土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

湖東三山まん中のお寺、金剛輪寺は真っ赤に埋もれていました。

2011年11月30日 | 滋賀の古寺巡り


(2011.11.26訪問)

変幻自在な自然の力は、間違いなく季節の変わりのページをめくってゆきます。
鈴鹿山系の西山麓、琵琶湖東岸は天台系の古刹の宝庫。信長の叡山焼き討ちにも
めげず、健気に、強かにその法灯を今に伝えるお寺の甍が、秋の風景の中で錦秋
の赤をまとい見えつ隠れつその姿を見せています。
この日は、数年ぶりに湖東三山の西明寺、金剛輪寺、百済寺を訪ねようと思った
んですが、西明寺三重塔の桧皮葺替中とのことなので、あの優美な塔の姿を見る
ことが出来ないのならパスしようと湖東三分の二山に、金剛輪寺、百済寺を訪ね
ることにしました。

[ 金剛輪寺 ]
●山号 松峰山(しょうほうざん)
●寺号 金剛輪寺(こんごうりんじ)
●宗派 天台宗
●勅願 聖武天皇
●開山 行基
●創建 天平13年(741年)
●本尊 聖観音菩薩立像(秘仏)

金剛輪寺縁起(金剛輪寺HPから)
金剛輪寺は、奈良時代天平13年(741年)聖武天皇の勅願で行基菩薩によって開山
されました。本尊聖観世音菩薩は、言い伝えによりますと行基菩薩が一刀三礼で
彫り進められたところ木肌から一筋の生血が流れ落ちたため、観音様に魂が宿っ
た証として、粗彫りのまま本尊としてお祀りされました。後の世に生身の観音と
呼ばれるようになり、全国観音信徒より篤い信仰を集めています。平安時代の初
め、比叡山より慈覚大師が来山、天台密教の道場とされて以来、延暦寺の末寺、
天台宗の大寺院となりました。

▼黒門(山門)。
それにしても、人とクルマのごったがえし、結構早い時間で結構広い駐車場がす
でに満杯。目の前の山門まで遠かったこと。



▼石標。



▼参道。



▼見上げればこの紅葉!



▼小さなお堂の屋根に黄葉衣。



▼護摩堂。参道を少し入った所にポツンと。



▼地蔵堂のご本尊、地蔵菩薩坐像。後の慈母観音菩薩が象徴的です。



▼見上げればこの紅葉!



▼参道両サイドに可愛い千体地蔵がズラーと。





▼参道。もうすぐ二天門が見えるはずです。



▼二天門(重文)。
室町時代中頃に建立、当初は楼門だったものが江戸時代中頃に二階部分を取り壊
し、現在の一重にしたと伝えられているそうです。



▼仁王さん、阿形像。



▼仁王さん、吽形像。



▼天台寺院のキャラクター、二天門の大わらじ。
縦2.5m、幅0.8m、重さ70kg。
二天門の大わらじ奉納は、室町時代から村民によって続けられ、もちわら三百束
を使っているそうです。地区住民の安泰を願い、銭貨を挟むと幸福になると伝わ
る仁王わらじだそうです。



▼本堂大悲閣(国宝)
入母屋造、檜皮葺(ひわだぶき)、和様仏堂。建立弘安11年(1288年)。
本尊 聖観音菩薩立像(秘仏)
この像は未完成像かと思われるほど、体部の彫りが荒々しく、行基の作であるか
どうかは別としても、専門仏師でない行者の制作である可能性もあるといいます。



▼本堂から。



▼本堂。
後陣には阿弥陀如来坐像、十一面観音立像をはじめ数体の仏像が祀られています。



▼香煙にけむる黄葉。



▼鐘楼。



▼血染めの紅葉。かなり物騒なネーミングですが、まさに真っ赤!



▼本堂エリアの境内。



▼三重塔(重文)。
鎌倉時代寛元4年(1246年)建立。
境内最高所に建つ。様式的には南北朝時代~室町時代の建築とみられる。近世以
降は荒廃、塔の初層と二層目が残り三層目はなくなっていた。現在の塔は欠失部
分を1975年から1978年にかけて復元されたもの。



▼三重塔本尊 大日如来坐像。
少しばかリイメージの違う天衣をまとった大日如来。印相は法界定印。



▼真っ赤に埋もれる三重塔。



▼本坊明寿院山門の紅葉。



▼本坊明寿院庭園石標。



▼明寿院紅葉。



▼明寿院池泉回遊式庭園。
桃山、江戸初期、中期の三庭からなり、老杉蒼松の自然を背景とし、境内のもみ
じは「血染めのもみじ」と広く知られ、湖東三山一の名園古庭。国の名勝にも指
定されています。



▼一筋の滝。



▼赤黄と緑の競演。



▼ふと見上げれば紅葉天井。



▼護摩堂も紅葉の中に。



▼ハラハラと紅い葉が舞い落ちると、この地にも冬が訪れるのでしょう。



とにかく赤に堪能しました。まだまだ捨てたものではありません。ヤレ温暖化、
ヤレ季節が狂ってる、ヤレエコとかをしばし忘れた金剛輪寺でした。

♪春は桜のあや衣 秋は紅葉の唐錦 夏は涼しき月の絹 冬は真白き雪の布
見よや人々美しき この天然の織物を 手際見事に織り給う 神のたくみの尊しや

なんと美しい歌!(この歌ご存知の方、そうとう□□の方ですね)。
この辺りには、まだこの美しい歌の世界が、四季を通じて残っているんではない
でしょうか。

勝尾寺の勝運ダルマさんの効験は。

2011年11月22日 | 大阪の古寺巡り


(2011.11.20訪問)

箕面のもみじは、どうかな~、赤なったかな~、まだかな~。
今日はいいお天気とは云えずも陽が射してきたので、ぜ~んぜん期待せずに箕面
へ。期待通り?滝道も滝の周りもぜ~んぜん。大阪の秋はいつ来るんでしょうか。
と云いつつ気持ちは一路勝尾寺へ。クルマがガンガン行く自動車道の端っこを歩
きます。滝から3キロはしんどいですわ。
勝尾寺はとにかく勝運ダルマです。願掛ダルマだらけ。堂宇は新旧ごちゃ混ぜで
すが、整然とした境内は参拝者には親切なお寺です。

▼一応箕面に来た証拠、箕面大滝です。期待外れを見に来た人がイッパイ!



[ 勝尾寺 ]
●山号 應頂山(おうちょうさん)
●寺号 勝尾寺(かつおじ)
●宗派 高野山真言宗
●開山 開成皇子
●開基 善仲、善算
●創建 神亀四年(727年)
●本尊 十一面千手観音立像
●西国観音霊場第二十三番札所

▼勝尾寺には秋が来つつありました。ヨカッタ!
まっかかとは云いませんが確実に染まりつつあります。ここは参道。



勝尾寺縁起(勝尾寺HPから)
古流記によれば創建は神亀四年(727年)、善仲、善算の双子兄弟が草案を構え修
行されたことに始まる。そののち天平神護元年(765年)、光仁天皇の皇子開成が
二師出逢い止住し宝亀六年(775年)七月十三日般若台に六百巻を理経して一寺を
建て、彌勒寺と号し開山に至る。宝亀十一年(780年)妙観という名のび比丘が彌
勒寺を訪ね、七月十八日より八月十八日の間に白檀香木をもって身丈八尺の十一
面千手観音を彫刻した。これが当山の本尊である。六台座主の行巡上人は清和天
皇の玉体安穏を祈って効験があったことから「王に勝った寺」の意で「勝王寺」
の寺号を帝より賜ったが、本寺では「王」を「尾」にひかえ勝尾寺と号し、勝運
の寺として信仰されて来た。

▼石標まで立派なもんです。



▼山門。
慶長8年(1603年)豊臣秀頼が再建。平成8年修復終了のきれいな山門です。



▼仁王門應頂山扁額。



▼阿形仁王さん。全身真っ赤の仁王さん、目は玉眼で迫力満点!



▼吽形仁王さん。



▼仁王門から秋色の境内。



▼参道脇のもみじ。



▼鐘楼。
皆さんガンガン撞いてました。



▼三宝荒神堂。
日本最初の荒神社。日本三大荒神さんと云われているそうです。三大は他にいろ
いろ聞きます。



▼勝ダルマの奉納棚には沢山のダルマさんが。願いが叶った勝ちダルマを奉納す
るところ。



▼鎮守堂。



▼開山堂。
開成皇子と善仲、善算の木像が安置されています。



▼本堂。
慶長8年(1603年)豊臣秀頼が再建。平成11年修復終了
本尊 十一面千手観世音菩薩。勝運ダルマ祈祷はこのお堂で。



▼薬師堂。
鎌倉初期源頼朝に再建された現存する勝尾寺最古のお堂。本尊薬師三尊で秘仏(重文)



▼屋根の上のだるまさん。



▼もみじ。まだら模様も見方によれば美しいですネ。



▼閻魔堂。



▼多宝塔。境内高台に建つ美しい塔。昭和62年修復終了。
本尊 金剛界大日如来



▼だるまさん。



▼境内遠景。



▼弁天池。



▼弁天池に鎮座しています、弁財天。



▼もみじ。



▼境内から仁王門。煙ではありません、弁天池をミストでニクい演出!



▼だるまさんお願い、上ばかり見ないで!
ボクも人に云えないお願いがあるんですが、あの件聞いてくれます?



ボクなんぞが望む時代を誇る伽藍や仏像は期待できませんが、なんと云っても参
拝者第一のポリシーは感じます。八万坪の境内を彩る錦秋の色彩には少しばかリ
早いですが、もみじを求める参拝者のなんと多いことか。勝尾寺は初めて訪ねま
したが、自然の変化、四季を通じて異なる自然を楽しめる数少ない大阪のお寺か
も知れません。
陽が傾くとやはり寒くなってきました。お休み処でおぜんざいを頂いてホッ!

勝尾寺 オ シ マ イ !

若狭の地で真言密教の法灯を伝える、明通寺。

2011年11月16日 | 福井の古寺巡り


(2011.11.12訪問)

神宮寺から少し戻り、遠敷川を渡ります。若狭西街道、比較的新しい農道を東に
真っ直ぐ、県道23号を南に走ると徐々に山懐へ、明通寺はスグそこです。

[ 明通寺 ]
●山号 棡山(ゆずりさん)
●寺号 明通寺(みょうつうじ)
●宗派 真言宗御室派
●勅願 平城天皇
●開山 坂上田村麻呂
●創建 大同元年(806年)
●本尊 薬師如来坐像

明通寺縁起(明通寺リーフレットから)
延暦のむかし、この山中に一大棡樹(ゆずり木)あり、その下に世人に異なる不思
議な老居士が住んでいた。たまたま坂上田村麿公、ある夜、霊夢を感じ老居士の
命ずるままに天下泰平、諸人安穏のため、大同元年(806年)このところに堂塔を
創建し、居士また棡の木をきって、薬師如来、降三世明王、深沙大将の三体を彫
って安置したと伝う。爾来壱千二百年、つねに天下万民の祈願所として、法燈た
えることなし。現存の堂塔は、中興頼禅法印の再建にかかり、地方にありながら
中央のものにも劣らぬ優秀な密教建築である。

▼棡橋(ゆずりばし)。
いきなりお出迎え、松永川に架かる駐車場と境内をつなぐ朱色鮮やかな結界橋。



▼松永川。



▼石段を上るとスグ境内。簡素な石標です。



▼ナヌッ! 参道前に本堂工事中のお知らせ。
本堂屋根葺き替えとのことは、前日お寺から聞いていたので動揺はありません。
サア行きましょう。



▼山門。
江戸中期の明和9年(1772年)再建。間口三間二層の八脚楼門、瓦葺。
二層目に立派な勾欄が外廊を巡っています。



山門両脇にドーンと仁王さん。阿吽両像とも、色彩は相当酷い状態ですが、お顔、
お躯全体が朱色だったのが見えます。パワフルなお顔とダイナミックな像姿は仏
師の相当な力量が窺えます。慶派の流れがあるのでしょうか。お顔の彫りの深さ
は圧巻!
鎌倉中期文永元年(1264年)、寄木造、像高190cm(両像とも)
▼金剛力士阿形像。



▼金剛力士吽形像。



▼見事なパズル風山門の組み物。



▼鐘楼。



▼手水舎。



▼本堂への参道。



▼丁寧なお寺ガイドの看板。
左に覆われたテントとパイプ状のもの見えます? 工事中の本堂です。



▼本堂(国宝)。(本堂写真はs.minagaさんにお借りしました)



単層入母屋造、桧皮葺。正嘉2年(1258年)再建。大正12年解体修理。
屋根桧皮を葺き替え中、現在テントに覆われていますが、入堂はでき仏像拝観は
可能。僧侶が説明とお説教を随時行っています。

本尊 薬師如来坐像(重文)。 一木造、像高134cm、平安初期。
脇侍 深沙大将立像(重文)。 一木造、像高254cm、平安初期。
   後三世明王立像(重文)。一木造、像高250cm、平安初期。
憤怒尊を脇侍としている珍しい三尊例ですね。

▼三重塔(国宝)。
境内最高所に建っています。
三間三層、桧皮葺。塔高22.26m。文永7年(1270年)再建。昭和32年解体修理。
本尊 釈迦三尊。通常開帳されていません。今は壁画、柱画修復中でご本尊はこち
らにおられません。



▼初めて見る修復作業。現在、初層の柱、壁面の十二天像を修復中。外から作業
を見ることができます。若い女性お二人の筆さばきをしばらく見とれていました。





▼本堂前の池の鯉。とにかくデカイです。



▼客殿中門。



▼客殿と枯山水の中庭。



▼客殿仏間の不動明王立像。



▼客殿から勝手門をくぐると目の前に巨木。
天然記念物、樹齢約500年の栢の木(かやのき)。



▼栢ノ木横からの景観。



ハードな山塊中の山岳寺院と思って訪ねましたが、そうでもなく優しい感じの山
寺です。残念ながら、本堂桧皮葺屋根の修復工事中のため建物は見ることが出来
ませんでしたが、堂内での僧侶の方のお話はなかなかのもの、本尊は小振りなが
ら美しい薬師さん。憤怒像を左右に配する珍しい三尊形式は初めてですが、この
両脇侍が迫力満点、明王と大将で阿吽を表現しているとのこと。ボクにとっては
新しい発見。大ナットクでした。

チョット時間が押してきました。次の予定どうしょうか、帰りは遠いし……。

若狭神宮寺は東大寺二月堂修二会へのお水送りのお寺。

2011年11月15日 | 福井の古寺巡り


(2011.11.12訪問)

京周山街道を走っております。季節は秋の筈ですが、期待した錦秋の気配はまる
でなし、肌に感じる風のみのようです。周山さば街道の起点小浜を目指し若狭三
名刹を訪ねようと朝七時のスタート。何の変哲もない街道をひた走りです。
さすが嶺南に近づくほどに、山は徐々に染まってまいりました。

▼神宮寺右入るスグ



[ 神宮寺 ]
●山号 霊応山(れいおうさん)
●寺号 神宮寺(じんぐうじ)
●宗派 天台宗
●開創 元正天皇
●開山 和朝臣赤麻呂
●創建 和銅7年(714年)
●本尊 薬師如来坐像

神宮寺縁起
ある時、開山和朝臣赤麻呂の前に若狭彦神社の祭神、若狭彦神(遠敷明神)が現れ、
「我鬼道に落ちその身を逃れん為に悪病を流行らせる。止めたくば仏像を安置し寺
を造り我が鬼を救え」と神託があり、赤麻呂は神願寺を創建。若狭彦神を神願寺に
迎え神仏両道の道場とした。鎌倉期に若狭彦神社の別当寺となり神宮寺と改称。

▼石標。



▼仁王門(重文)。
単層切妻造。柿葺八脚門。鎌倉時代末。正面注連縄に御幣。



▼金剛力士阿形像。
阿吽両像とも2mを越える像高。鎌倉仏師の流れを窺える堂々の作です。
目は玉眼。破損が目立ち補修の釘がいたる処打ち込まれ、痛わしや仁王さんの感じ。





▼金剛力士吽形像。





▼仁王門から参道。
山門まで約250m、気持ちいいほど一直線の参道。



▼参道。
右側に本坊大膳院や庭園、大師堂が連なっています。



▼山門。
簡素な門、ここから入山です。



▼本堂(重文)。
本尊 薬師如来坐像。平安中期。
桁行5間(15m)、梁行6間(16.5m)、檜皮葺入母屋造。向背1間付。
天文22年(1553年)越前守護朝倉義景が再興再建。
向背だけを見ると注連縄に御幣、鳥居に見えません?



▼本堂床銀杏? 堂内外陣からの床銀杏、右が内陣です。



▼内陣見取り図。
内陣奥が須弥壇、ギッシリと仏像が並んで、さながら仏像雛壇の感じ。



▼本堂外廊から境内。一本の銀杏が頑張って秋を主張してます。



▼境内からの景観。



▼本堂床下にこんな高下駄。
お水送りの時に僧侶と神人が履く下駄。しかし何で歯が一つ?



▼御茶所。
適当に苔の緑が彩りを添えた茅葺屋根。の茶室、六畳茶室、八畳囲炉裏室。



▼苔に覆われた大椎の木。
樹齢推定500年の椎、天然記念物。
根元付近の貫禄はスゴイ! 恐竜の足が絡まっているみたい。



▼閼伽井戸覆屋。



▼閼伽井戸。
この井戸がここ若狭から東大寺二月堂へ閼伽水を送る根本井戸。
お水送りの由緒。
東大寺二月堂の修二会をはじめた実忠は東大寺初代別当の良弁の弟子で、もと若
狭神宮寺に住し、後に奈良に出て良弁を助けた。そして、観音菩薩の来迎を祈念、
ついに十一面観音菩薩が閼伽の器に乗り飛来、二月堂に安置、大仏開眼の年、二
週間の行法を始めた。これが修二会と呼ばれ一度も休まない行法として1260年
も続いてきた十一面観音悔過法会。実忠がその行法中、全国の神の名を読み上げ
守護を念じたが、遠敷明神(若狭彦神)だけが漁に出て遅刻してきた。そのお詫び
として、十一面観音にお供えする閼伽水を若狭から二月堂へ送ることを約束した
ことがお水送りの起源と云われ、神宮寺の閼伽井の湧き水を上流二キロの鵜之瀬
に流し、奈良東大寺の若狭井に10日かけて到着、3月2日に若狭でお水送りをし
て3月12日の東大寺の二月堂修二会お水取りに使われるのだ云われている。



▼大師堂。
比叡山十八代の座主、天台宗の中興の祖、元三大師(良源上人)を御祀りするお堂、



▼本坊大膳院表門。
屋根は銅葺。安土桃山時代。参道から凹形に切り込んで表門が設えられています。



▼遠敷川(おにゅうがわ)。
若狭の地を知り尽くして今も流れているのでしょうね。
この上流2キロに鵜之瀬があります。



神宮寺のすべての建物には、注連縄と御幣が飾られています。近くには若狭遠敷
明神を祀る神社上下社があり、このお寺は地主神と外来神を祀る、まさに神仏習
合のお寺。でした。

さて次は、この写真を撮った遠敷川から一路東へ、明通寺を訪ねます。

柳生家菩提寺、あの柳生十兵衛も眠っている芳徳禅寺を訪ねました。

2011年11月09日 | 奈良の古寺巡り


(2011.11.05訪問)

南明寺からほんの10分足らず、柳生一族の菩提寺、芳徳禅寺を訪ねました。

稀代の剣豪、柳生十兵衛が柳生家二代藩主だったこと知ってました?
お寺の裏山には、柳生一族代々の墓八十基余りが整然と並び、十兵衛をはじめ柳
生三代の墓が目をひきます。

▼柳生石舟斎宗厳塁城址(宗厳の居住地址とされている地)。



[ 芳徳禅寺 ]
●山号 神護山(じんごさん)
●寺号 芳徳禅寺(ほうとくぜんじ) 通称 芳徳寺
●宗派 臨済宗大徳寺派
●開基 柳生但馬守宗矩
●開山 沢庵和尚
●創建 寛永15年(1638年)
●本尊 釈迦如来坐像

芳徳禅寺縁起
柳生但馬守宗矩が父柳生石舟斎宗厳の菩提供養のため寛永15年(1638年)創建。
大徳寺で修行した末子義仙(列堂義仙)が芳徳禅寺第一世となる。

▼参道と山門。



▼石標。



▼山門から本堂。



▼本堂。



▼石塔と染まり初めのもみじ。



▼資料室。受付を兼ね本堂へ入り口。



▼本堂裏手から柳生家墓所への道。
お墓を巡るというのは少々気が引けますが、剣禅一致の宗矩、柳生新影流を継ぐ
十兵衛、又十郎など稀代の剣豪が眠る墓所巡りも一興かと。
残念ながら十兵衛よりも腕が上と云われた柳生兵庫助の墓はありません。



▼入り口石段横の六地蔵。



▼墓所の一角。



▼柳生石舟斎宗厳の墓。写真中央四基の右から二基目。



▼(左)初代柳生宗矩 (右)三代柳生宗冬(又十郎)の墓。



▼二代柳生三厳(十兵衛)の墓。
柳生藩第二代藩主。碧眼の剣豪で藩主としては異説もあり、四十四歳で亡くなり
ますがその死因もいろいろ説あり、碧眼というのも曖昧、今に残る十兵衛画像は
碧眼ではありません。早い話歴史的事実としては確固たるものはないみたいです。



しかし、千葉真一の十兵衛は迫力ありましたネ。

芳徳禅寺は本堂を残すのみの小さなお寺ですが、もともと、柳生家居城が構えら
れていた地らしく、柳生の里が一望できる絶好の丘陵地に在ります。柳生家は春
の坂道や柳生一族の陰謀などTVや映画などで描かれていますが、将軍家剣道指南
役が、大名に取り立てられ、剣で身を立つ例のない藩だと云います。

▼本堂。