mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

ルーマニアの古都ブラショフ

2016年12月13日 | 旅行記
前回は、ドラキュラのモデルとなったブラン城についてお伝えしました。
 本日は、昼食が終わって訪問したブラショフについてお伝えします。

 ブラン城からブラショフまでは直線で30㎞弱ですが、バスの揺られて40分ぐらいで町の中心地スファトゥルイ広場に14時30分頃到着しました。
 ブラショフでは、聖ニコラエ教会や黒の教会などを見学することになって、まず、広場から徒歩で15分ほど離れたスケイ地区に建つルーマニア正教の聖ニコラエ教会を見学しました。

 <バスから見えたブラショフ市街>


 <同じく市街>


 <スファトゥルイ広場に建つ旧市庁舎>


 <聖ニコラエ教会に向かう>


 <広場の奥に教会の門>


 上の写真には、聖ニコラエ教会の門と赤い建物の横に尖塔が見えてきました。

 <教会の門をくぐる>


 聖ニコラエ教会は、街の中心から徒歩で15分ほど離れたスケイ地区に建つルーマニア政教の教会です。
 スケイ地区とは、ブラショフがドイツ移民により建設された当時、千十ルーマニア人たちが移住を余儀なくされて移った地域だそうです。
 スケイ地区は、中心市街地とスケイ門(現存)によって隔てられていて、ルーマニア人は、特別な許可がない限り街の中には入れなかったそうです。
 教会は、14世紀に建った小さな木造建築が始まりだといいますが、ルーマニアの人々の心のよりどころだったのではないでしょうか?

 教会の全体像をご覧ください。

 <聖ニコラエ教会>


 <聖ニコラエ教会の中から>


 この教会の見学が終わりますと、旧市街地の中心、スファトゥルイ広場に戻りました。
 その間、先ほどの話に出てきたスケイ門などを見学することができました。

 <スケイ門>


 <スケイ門手前の光景>


 <門を過ぎて見えた市街地>


 <同じく>


 ここから私たちは、黒の教会と歴史博物館(旧市庁舎)を見学する予定ですが、スファトゥルイ広場に建っていた歴史博物館は、自由時間に見学することになっています。
 ということで、私たちは、黒の教会に向かいました。
 なぜ、「黒」という名前がついているのか?についてを含めて簡単に説明します。

 黒の教会は、14世紀後半から15世紀初頭の約80年をかけて建設されたトランシルバニア最大の教会です。
 街の中心にそびえ立つ65㍍の建物ですから目立つのですが、ルーマニア政教ではなく、カトリック教会だそうです。
 
 <黒の教会が見えてきた>


 <黒の教会の外観>


 さて、なぜ「黒」なのかの疑問ですが、「1689年にハプスブルク家の攻撃にあい、外壁が黒焦げになった。」と説明している旅行の本がありますが、私たちが現地で受けた説明では、「地震による周辺の火災で黒くなった。」というものでした。
 どちらが正しいのかですが、どちらもの間違っていないようで、両者の原因が相まって、黒くなったということかも知れません。

 <帰り際に見えた黒の教会>


 なお、内部には、ルーマニア最大のパイプオルガンなどあるという話でした。
 この教会の見学が30分間ぐらいで終わりますと、歴史博物館がある広場に戻りました。
 ここで、地下の有料トイレに行ってから、16時20分までの約30分間、広場周辺を散策しました。
 この広場には、観光客でしょうか?多くの人が集まり、賑わっていました。
 私たちは、歴史博物館の右奥に見えた通路に「何があるのだろうか?」と散策したのですが・・・

 <歴史博物館(旧市庁舎)>


 <広場の様子>


 <同じく広場>


 こうして、ブラショフに別れを告げてシギショアラに向かいました。
 ブラショフからシギショアラまでは、目算で100㎞以上ありそうですから、到着するのに2時間ぐらいかかりそうです。
 その間、添乗員さんからハンガリー風揚げパン(キルトシュコルチ)をいただきました。

 シギショアラには、予定通り18時30分ごろ到着しましたが、面白い出来事が待っていました。
 なんと!シギショアラの旧市街は、高台の城壁に囲まれてため、大型のバスが入れないのです。
 私たちは、バスが止まったところから坂道を歩くのですが、この道が結構な勾配があり、スーツケースを運んで歩くのは無理なようです。
 どうなるのかと心配してましたら、ホテルから車が来てスーツケースは運んでくれました。
 しかし、人間は歩かなければなりません。
 1車線の道路を歩き始めてしばらくしますと、やがて緑に覆われた直線の坂道が右方向に曲がる先に城壁をくぐる場所が見えてきました。
 そこをしばらく行きますと、道路が交差するところの左側に広場、右側に私たちが宿泊するホテル、シギショアラがありました。

 ここで、夕闇が迫るシギショアラと正面に見えた時計塔などを撮影しました。

 <時計塔が見える>


 <同じくシギショアラ市街>


 ホテルの到着して、19時30分から皆さんと楽しい夕食がはじまりました。
 マニューは、豆のスープと自家製ブレッド、チキンのむね肉料理などです。
 
 <豆のスープと自家製ブレッド>

 
 <チキンのむね肉>


 明日は、美しいシギショアラ市街地の散策です。

 本日のレポートは、これで終了します。
 それでは、またお会いしましょう!

 

 



  

ルーマニアの秋、ドラキュラのモデルとなったブラン城

2016年12月12日 | 旅行記
 前回のブログでは、ブラン城の入口までをお伝えしました。
 まず、ドラキュラのモデルとなったブラン城の場所ですが、ブルガリアの国境方面が南と考えていただいて、南のシナイアと北のシギショアラの間にあるブチェジュ山麓のブランという村にあります。

 それにしても、小生も若いころは、テレビでドラキュラをよく見ていましたが、その舞台となるところに自分が行くとは思いもしませんでした。
 というより、モデルの城がルーマニアにあること自体を知りませんでした。
 などという小生の独り言はさておいて、旅行雑誌では、この城のことを次のように説明しています。

 この城は、1377年、ドイツ商人がワラキア平原からブラショフに入ってくるオスマン朝群をいちはやく発見するために築いたとされる。
 14世紀には、ワラキア公ュヴラド1世がここを居城とした。ドラキュラのモデル、ヴラド・ツェベシュ(串刺し公)の祖父にあたる。
 現在はルーマニア国王フェルナンド1世の末裔に返還されたが、博物館として開放しており、王の執務室などたくさんの部屋が見学可能になっている。

 でも、これもよく勉強しないと、何を言いたいのか理解しずらいと思います。
 この文章から小生が考えますと、テレビで何度も見たドラキュラは3代目ということになると思います。また、3代目の後がどうなったのかは分かりませんが…
 初代からと3代目が分かっていますので、2代目ですが、1431年から1435年までシギショアラに幽閉されていたヴラド・ドラクルという方だそうです。

 ところで、このドラキュラのモデルとなった3代目の王様は、人間を串刺しにする刑を実施したそうですが、こういう残忍なな話を聞きますと、この人がモデルになったのもやむを得ないのかも知れませんね。

 さて、ドラキュラの話が長くなってしまいましたが、まず、前回も掲載した門の様子をご覧ください。

 <入口の門がある広場にて>


  <広場のお土産店>

 広場には多くの店が並び、大勢の観光客でごった返していました。
 門から中に入りますと、案内の看板がありました。

 <構内の案内看板>

 ここから中に入りますと、坂道になっている城への進入路があり、あたりは鬱蒼と茂った黄葉の樹木と瓦葺の苔むした屋根が印象的な平屋の建物などが間に飛び込んできました。

 <敷地内の黄葉した樹木>


 <苔むした建物>

 お城に入って、中から外を見ますと、お城の建物の配置や近辺の山々などを見ることができました。

 <城の建物>


 <同じく三角屋根>


 <緑のブラン城近辺の山々>

 この建物は、先ほど博物館になっているといいましたが、絵画や彫刻などが展示されていました。

 <展示品の数々>











 こうして、お城の中を見学して出入り口に戻りましたが、その時に見えた苔むした家屋と黄葉した落ち葉に集まる子供たちの写真をご覧ください。

 <苔むした家屋>


 <落ち葉で遊ぶ子供たち>

 最後に門を出てから撮影したお城の遠景をご覧ください。

 <黄葉に染まるブラン城>

 この後は、お城が見えるレストランCASA DI BRANで昼食です。
 味の方は、全体に「イマイチ」だったのですが、メインの「名物サマーレ サワークリーム添え」をご覧ください。

 <名物サマーレ サワークリーム添え>


 昼食が終わりますと、中世の街並みを残す美しい古都ブラショフに向かいます。
 その模様は、次回レポートしします。

 では、またお会いしましょう!




 


 



 

 

ルーマニアの秋、ペレシュ城からシナイア僧院へ

2016年12月11日 | 旅行記
 このところ、ルーマニアの秋とでもいうべき記事を書いていますが、引き続き、樹木が黄色に染まったルーマニアの別荘地シナイアから「シナイア僧院」についてお伝えします。
 先日、ペレシュ城についてお伝えしましたが、黄色く染まった小路を歩いて行きますと、10分ぐらいでシナイア僧院が見えてきます。

 <先日もご覧いただいた黄葉の小路>


 シナイア僧院は、17世紀にワラキア公カンタクジノという人がこの地を訪れたのを記念して建設された僧院で、僧院の名前が町の名前になったそうです。
 
 <朝もやに煙るシナイア僧院>


 僧院の門を入って正面に見える大司教(Biserica Mare)は、19世紀にドイツから招かれてルーマニア王国の国王になったカルロ1世が建設したものです。
 また、左の門をくぐったところにある古い教会(Biserica Veche)ha)は、17世紀末にカンタクジノの後を継いだブルングヴェアヌ公がポーチを増築した以外、当時のまま保存されているそうです。

 という説明を受けましたが、敷地に入りますと、確かに建物が二つ見えました。先ほどの説明では、「門を入って正面」となっていますが、小生の感じでは、右側の「緑の屋根に赤と白の縦縞と横縞の壁」がある建物が19世紀の建物(大司教)、左側の「緑の屋根に白い壁」の建物が17世紀の建物だと思いました。

 <19世紀の大司教>


 <17世紀の教会>


 パンフレットなどに載ってる美しい建物は、19世紀の大司教ですが、ここには入場できませんでした。
 ところで、僧院の案内書などに「教会の入口に描かれたフレスコ画は必見。」という言葉を見かけますが、フレスコ画は、入場できた17世紀の教会にありました。

 <17世紀の教会の入口にて>


 <17世紀教会の中庭>


 <フレスコ画>


 <同じく:左右対称の右側>


 <同じく:左側>


 続いて、僧院の周辺で見えた景色をご覧ください。

 <ピンクのタイヤ>


 <僧院入口の門>


 さて、この後はお楽しみの昼食ですが、場所が次の訪問地ブラン城近くのレストランCASA DI BRAN となっています。
 と思いましたら、ブラン城には11時を少し回った時刻に到着しましたので、小生の勘違いのようで、先にブラン城を見学しました。

 ブラン城は、「吸血鬼ドラキュラ」の居城のモデルとなったお城ですが、どのようなところだったのでしょうか?
 その模様は、次回レポートしたいと思います。

 <シナイアからブラン城までの間に見えた景色>


 <同じく>


 <ブラン城の入口>


 それでは、これにて失礼します。





  

ルーマニアの王侯貴族の別荘地シナイア2

2016年12月09日 | 旅行記
 昨日、シナイアについてお伝えしましたら、多数のアクセスをいただき驚いてしまいました。
 皆さんのもっとペレシュ城を見たいという願望が現れているのではないかと感じましたので、本日、ペレシュ城の続きを写真中心でレポートすることにしました。

 そこで、このブログで初めての「フォトチャンネル」で作成、と思ったのですが、エラーメッセージが出てしまいますので、今まで通りの方法で掲載したいと思います。

 <ペレシュジュの全景>

 <以下、下手なコメントはしませんので、ごゆっくりご覧ください>
























 さて、このペレシュ城ですが、全景の写真をご覧いただくと、彰子が「これほどとは!」と感嘆したことがわかると思います。

 ペレシュ城は、、1875年にカルロ1世がルーマニア王室の夏の離宮として、8年の歳月をかけて建てた宮殿です。
 ルーマニアで最も壮麗な城と称えられているそうですが、言葉に違わないお城でした。
 ルネッサンス、バロック、ロココの各様式を取り入れたドイツルネッサンス様式で建てられており、いくつもの彫刻、噴水が配置された庭園からは、シナイアの渓谷が一望できるそうです。
 宮殿内の部屋数は、160はあるといわれ、各部屋にはカルロ1世の集めた絵画、彫刻などの美術品、陶磁器、金銀、装飾品、中世の武器などが飾れている、といいますから豪華なものですね。

 宮殿を過ぎて、小道を歩いて行きますと、次の訪問地シナイア僧院が見えてきました。
 シナイア僧院につきましては、次の機会にレポートしたいと思います。
 
 本日は、これにて失礼します。








ルーマニアの王侯貴族の別荘地シナイア

2016年12月08日 | 旅行記
 今日は、ルーマニア・ブルガリア大周遊17日間の旅の9日目で、今日からルーマニア観光がスタートします。
 シナイアの町で宿泊したホテルは、モンタナというホテルですが、町の中心にあり、通りを挟んで郵便局と電話局がありました。
 ホテルは、5つ星の評価があり、部屋が狭いこと以外はGoodな環境でした。

 さて、この日(2012年10月16日)は、シナイアにあるペレシュ城とシナイア僧院を見学して、その後、ブランという村にあるドラキュラのモデルとなったブラン城、そして、ブラン村から30㎞にあるブラショフという町にある黒の教会、聖ニコラエ教会などの観光となっています。見どころがたくさんある日程ですから大忙しですが、楽しみでもあります。

 ということで、まず7時30分に、ホテルの0階にあるレストランでいただいた朝食ですが、ハム、サラニ、卵、パン、チーズといったものでしたが、「食べやすい」ものでした。

 <この日の朝食>


 朝食の後は、8時30分にホテルを出発してシナイアの観光で、今夜はシギショアラという町に宿泊する予定です。
 このため、7時00分にモーニングコールと朝食、7時45分までに荷物の廊下搬出となっていましたので、私たちのんびり夫婦にとっては、結構、忙しい日程でした。

 バスは、予定通りシナイアの真珠といわれる別荘地に向かいました。
 ここに到着しますと、季節が10月という紅葉の季節でもあり、美しい光景が広がっていました。
 ここには、先ほど申し上げたペレシュ城やシナイア僧院があるのですが、それ以外にも多くの美しい自然とそれと調和する印象的な建物がありました。
 まず、黄色の紅葉に輝く小路と美しい建物をご覧ください。

 <人間も黄葉している?>


 <ここも別荘?>


 <ペレシュ城ではありません>


 いかがですか?樹木が鮮やかな黄葉に染まっているいます。
 このように、ここは、大きな美しい樹木に覆われていて別荘地にふさわしい雰囲気でした。
 見どころのペレシュ城とシナイア僧院以外にこのような空間が広がっているのですから、期待が膨らみますね。

 それでは、ペレシュ城を!といいたいところですが、その前に、広場のような空間の見えた紅葉と瀟洒な建物をご覧いただきましょう!

 <赤も混じっている広場の黄葉>


 <どなたかの別荘?>


 <ベリショール城>


 広場の周りには、ご覧のような言葉では言い表せないような美しい光景が広がっていました。ここを訪問するのであれば、秋が良いと感じたのですが、広場から見える360度のパノラマに見とれて肝心なことを忘れていました。
 それは、ベリショール城ことですが、その場所は、通常、「ペレシュ城と同じ敷地内ある。」と案内されていますので、先にペレシュ城を見学してからベリショール城を県がするという順序のようです。
 また、このお城の由来ですが、カルロ1世という王様の狩猟用の城で、1902年の完成となっています。内部は、「豪華なシャンデリア、カーペット敷きで、来局用の寝室まである。」といいますが、残念ながら、私たちは、見学しませんでした。

 そのベリショール城の正面と付近の様子をご覧いただきましょう。

 <ベリショール城付近の様子>


 <ベリショール城の横顔>


 <ベリショール城の正面>


 いかがですか?これらの写真を見ただけでも、この別荘地がいかに美しいところなのかが想像できると思います。

 ところで、小生は、ここで「もったいないことしてしまった!」のです。
 それは、ベリショール城の右側に見える小道を100mほど進みますと、チャウシェスク元大統領が使っていたという豪華な別荘「フォイショール城」があったはずだからです。
 旅行前に事前勉強してその存在を知っていたにもかかわらず、失念していたのですから、本当に残念でなりませんでした。

 さて、このお城で記念撮影などをして見学が終わり小道を歩いて行きますと、新しい驚くような光景が待っていました。
 お目当ての「ペレシュ城」です。
 といいまして、この大きく美しいお城を見学した最初の場所は、その遠景が見るように椅子や机などがセットされた場所からでした。

 <遠くに霞むペレシュ城>


 <ペレシュ城に近づく>


 <お城の反対側の光景>


 さぁ、これからお城の正面に近づいていきますが…
 その様子は次回のお楽しみ!にしたいと思います。
 
 それでは、本日はこれにて失礼します。