教育問題は範囲が余りにも大きく、社会問題も絡んでおり、私のような素人では多分書き漏らしも多いと思いますので、もしご興味がおありのかたは、カテゴリー→「教育問題」を覗いてみて下さい。
また認識不足の点も多いの思いますので、ご意見やご忠告をお待ちしております。
教育関係のブログの中で「現役おばちゃん教師 日教組の何が悪いのよ」と言う勇ましいタイトルののブログがある。
その著者のすずめさんは私の意見と違うとこねも多いが、文面から見ると、大変真面目で明るくて、そして教育熱心な先生のようで、私が尊敬しているブロガーの一人で、時々訪問させて貰っている。
私の関係する幾つかのグループの中にも元日教組の闘士?がいて、雑談の間に場違いのような「文科省のお蔭で教師の間がばらばらにされた」とか「軍備を持つとそれを使いたくなる」などの言葉が時々出る。
彼は温和でグループのために献身的にやってくれる立派な人なので、問題意識の高い会員も彼のコメントにも気づかなかった振りをするのが常だ。
日教組にはこのように立派な教師が多くいる筈なのに、そのグループの日教組の評判今でも良くない理由は多くあるとと思うが、ここでは今問題になっている教育格差と日教組の関係について書いてみる。
[「落ちこぼれ」と労働時間と「吊るし上げ」]
私の娘が小学校の教師になって始めて5年生の担任になった。
私は仕事を捌ききれぬ彼女からテストの答案の採点を応援を頼まれることがあったが、その答案の中に50点も取れない生徒が何人もいるのに気づいた。
当時盛んに問題になっていた「落ちこぼれ」だ。
仕事についたばかりのやる気満々の娘は校長に「補習授業」をしたいと申し出たが、彼は「他の教師との振り合いがあるので」彼女の申し出を却下した。
当時は日教組全盛時代で、マルクス主義の「資本家-労働者」の関係を教育にも持ち込んだ。
詰まり、本来は教師と協力関係である筈の文部省、その手先の教育委員会、校長を「管理者」とし「労働者」である教師と言う対立の構図を持ち込み、労働者搾取の象徴である労働時間の削減に努めていた。(*注1)
そしてその主張を通すために使ったのが、反対する人に対して左翼団体が使う「吊るし上げ」だ。
校長は教師の労働強化に繋がりかねない、娘の申し出を却下して「授業時間中になんとかしろ」と言ったのは、彼が日教組の人達の「吊るし上げ」を恐れていたのだ。
彼らは民主主義的運営と称して、校長や教頭の「吊るし上げ」により実質的に学校を支配していったのだ。(広島県の民間からきた校長が自殺したのもこれが原因?)
私は娘が「持ち上がり」で受け持った六年生の最終テストの採点にも手伝ったが、ここでも50点にも満たない答案をいくつも見た。
新人の彼女は補習授業も出来ず心ならずも、「落ちこぼれ」た生徒を中学に送り出すことになったのだ。
当時の日教組の集会でも、「落ちこぼれ」の論議が盛んで、中学校の教師がその例を幾つも発表していた。(*注2)
この報道を見て、おかしいと思ったのは、中学教師が「落ちこぼれ」を出した小学校の教師への批判の報道が全くないことだった。
だから当時の状況でいかにして「落ちこぼれ」を出さないかと言う技術的な問題が殆ど論議されず?報道されなかった。
後で判ったのだが、彼らは「落ちこぼれ」問題解決のために学級定数削減と言う教師の負担削減に持って行きたかったので、その方針に反するよような発言は出来なかったのだ。
まして日教組の立場から言えば、その団結を壊しかねない中学校、小学校教師の争いを起こすなど考えられない事だった。
[日教組の闘争の勝利に終わった「ゆとり教育」]
そして日教組は長い文部省との闘争の結果、「ゆとり教育」→土曜授業の廃止→授業時間削減を勝ち取った。
ここでおかしいのは土曜を総合学習に当てるというのだが、授業の最終責任を持つべき教師が(高校で進学校の土曜日の補習授業を除いて)土曜日の授業、総合学習に参加する人達が殆ど居ない事だ。
然しこれも日教組が言う様に待遇改善のために勝ち取った当然の権利だと言えばよく判る。
いずれにしても日教組と文科省の長い闘争は日教組の勝利に終わり、両者は蜜月関係までは行かぬが、小康状態が続いている。
そしてマスコミではまるでタブーのように教科書問題の時以外は日教組の名は殆ど出ない。(*注3)
教育問題について毎日のように特別記事を組んでいる読売新聞でさえ殆ど日教組のことに触れていない。
[教育格差と補習授業]
その一方では、子供により良い教育を受けさせたい父兄の需要で塾が依然として花盛りだ。
そしてその費用は一般家庭の家計を圧迫している大きな要因になっている。
各種の統計は、有名大学の進学率と父兄の収入に大きな関係があること、詰まり収入格差が教育格差に繋がっていることを示したいる。
筋論から言えば、そして共産主義的な思想から言っても、それなりの能力がありそして進学の意欲がある子供に対しては、進学に必要な教育を平等に与えるのが、国、学校、教師の義務だと思うが、これに対しては日教組は口を噤んだままだ。(*注4)
教師は前記のような子で少し学力が不足な子に補習授業をしているのだろうか。
然し非常に進歩的と言われる杉並区の和田中学でさえ、土曜日寺子屋(どてら)では教師に加えて学生ボランティアに依頼しているのだから、普通の中学校で土曜日に教師が補習授業をしているのがどれだけあるのだろうか。
忙しい教師
教師は補習どころか忙し過ぎると言うし私も事実だと思うが、教師の手間を取らせているモンスター・ペアレンツも、荒れる生徒も、過大の報告書類を産んだことも教師側にも一部または大部分の責任があるし、手間を取る授業の準備も通常の企業のように、教師たちによる自主管理→改善活動で合理化で相当程度は改善できるはずだ。(*注5)
幸い和田中学など、お客さんである生徒重視の教育を目指す学校が増えているようだ。 日教組もそれに属する人達も管理者の方ばかり向かずに、生徒のために管理部門と教師の協力へ舵を切り直す時が来ているのではないだろうか。
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*注1:学校によっては共産主義的の考え?に基づいて「皆手をつないでゴヘール」に繋がる「全員百点」を実行するもの迄現れ、当時の文部省は慌てて五段階評価をするようガイドを出さねばならなかった。
*注2:最近では殆どマスコミから無視されているこの種の集会の様子は当時では盛んに報道されていた。
*注3:対外的な活動が鎮静化する一方で日教組出身の輿石さんが民主党の参議院議員会長として勢力を振るい、民主党が政権を取れば文科大臣になる勢いだ。(ブルブルブルルルル!!)。まさかいくら小沢さんでもそうすることはないと思うが。
*注4:ついでだが、非正規社員の増加→社会格差の発生の最大の責任者である経団連がこの問題について口を閉じているのと同じだ。
*注5:社会の風潮、社会情勢の変化、マスコミの責任とう色々あるが教育側の責任としては、
・モンスター・ペアレンツ
権利の重視、自己の責任・義務の軽視、個性尊重の教育で育った生徒が成人し自分のことは棚に挙げて人のことばかり言う親となった。
・荒れる生徒
上記の教育を受けた人から生れた生徒と、個性の尊重という名の親のしつけ放棄。
・過大な報告書
*注1で書いた様に、日教組で支配された学校が、文部省の意に反したやり方を進めるの学校を管理するために、報告書の提出を義務づけ、その数が増えてきた。
参照:
忙しい小中学校の先生
学校事務の合理化を考えませんか
「そんなこと、覚えて、何の役に立つの」というのが、最初の台詞です。
教育が商品である以上、一番安い費用で(つまり、最小の努力で)最大の効用を得ようとします。
学力を高めて、合格するより、クラブ活動、生徒会活動に熱心なふりをして、さらに、親にPTA役員になって貰って、推薦で行くのが、一番、対価が少なく、一番、効用が大きいのです。
教育が商品と化している以上、買わない(つまり、勉強しない)という態度は、商品の価格を下げるのに
有効です。勉強しないと言うのは、消費者としては、当然の行為です。
先進国で、学力低下が、どこでも起こるのは、この消費経済の浸透のせいです。
先ず、モンスターペアレンツを生んだ最大の諸悪の根源は・・・日教組です。
何故ならば、一方で、国を重んじない教育を推進。
国歌斉唱に規律しない。国旗掲揚は駄目!
そんな国家も尊重しない先生から教えられた子供が、学校を敬うはずがない。
この日教組を、一日も早く解体する事しかないのだが、驚く事に、日教組の幹部は、公明党の信者・
創価学会が占めている。
今の閉塞感の政治・教育を正すのは、
兎に角・・・自民党と連立を組んだいる公明党!を
切り崩すしかないと思う。
記事と逸脱したコメントになってしまい、
すみません。(ペコリ)
学力の問題は,一言では説明がつかないと思いますが,全体としてずり下がったのではなく,勉強する子としない子がはっきり分かれてしまっていること。
しない子はとことんしません。他に楽しいことが多すぎるのではないかと思います。
何が変わったかというと,こらえ性がなくなっていますから,楽しいことに引きずられて,自分の時間をコントロールできません。面白くないことなんか,3分もできないのです。
和田中のドテラもそうですし,私の学校がやる土曜補習もそうですが,教師がやらないというより,手が足らないのです。一斉授業では集中力の持たない子どもたちには,ほぼマンツーマンで進めてやらないと,問題を解き進めることができません。
ドテラもそうですが,4~5人の生徒に一人,大人をつけるとなると,教員だけでは賄いきれないのです。
こんな社会に誰がした?と言いたくなりますが,ここまで便利に,至れり尽くせり,消費者ニーズに合わせたものが有り余っている世の中で,子どもだけ清く正しく,我慢強くって,それは無理な話でしょう。
影響を一番端的に受けるのは子供だと思うのです。
たかだか教員の26%を占めるにすぎない日教組など,へみたいなものです。
かといって,いまさら不便な過去の時代になんか,絶対戻れませんよ。我慢できません。
ですから,なんとかしていくしかないのです。
誰のせいでもないし,そんな簡単に変わりもしません。
しいて言うなら,いろいろな人が遠慮しないでかかわって,子どもに話しかけてください。
コミュニケーションのへたくそな子どもですから,失礼なことも少なからずありますが,それは諭して,教えてください。
みんながかかわりを持つことが,子どもたちをよく育てる子ことになるはずです。
勉強しなくて点が取れないのか、勉強して理解できないのかが鍵でしょうね。進学校や理系大学だと後者が多くなります。小学生レベルでも、理解できない人もいましたね。
教員もサラリーマンで、熱い教員は嫌われるし、管理職にも目を付けられるでしょう。普通でよいと。子供より組織が大事なのでしょうね。
子供の遊びは以前からあります。誘惑もあります。
ただ最近は遊びの質が変わってきていて、家でゲームをやってる子供がとても多いです。
でも質が変わっただけだと感じます。
問題は、判断ができない子供に判断させる、つまり子供の権利重視だと考えています。
子供に判断はできない…誘惑があり強制がなければ、勉強をしない子供がほとんどでしょう。そういう前提が教師や親に必要なのではないでしょうか。
かといって、教員も生身の人間ですから、「もっといい暮らしがしたい」と思うことを否定することもできません。また、勤務時間を減らしたいと思うことを拒否することもできません。
教師にとっての悩みは個々に異なるとは思いますが、共通する点もあると思います。それらを洗い出し、教職員だけの問題とせず、学校、教育委員会、関係自治体らが知恵を出し合って協力することで、教師の心理的負担が減ると思います。そうすれば、教師も教育に情熱が取り戻せ、「落ちこぼれ」も減るのではないでしょうか。
日教組組員からしてテメエの師弟をドンドン塾へ送り込んで中学校から私立に通わせているんだから世話ないです。
それに勉強に興味がわかない子がいるのは今にはじまったことではないでしょうよ
だいいち、なにを学ぶことが勉強になるんです?
ひととおりには決まってないでしょう
補習授業は必要かもしれないが、そもそもなぜ補なう必要があるか
いついつまでにこの程度のことがわかってなければいかんという基準があるからで、そんなのできない子には知ったことじゃない
だいたいね、勉強ができるのがそんなにいいのなら、なぜとび級ができないんです?
学習進度をはかるテストはいつやったっていい
算数が得意だから数学分野まで学びたいけども、帰国子女なので国語と社会が苦手だ すこしさかのぼって学びたい
未来の世界ではこういう自由があってもいいとおもいます
そのため、決められた枠をきちんと守り、次に子どもを見ようとします。しかし、マニュアルにそって構築された組織には、すでに「個に応じた」教育環境をつくる余裕がないのではと感じることがあります。
教師の専門性についていわれますが、専門性が発揮できる状況か、専門性が向上するような状況か、もっといろいろな角度でみていかなければならないと思います。