土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

摂津平野郷(ひらの)の大念仏寺を訪ねました。

2010年07月06日 | 大阪の古寺巡り
今にもシトシトきそうなどんより日、不快指数うなぎ登り。天気予報は明日一日
雨でしょうと云うので土曜の古寺巡りは諦めて、午後から市内平野の大念仏寺を
訪ねました。
この平野の地は、大阪市の東南のはずれに位置し、東西南北の要衛として平安当
初にはすでにその名が歴史に出ているそうで、戦国期には恰好の戦場となったそ
うですが、町の安全と自治をまもるため町を堀と土居で固め外敵の侵入を防ぎ環
濠自治都市「平野郷」を成立させたと伝わる地です。今でも祭りでのだんじりを
始め、歴史が息ずく伝統が生活の中に残り大阪市平野区として大阪市の一角を占
めている町です。とは云っても付近を歩いてみると小さなお寺が区割り毎に在る
位で、今は外面上歴史を感ずることもなく全く普通の街の印象でした。

[ 大念仏寺 ]
融通念仏宗総本山 大源山諸仏護念院 大念仏寺
平野の町中に在り、境内の広さはかなりのものですが、正方形の境内には新旧織
りまぜた大小の堂宇がこれでもかと溢れかえっています。平野の地は征夷大将軍
坂上田村麿の次男広野の荘園で、その菩提寺である修楽寺の別院香華院において
融通念仏会を修したところ、人びとの信仰が高まり後鳥羽上皇は勅でここを念仏
勧進の根本道場とし比叡山の良忍さんが開基したと伝えており、今の大念仏寺の
緒と云われています。融通念仏宗は日本の念仏門最初の宗派として信仰を集めて
今があるそうです。宗派を問わず広く門戸を開けているのが、人気のお寺の由縁
でしょうか。末寺は全国約350寺ほどといいます。

短い参道の前、細い道路に面して寺名を刻した石標。


山門と扁額。
江戸初期建造の立派な山門です。
主門の両脇は壁落ち屋根。扁額は霊元天皇皇女、宝鏡寺宮徳厳尼親筆「大源山」
の勅額。群青に金の鮮やかな墨跡、とても女性筆とは思えない豪快な筆跡です。




山門左手の手水舎。


本堂。
総欅造り銅板葺き。東西約50m、南北約40m。昭和13年再建の大阪府下最大の
木造建築。確かに大きく豪快な本堂です。内部須弥壇前の畳敷きの広いこと、入
堂者はボク一人でしたので気持ちよくお堂の真ん中に座らせていただきました。


本堂扁額。お寺の院号が記されています。


本堂基礎。1m程の基壇の上に統一された礎石が等間隔で並びます。床を支える丸
柱材が床材に組み込まれ独特のリズム感を醸しています。


円通殿(観音堂)
角地を利用した堂型、左右は日月祠堂と云って位牌を安置しています。


円通殿内部の須弥壇。本尊は木造聖観音菩薩立像。伝教大師作と伝わるそうです
が余りにも綺麗でとても1200年の歴史を感じることは出来ません。頭飾や胸飾の
華麗さは鎌倉期以降の作だと思われます。お顔は見事な丸顔、それに比してお口
が小さくどちらかと云えば童顔、地蔵菩薩のような可愛い印象を受けました。


鐘楼。江戸期建立の立派な造り、鐘は時の右大臣藤原家孝の銘文が刻まれている
そうです。


霊明殿正門。


霊明殿。後鳥羽上皇と後小松天皇を合祀しています。


龍王殿。八大龍王を祀っています。右手横に大楠が見えます。


龍王殿横にある楠の大木。大阪市の保存樹。高さ18.9m、幹周り6.8m。


毘沙門堂。行基さん作と伝える毘沙門天を祀っています。


経堂。


南門。山門南に数メートルの所に在る東向きの南門。


戦国時代以降は平野郷の中核を成す寺院だったのでしょう。今でこそ込み入った
町の中に位置し周辺はマンションや住宅、商店街が密集しその中に措かれる大念
仏寺は、まさに異界の感が強いですが、良忍さん、空也さん、一遍さんが播いた
融通念仏の思想が往時の人々の熱い思いとなって受け継がれ、今のこの地を形作
って来たのではないでしょうか。

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