リビングストン←→相模原 日記

リタイア後、日本→スコットランドを行き来して何とか暮らしている。

ブログ復活

2011年06月05日 | ブログ復活


色々な事があった。

ブログ休止の直接のきっかけは家族の不幸。
休止中も自転車は乗り続けていたが、復活の理由を見つけることが出来ないまま2年以上経ってしまった。

そして今回の大地震とそれに伴う原発事故・・・ 3/11に地震が発生し、”原発電源喪失!!!”が
ニュースで流れた 瞬間、いままでに経験したことの無い恐怖に戦慄した。
そして最悪の事態を予想して、まずは篭城体制を整えたが、その後の余震、そしてどんどん悪化していく
原発の状況に耐えることが出来ず、ほとんど発狂寸前だった。
その間、同じように家族の避難の事を考えつつあったくるたまのパパさんとメール、電話で連絡を取りながら
原発の状況をモニタし続けていたが、とうとう3/14に3号炉の大爆発の後、北関東の放射線モニタリング
ポイントの測定値が 急激に上がって行き、それが神奈川県にも到達したのを知って、いよいよ切羽詰まった時、
くるたまのパパさんからのアドバイス”こういう危機の時には家族と一緒にいるべきだ”に背中を押された。
そして、3/15の朝、会社の上司何人かに連絡し、”死の灰が降っているので皆を自宅待機にして欲しい” と
訴えたが、結論は”日本政府の発表を信じる”との事・・・国民を守らない日本政府、そして 社員を守る事
よりも国のために動く会社にも絶望し、日本脱出を決心することができた。
会社には”余っている休暇を全部使わせていただく”旨、連絡し、それから家族の住む、スコットランドに向けての
逃避行が始まった。
まずは西に逃げなくてはいけない。
もう既に放射能は降り注いでいるので、タクシーを呼んでどこかの駅に行かなくてはならないが、最寄の橋本駅は
横浜線が計画停電の為に止まっていた
(この計画停電、”原発事故から気をそらせる為”、そして”市民をなるべく動かさない為”と言う 穿った見方もあるが・・・)
ので、まずは厚木駅に向かってもらった。
多分11時半頃だったと思う。
運転手さんに小田急の運行状況を調べてもらうと”止まっている”との事で、新横浜に進路を変えてもらう。
3/15の朝、菅総理が記者会見し”20キロ圏内自宅退避、そして冷静に行動するように!” とのことをテレビで
見て、”首都圏脱出パニックが始まり、もう幹線道路は動かない”と予想していたので、
裏道を行ってもらったが、道路は全く拍子抜けと言えるほど空いていた為、13時前には新横浜に到着した。
駅は静かなパニックと言う雰囲気に感じたが、こちらの考え過ぎかもしれない。
ホームに上がるとすぐに入ってきた”のぞみ”に乗り、広島で乗り換えて博多には18時前に到着。
閉店5分前のHISに駆け込んで、”一番早くイギリスに行く方法”を頼み、次の日の福岡空港7時発 関空、
クアラルンプール、ヒースロー経由エジンバラ行きを予約。
その日は博多駅前のビジネスホテルに泊まった。
翌日は福岡空港から関空(当日はかなり混んでいたと言う印象)に飛び、そこからクアラルンプール行きの
マレーシア航空に乗って飛び立った時には、もう二度と帰ることが出来ないと思われた日本を思い、涙があふれた。
クアラルンプール空港では、降機乗客の放射能チェックが始まっていたので、若干ビビッたが、何の反応も
無かったので、心底”ほっ”とし、簡単な検査のついでに、頭、荷物まで全てスキャンしてもらい、少なくとも死の灰を
そのまま保持していないことを確認して安心した。
クアラルンプールからヒースロー直行便は真夜中近く出発で、到着まで真っ暗なフライトだったが、途中 チェルノ
ブイリ辺りを通過する時は、全く明かりの無い部分がそこなのかもしれないなどと思い、日本の 将来のことも考え
ながら言いようの無い恐怖に震え続けていた。
ヒースローでも何の問題も無く入国することができ、エジンバラに到着し、家族と涙の再会をしたところで、
私の逃避行は完了し、3/11から続いていた恐怖は一応緩和されることとなったが、様々な心配は退社手続
のために一時帰国する5月末まで続くことになる。

話は前後するが、タクシーで駅まで行ったにも関わらず、新幹線内でウインドブレーカーを廃棄。 洗面所で顔、
頭を洗い、ふき取ったタオルも廃棄、箱根を越えるまでは唾液も飲み込まなかった。
花粉対策用のマスクは博多に着くまで3回交換し、廃棄。
博多のホテルでは、衣料品、スニーカーを廃棄したほど神経質に放射能対策を行ったが、そこまでした人は
知る限り皆無の様だ。
結果的には神奈川県ではそれほど放射能は降らなかった様ではあるが、どのような核種が降っているか分から
ない状況で何の対策もしないで外を歩くことは私には考えられない。
そして
首都圏の道路がパニックで麻痺するのではないか(前述)
放射能汚染の影響で国内の空港が閉鎖されるのではないか、
外国の空港が着陸拒否をするのではないか、
イギリスのイミグレーションで、日本からの入国が拒否されるのではないか、
等々の心配は全て杞憂に終わった。
心配しすぎ、考えすぎ、そこまでやるか?と思うかも知れないが、1000年に一度の大津波の対策を怠って、
原発事故が収束できないような状況になるよりはましと考えている。

現在首都圏は平穏に暮らせており、スーパーでは野菜、海産物なども何事も無かったかの様に売られているし、
原発からはこれ以上の大気中の放射能汚染はほとんど無さそうなので、結果的に 私の行動は”やりすぎ、
早とちり、卑怯、臆病、無責任”等々、多くの非難を受けているが、3/15時点の決断は間違ってはいなかった
と確信している。ただ、風のベクトルがたまたま運良く(関東南部には)推移しただけのことだ。

前述の様に、スコティッシュの妻、そして2人の娘は去年の春、上の子が高校卒業、下の子が中学校卒業
したのと同時にスコットランドでの生活をさせていたのが幸いして、今回私だけの逃避行となったが、これが
家族4人だったらそれは非常に難しかったと推測される。
日本の友人たちに聞いても、”どこにどうやって逃げるんだ”、”会社、学校はどうするんだ”と言った意見が
帰ってきたが、それももっともな事である。

さて、日本での退社手続き(本当は日本に帰ることなくこちらで行いたかったが)を完了し、スコットランドに
戻ってこちらでの生活を再開したが、52才にして急に”毎日が日曜日”状態になってしまったため、何かを
始めなければ ならないという事で、自転車ブログを再開することにした。




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