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関橋 英作さんのコラム、マーケティングゼロ。
日本人五輪メダリストに学ぶ“一か八か”マーケティング。
部分的に引用させてもらいます。(赤字=nanapon)
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日本人選手といえば、本番に弱い。オリンピックがあるたびに感じさせられることです。マスコミがメダルメダルとあおり立てるので、選手にプレッシャーがかかる。それとも、もともと勝負に弱い体質なのか。ここ一番でミスの連発、100%の力を発揮できない。
欧米の選手たちの中には、大一番になればなるほど最高のパフォーマンスを発揮する選手がいます。この違いは何なのか、以前から気になっていることでした。
今、ベストセラーになっている内田樹さんの「日本辺境論」が、その答えになるかもしれません。
「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める態度こそはまさしく日本人のふるまいの基本パターンです。それは、国家レベルでもそうですし、個人についても変わりません」。
つまり、外からの考え方や思想に左右されてしまう民族だということです。そう言われてみれば、奈良時代は中国、明治維新は欧米、戦後は米国。影響される相手がいるからこそ、大きな変化ができたのかもしれません。
他国との比較でしか自国を語れない日本人。
“日本人とはしかじかのものであれねばならない”というものがないのです。これがどういうことを引き起こすかというと、「正しい判断を下すはずの人を探り当て、その身近にあることのほうを優先するということです」。
ですから、もし失敗をしても、あの時はああするしかなかったという言い訳で済んでしまうのです。何だか身につまされるような解釈ですが、核心を突いているだけに、日本人論としてはこれ以上の論説はないでしょう。
この観点から見てみると、本番に弱い体質はまさに日本人そのもの。相手を意識するあまり、勝手に相手の幻影にやられてしまうのです。
これはスポーツだけに現れる現象ではありません。普天間問題における対米国、北方領土における対ロシア、経済問題における対中国。政治はもちろんのこと、マーケティングにおいても対グローバルでフラフラしてしまうのです。
外来思想というオリジナルを、日本流に変化させて文化、経済をつくってきた日本人ですから、答えの見えないモノに対して賭けることは大の苦手。こういう先の見えない時代で苦悩しているのは当然かもしれません。
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こういう日本人論はいろんな人がいろいろ書いたりしてきましたが、こういう具体的なスポーツの世界に準えて語られると妙に説得力があります。
ほんと頷けることばかりですね。
後半です。
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こういうことを考えながらオリンピックを見ていたのですが、スピードスケート500メートル銀メダルの長島選手に変化の糸口をみつけました。1本目で硬くなっていた彼の頭に訪れたのは、“一か八か”。そうです、丁半ばくち。相手のことを全く考えないやり方です。
<中略>
つまり、一か八かという心境は、異能者としてのスタンス。長島選手の頭から外国選手が無くなってしまったことを示しています。この心境が、彼の滑りをガラッと変えてしまったのです。
そう思っていたら、今度は男子フィギュアの高橋選手も日本人離れをやってのけました。マスコミのメダル攻めにも負けず、4回転に挑戦。転んだ瞬間に彼の顔に現れたのは、何と笑顔でした。その時の彼の中には、プルシェンコ選手もライサチェク選手もすっ飛んでいたに違いありません。
男が見ていてもクラッとくるくらい、見る者を魅了するフェロモンが飛び出していました。ジャッジの近くで踊る彼の態度は、日本人のものではありません。これでどうだ、と挑発しているように映りましたから。
こうした一か八かの態度が日本を救いました。確かに、これはスポーツの場で起こったことに過ぎません。しかし、スポーツほど結果と直結するものはありませんから、この態度をマーケティングに持ち込むことを考えてもいいでしょう。
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一か八かとは、自分を信じてやりきること。
相手は関係ない。
自分のできることを全部出し切ること。
これ、サッカーでもそうですよね。
決定力がない。
ボールを回してばかりで、ゴールへ向かっての突破、一か八かの発想や攻撃がない。
ミスしないように、相手に取られないように、監督に怒られないように、次回も代表に選ばれるように。
優等生の教科書通りのサッカーでなく、ある意味常識はずれ的な、和を乱すようなプレー。そして、自由で奔放で、あいつ、何するか、わかんないからさ、という持ち味。
そういう意味では、本田や松井、森本など海外でもまれている選手の方が、そういう色は濃いはず。
あー、サッカーの話になってしまったけど、この一か八か理論、スポーツだけでなく、マーケティングでも経営でも(将棋でも?)、いろいろ応用できると思います。
自分の力がないのに、一か八かでやってもだめだけど、しっかりと自分の強みを持っていれば、殻に篭っていないで、人を気にしないで、自分らしい一か八かやってみるべきだと思いますし、その方が結果も付いてくるのではと思うのです。
関橋 英作さんのコラム、マーケティングゼロ。
日本人五輪メダリストに学ぶ“一か八か”マーケティング。
部分的に引用させてもらいます。(赤字=nanapon)
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日本人選手といえば、本番に弱い。オリンピックがあるたびに感じさせられることです。マスコミがメダルメダルとあおり立てるので、選手にプレッシャーがかかる。それとも、もともと勝負に弱い体質なのか。ここ一番でミスの連発、100%の力を発揮できない。
欧米の選手たちの中には、大一番になればなるほど最高のパフォーマンスを発揮する選手がいます。この違いは何なのか、以前から気になっていることでした。
今、ベストセラーになっている内田樹さんの「日本辺境論」が、その答えになるかもしれません。
「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める態度こそはまさしく日本人のふるまいの基本パターンです。それは、国家レベルでもそうですし、個人についても変わりません」。
つまり、外からの考え方や思想に左右されてしまう民族だということです。そう言われてみれば、奈良時代は中国、明治維新は欧米、戦後は米国。影響される相手がいるからこそ、大きな変化ができたのかもしれません。
他国との比較でしか自国を語れない日本人。
“日本人とはしかじかのものであれねばならない”というものがないのです。これがどういうことを引き起こすかというと、「正しい判断を下すはずの人を探り当て、その身近にあることのほうを優先するということです」。
ですから、もし失敗をしても、あの時はああするしかなかったという言い訳で済んでしまうのです。何だか身につまされるような解釈ですが、核心を突いているだけに、日本人論としてはこれ以上の論説はないでしょう。
この観点から見てみると、本番に弱い体質はまさに日本人そのもの。相手を意識するあまり、勝手に相手の幻影にやられてしまうのです。
これはスポーツだけに現れる現象ではありません。普天間問題における対米国、北方領土における対ロシア、経済問題における対中国。政治はもちろんのこと、マーケティングにおいても対グローバルでフラフラしてしまうのです。
外来思想というオリジナルを、日本流に変化させて文化、経済をつくってきた日本人ですから、答えの見えないモノに対して賭けることは大の苦手。こういう先の見えない時代で苦悩しているのは当然かもしれません。
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こういう日本人論はいろんな人がいろいろ書いたりしてきましたが、こういう具体的なスポーツの世界に準えて語られると妙に説得力があります。
ほんと頷けることばかりですね。
後半です。
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こういうことを考えながらオリンピックを見ていたのですが、スピードスケート500メートル銀メダルの長島選手に変化の糸口をみつけました。1本目で硬くなっていた彼の頭に訪れたのは、“一か八か”。そうです、丁半ばくち。相手のことを全く考えないやり方です。
<中略>
つまり、一か八かという心境は、異能者としてのスタンス。長島選手の頭から外国選手が無くなってしまったことを示しています。この心境が、彼の滑りをガラッと変えてしまったのです。
そう思っていたら、今度は男子フィギュアの高橋選手も日本人離れをやってのけました。マスコミのメダル攻めにも負けず、4回転に挑戦。転んだ瞬間に彼の顔に現れたのは、何と笑顔でした。その時の彼の中には、プルシェンコ選手もライサチェク選手もすっ飛んでいたに違いありません。
男が見ていてもクラッとくるくらい、見る者を魅了するフェロモンが飛び出していました。ジャッジの近くで踊る彼の態度は、日本人のものではありません。これでどうだ、と挑発しているように映りましたから。
こうした一か八かの態度が日本を救いました。確かに、これはスポーツの場で起こったことに過ぎません。しかし、スポーツほど結果と直結するものはありませんから、この態度をマーケティングに持ち込むことを考えてもいいでしょう。
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一か八かとは、自分を信じてやりきること。
相手は関係ない。
自分のできることを全部出し切ること。
これ、サッカーでもそうですよね。
決定力がない。
ボールを回してばかりで、ゴールへ向かっての突破、一か八かの発想や攻撃がない。
ミスしないように、相手に取られないように、監督に怒られないように、次回も代表に選ばれるように。
優等生の教科書通りのサッカーでなく、ある意味常識はずれ的な、和を乱すようなプレー。そして、自由で奔放で、あいつ、何するか、わかんないからさ、という持ち味。
そういう意味では、本田や松井、森本など海外でもまれている選手の方が、そういう色は濃いはず。
あー、サッカーの話になってしまったけど、この一か八か理論、スポーツだけでなく、マーケティングでも経営でも(将棋でも?)、いろいろ応用できると思います。
自分の力がないのに、一か八かでやってもだめだけど、しっかりと自分の強みを持っていれば、殻に篭っていないで、人を気にしないで、自分らしい一か八かやってみるべきだと思いますし、その方が結果も付いてくるのではと思うのです。
>日本の陸上交通は世界とは遠くかけ離れて独自の発想しかありません。そういう意味からすると、辺境なんでしょうね。
良くも悪くも辺境ならではのオリジナリティなんですね。
>鉄ちゃんも同様で、海外鉄というのは、好きな方は無茶苦茶好きなのですが、大多数は振り向かないのです。
海外鉄ですか。
オリエント急行とか、シベリア鉄道とか?世界の車窓から?
国内の方がロマンに溢れているということなんでしょうか。
>サッカーに関しては、また後日に。
はい、楽しみにしています。
★Kさん、こんばんは。
>そう考えると将棋の場合には、むしろ「一か八か」とは「信じている自分を捨てること」という、ここでの論者の主張とは逆のニュアンスに近いのではないでしょうか(日ごろ信じている自分を捨てられるほど絶対的な自分を信じている、というパラドックスは成り立つかもしれませんが)。
いやまたこれは深すぎる話で、Kさんが言うと、とても興味深く感じられます。
「信じている自分を捨てられるほど絶対的な自分を信じている」
いや、意味はとてもわかるので、過去の棋譜などで実例を挙げてこの「一か八か」論を展開していただけるとファンとしてはとてもうれしいです。
>羽生名人が大切さを強調する「決断力」は、高度に洗練された「一か八か」に身をゆだねる能力、と言い換えてもいいように思います。
「高度に洗練された「一か八か」に身をゆだねる能力。」
いやあ、これもまた深くていい言葉です。
けものみち論に通じる話なわけですね。
「一か八か」を意識することを大前提に、その見切り方やタイミングが問題になります。自分の型を大事にするあまりその実行機会を逃すというケースのほうが断然多く、感想戦ではその観点からもさまざまな角度から戦略的な検証が行われます。
そう考えると将棋の場合には、むしろ「一か八か」とは「信じている自分を捨てること」という、ここでの論者の主張とは逆のニュアンスに近いのではないでしょうか(日ごろ信じている自分を捨てられるほど絶対的な自分を信じている、というパラドックスは成り立つかもしれませんが)。
羽生名人が大切さを強調する「決断力」は、高度に洗練された「一か八か」に身をゆだねる能力、と言い換えてもいいように思います。
そりゃあ、殺人的ラッシュなんて日本だけでしょうから。
自動車はあれだけ輸出できてもね。
ただ、学者さんたちは外からの思想を持ってきますが。
鉄ちゃんも同様で、海外鉄というのは、好きな方は無茶苦茶好きなのですが、大多数は振り向かないのです。
サッカーに関しては、また後日に。