半透明記録

もやもや日記

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『類推の山』

2005年01月11日 | 読書日記ーフランス
ルネ・ドーマル 巖谷國士訳(河出文庫)


《あらすじ》

はるかに高く遠く、光の過剰ゆ
えに不可視のまま、世界の中心
にそびえる時空の原点--類推
の山。
その「至高点」をめざす真の精
神の旅を、寓意と象徴、神秘と
不思議、美しい挿話をちりばめ
ながら描き出したシュルレアリ
スム小説の傑作。
”どこか爽快で、どこか微笑ま
しく、どこか「元気の出る」よ
うな”心おどる物語!!



《この一文》

”---可視の人類のうちに住む不可視の人類というこの考えを、私は単なるアレゴリーと見てあきらめることはできませんでした。経験から証明されていることだが、と私は自分にいいきかせたものです、人間は直接自分で真理に到達することはできない。なにか仲介物が--ある面は人間の域にとどまりながら、ある面は人間を超えている仲介物が--実在しなければならないのだ。この地球上のどこかにその高次の人類が住んでおり、彼らはかならずしも接近不可能なわけではないはずだ。とすれば、私はそれを発見することに全努力を注ぐべきなのではないだろうか? たとえそんな確信に反して、じつはなにかとんでもない錯覚のとりこになっているのだとしても、そういう努力をついやすことでなにひとつ失うものはないだろう。なぜなら、どのみちこのような希望がなければ、生活のすべては意味を失ってしまうだろうからだ。  ”



未完であるのが惜しまれます。
大変に興味深い内容です。
年末年始に帰省する際、山積みになった未読本の中から適当に選んだ四冊のうちの一冊です。
田舎に帰った私は、この春に高校受験を控えた中学生の家庭教師をすることになっていたのですが、人にものを教えるなどということはこれまでほとんど考えたこともなかったので、一体どうしていいのやら、教えることにどんな意味があるのかと、ずいぶんと悩みました。
悩んでいると、ちょうどそのときに私にヒントを与えてくれる本に出会うのです。
どうしてそうなのか、いつも不思議で仕方ないのですけれど。
「後記」からもう一文引用します。


” ドーマルはさらに説明をつづけて、この本の最終章で示すつもりのことをつぎのように語った--
 「おしまいには、とくに<類推の山>の掟のひとつを書きこんでみたいんだ。頂上にたどりつくためには、山小屋から山小屋へと登ってゆかなければならない。ところが山小屋をひとつ離れる前に、あとからやってきてその離れた場所に入る人たちのための用意をしておく義務があるんだ。そして、その用意がおわってからでないと、もっと上に登ってゆくことはできない。だから、僕らは新しい山小屋にむかってつきすすむ前に、もういちど下へ降りて、僕らがはじめに得た知識を、別の探索者に教えておかなければならない・・・・。   ”


私も少し前進できるかもしれません。
そんな希望に満ちた楽しい物語です。