もっと優しく、もっと読みやすかったです。もともとはこれが児童文学として書かれたものだからかもしれません。飛ぶような勢いで読めました。

マイケルの生まれたばかりの妹は具合が悪く、新しい家の片付けもあって、お父さんもお母さんもイライラしている。入院してしまった赤ちゃんが心配で、家族が疲れてしまう。そして、その家のガレージには、翼のある男がいて。

物語はもちろん、不思議な出来事が起こったりして、ハッピーエンドを迎えます。それ自体には目新しさはありません。しかし、そこへ至るまでのマイケルの心情が、さっぱりと、かつ丁寧に描かれているので、読者は彼の心がたしかに成長していくのを目の当たりにできるのでした。そしてこのマイケルの成長の仕方が、このバランスの取り方が、なんだかとても良いのです。私はけっこう感動してしまった。

マイケルは、生きることの悲しみ、残酷さ、醜さについて知りながら、同時に生きていることの喜び、優しさ、美しさを認めていきます。ああ、私にはうまく説明できないですが、この物語の中では、こういうことが、もっと印象的に、もっとよく分かる感じに書かれてあるのです。すべてを同時に成立させることはできるんだ、というような。残酷さも優しさも、ただ、見る位置の違いからくる同じもののことなんだ、というような。


「言葉がとても美しくて」と、私は友人から聞いていたのですが、たしかに言葉がとても美しいです。透き通るような。穏やかに満ちてくるような。胸がいっぱいになるお話でした。