土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

圓通寺の枯山水庭園、比叡山が借景です。

2014年02月27日 | 京都の古寺巡り


(2014.02.22訪問)

金福寺を辞すとき辺りを見ましてもミケの姿はありません。今頃、キットご住職とおこた団欒なのでしょう。

曼殊院道を引き返し、叡電一乗寺駅から出町に戻らず鞍馬行に乗ったと思ってください。木野駅で降りて南
に向かって歩いていると思ってください。左手に比叡山の勇姿がついてきます。そうなんです、比叡山を借
景とした枯山水庭園を持つ圓通寺に向かっています。クルマが時々通りますが、人っ子一人なし。

▼山門。幕は菊の御紋です。




[ 圓通寺 ]
●山号 大悲山 (だいひさん)
●寺号 園通寺 (えんつうじ)
●宗派 臨済宗妙心寺派
●開山 景川宗隆 (けいせんそうりゅう)
●開基 文英尼公 (ぶんえいにこう)
●開創 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)
●創建 延宝六年(1678年)
●本尊 聖観音菩薩立像。
▲京都市左京区岩倉幡枝町389 TEL.075-781-1875
▲拝観料 500円 御朱印300円
▲拝観時間 4月~11月 10:00~16:30 12月~3月 10:00~16:00
▲市バス4号系「深泥池」下車徒歩約20分
 地下鉄烏丸線「国際会館」下車徒歩約20分

圓通寺縁起 (圓通寺パンフレットから抄出)
江戸初期後水尾上皇造営の幡枝離宮のあとを禅院に開創。左大臣園基任の三女文英尼公を開基とし、後水尾
上皇より山号大悲、寺号圓通の勅額を賜り、霊元天皇(後水尾天皇の第十九皇子)の勅願寺院となる。以来、
皇室の祈願所として後水尾上皇以降歴代皇族の御尊碑が御幸御殿に祀られている。


▼禅刹典型石柱。臭いもの喰った者入るべからず。




▼鐘楼。




▼前庭に蝋梅。




▼潮音堂。黄檗宗の祖、隠元さんが中国より請来したという不空羂索観音をお祀りしています。




▼書院前庭。
さすが京一と称される枯山水庭園。比叡山を借景とした名勝庭園には大勢の方々で書院は埋まっていました。
時節柄、苔のグリーンも茶色、生け垣の緑も元気がありません。しかし杉木立を通して見る比叡山は、借景
と云うよりもむしろ主役、このお庭を設計した後水尾天皇の感性の高さに喝采! そんな気になるお庭です。



枯山水庭園は庭一面の杉苔と四十個余りの石とつつじの刈り込みを配し、高さ160cmの生垣は、50種類
近い樹木を混ぜて作られた「混ぜ垣」で構成され、ほぼ等間隔で聳える杉と檜の巨木が比叡山を霊峰として、
その露払いの役をし、お庭全体を引き締めているようです。

▼書院前庭。




▼書院前庭。




▼比叡山。




▼書院前庭。配されている40個余りの石は後水尾天皇自らが置き、配されたそうです。




▼境内から山門。




▼ご朱印です。この文字も素晴しいですネ。ご住職の文字です。




圓通寺は比叡山を借景とする枯山水庭園でつとに有名ですが、こじんまりとした規模で、決して大きいお寺
ではありません。皇室ゆかり寺院なのでどことなく高貴な香りはしますが、拝観は庭園に限られていますの
で禅刹としての感じは受けませんでした。それにしてもご本尊はどこにお祀りしてるのでしょう。

さてこれから宝ケ池PHへウォーキングです。なぜ宝ケ池PHかは聞かないでくださいネ。



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金福寺は松尾芭蕉&与謝蕪村ゆかりのお寺です。そうそうスターニャンコもいます。

2014年02月25日 | 京都の古寺巡り


(2014.02.22訪問)

叡電一乗寺駅を降りて、曼殊院道をフラフラ歩いていると思ってください。史跡一乗寺下り松の道端に金福
寺の道しるべがあるじゃないですか。洛北はよく来るんですが、金福寺は訪ねたことがありません。早い話
詩仙堂や圓光寺のスグ近くです。と云うことで金福寺を訪ねました。なぜ曼殊院道を歩いていたかは聞かな
いでください。

▼書院と前庭。

 


[ 金福寺 ]
●山号 佛日山 (ぶつにちざん)
●寺号 金福寺 (こんぷくじ)
●宗派 臨済宗南禅寺派
●開基 慈覚大師円仁 (じかくだいしえんにん)
●創建 安恵僧都(あんねそうず)
●開創 貞観六年(864年)
●中興 鉄舟和尚(てっしゅうおしょう)
●本尊 聖観音菩薩立像。
▲京都市左京区一乗寺才形町20 TEL.075-791-1666
▲拝観料 400円 御朱印300円
▲拝観時間 9:00~16:30
▲叡山電車 一乗寺下車 徒歩約20~30分
 市バス 一乗寺下り松町下車 徒歩約5分

金福寺縁起 (金福寺パンフレットから抄出)
安恵僧都が慈覚大師円仁の意思により貞観六年に創建。円仁さん自作の観音像を本尊として安置。元天台宗
のお寺であったがその後荒廃し、江戸中期、すぐ近くの圓光寺の沢雲和尚の法嗣鉄舟和尚が再興、臨済宗南
禅寺派となり、今日に至っている。また、松尾芭蕉と与謝蕪村ゆかりの俳句聖地の寺として知られている。

▼山門。




▼寺標。




▼吾唯足知。




▼書院。




▼書院前庭。



濡れ縁に坐っているニャンコ見えます? ここの著名人じゃなかった、著名ニャンコのミケです。山門入る
とスグ挨拶に来てくれ、拝観受付まで案内してくれ、拝観料払うとお庭に案内してくれ、撮影の合間に寄り
添ってくれ、かがむと右手で握手を求められ、顔をスリスリしてくれ、それでは書院に入ろうと濡れ縁まで
連れてくれ、出てくるまで待ってくれて、芭蕉庵への石段下まで送ってくれました。
ウソと思うでしょ、ちょっと混ざってますがホントです。
じゃれあっていてミケの顔撮るの忘れました。今日は一日いい日になりそう。

▼書院前庭。




▼白いロールカーテンの柔和な光が鋭利な冬を和らげてくれてます。




▼床の芭蕉翁像、与謝蕪村描。




▼蕪村が俳諧の先師として最も尊敬していた芭蕉のアップ。




▼蕪村筆「奥の細道画巻(重文)」
 蕪村が全文を書き、十四の場面を俳画で入れた画巻の部分。これはレプリカ。




▼手水鉢。




▼高台にある芭蕉庵へ行ってみましょう。この石段下までミケは送ってくれました。




▼高台から西を見渡せば、前方一番高い山は愛宕山924m。ボクは明日あの麓まで行きます。




▼芭蕉庵。 (金福寺パンフレットから抄出)
 江戸元禄期、松尾芭蕉は吟行中、金福寺の鉄舟和尚を度々訪れ親交を深めていた。和尚は自身の庵を芭蕉
 庵と名付けいつまでも芭蕉の高風を偲んでいたそうです。
 その頃の芭蕉が詠んだ句。憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥 芭蕉
 その後与謝蕪村も俳諧遍歴の後金福寺を訪ね、敬慕していた芭蕉と芭蕉庵の荒廃を惜しみ、安永五年この
 庵を再興したそうです。
 そのとき蕪村が詠んだ句。耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵 蕪村




▼芭蕉庵の床。
 軸の句。雪折も 遠く聞へ 夜ぞふけぬ 蕪村




▼花模様。




▼安永五年(1776年)荒廃していた庵を蕪村が再興、以来238年の刻の流れ…。




▼芭蕉庵の茅葺きの屋根。




▼芭蕉庵の西窓から。




▼芭蕉庵。




▼奥に板の間があり囲炉裏がきられています。




▼芭蕉顕彰碑。蕪村が建てたもので芭蕉の生涯を称えた文が刻されています。
 この碑の建立時に詠んだ句で、望みどおり後ろの丘の墓に葬られたそうです。
 我も死して 碑に辺せむ 枯尾花 蕪村




▼その与謝蕪村の墓。




▼御朱印です。ミケの手形も押して欲しかったですよご住職。
ミケのおかげで俳聖芭蕉も蕪村もかすんでしまいました。




日頃風流からはほど遠い生活に浸りきっている身にとって「俳諧」とは、「徘徊」と思ってしまう我が身が
情けない。
そこで一句。徘徊の 身になろうとも ミケがいる (ここだけの話、季語なんてクソクラエ)
また来るよミケ!!!!!





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喜光寺は行基さんが建て、示寂したお寺です。

2014年02月18日 | 奈良の古寺巡り


(2014.02.16訪問)

近鉄西大寺からテクテク20分、いいお天気で歩き日和、金曜と土曜日に降った雪は見事に跡形なし。
この日の喜光寺は拝観の方は僅か。本坊で茶菓子の接待まで戴いて小林副住職としばらく文字談義。最後の
御朱印を見てください見事な字でしょう、小林さんの書です。母上が書道家でご本人も習っていたと云いま
す。お上手なはずです。
喜光寺は薬師寺末、住職は現薬師寺管主山田法胤さんが兼ねています。小林さんはこのお寺の副住職で薬師
寺録事でもあり、師弟でこのお寺を盛り上げ、ここ数年で見違えるお寺に変身。お寺経営も僧侶の力関係と
経営センスが大きなウエイトを占めるんでしょうね。

▼本堂。




[ 喜光寺 ]
●山号 清涼山 (せいりょうさん)
●寺号 喜光寺 (きこうじ)
●宗派 法相宗薬師寺末別格本山
●開基 行基 (ぎょうき)
●開創 伝養老五年 (721年) 異説あり。
●本尊 阿弥陀三尊。
▲奈良市菅原町508 TEL.074-245-4630
▲拝観料 500円 御朱印300円
▲拝観時間 9:00~16:30
▲近鉄西大寺駅から徒歩20分。 近鉄尼ケ辻駅から徒歩10分。

喜光寺縁起
養老五年(721年)僧行基が元明太上天皇の勅願により、行基創建四十九院の一つとして創建。当時は地名
をとり菅原寺と称していたが、天平二十年(748年)聖武天皇により喜光寺と改名。戦国時代兵火で寺地伽
藍が壊滅。天文十三年(1544年) 再建されたのが現在の本堂。
行基さんはこのお寺で天平二十一年(749年)二月二日入寂。

▼南大門。楼門様、三間一戸、入母屋造、総檜造。
初層左右に金剛力士が控え、上層は納経蔵。平成二十二年五月一日落慶。




▼南大門扁額。




▼南大門金剛力士。
初層左右の金剛力士像は、現代日本彫刻界の最高峰、2007年文化勲章受章の中村晋也さん造像。
彫刻家が造る仏像とはこれだ!の造形。像の性格から当然の大迫力、肉体造形学からの筋肉の動き、今にも
筋肉各部がピクピクしそうな感覚、ギョロっと見据えた両眼から発する畏光に仏敵もいたたまれなくなり逃
散請け合い。

現在の仏師といわれる方たちの作風との差はアリアリ。造像には儀軌に則った作法があり、各仏師のご苦労
は並大抵ではないでしょうが、釈迦哲学を消化した往時の精神の聖域を保ちつつ現代に蘇らせれば、こうな
ると云う仏像表現の新しい作例でしょう。それにしても素晴らしい仁王さんです。

▼南大門阿形金剛力士。像高3.2m、ブロンズ像。




▼南大門阿形金剛力士。




▼南大門吽形金剛力士。像高3.2m、ブロンズ像。




▼南大門吽形金剛力士。




▼本堂 (重文)。桁行五間、梁間四間(正面一間は吹き放ち外陣)寄せ棟造、単層吹き抜けの裳階付。
創建本堂は、室町時代の明応八年(1499年)焼失、室町末期の天文十三年(1544年)再建。




▼本堂扁額。旧寺名菅原寺とあります。




▼本尊 阿弥陀三尊。背面壁に飛天が翔んでるのわかります?




▼阿弥陀如来のお顔。




▼中尊、阿弥陀如来坐像 (重文)。像高233cm、木彫寄木造、漆箔、藤原期。
漆箔は僅かに残るのみですが、からだ全体はやや細身、眼は彫り込みが浅く黒目は墨彩、上瞼は切れ長で半
眼風、お口は小さく引き締まり、穏やかな思考中といった感じを受けます。




▼左脇侍、観音菩薩坐像。像高164cm、木造、漆箔、南北朝期。




▼右脇侍、勢至菩薩坐像。像高161cm、木造、漆箔、南北朝期。




▼三尊の後ろで翔んでる飛天?
菩薩系三体、僧形一体が背面の虚空を翔んでいます。非常に新しいので最近作かと。




▼行基菩薩坐像。像高83cm、唐招提寺所蔵の行基菩薩坐像のレプリカ。




▼行基さんのお顔。
複製とは云え、相当迫力のあるお顔は、ボクたちがよく見る行基さん立像(近鉄奈良駅前像、霊仙寺行基像
や九品寺行基像など)の柔和な表情とは違い壮年期の生気溢れる気迫がググッと。




▼本堂天井。




▼境内に会津八一さん歌碑。
ひとりきて かなしむてらの しろかべに 汽車のひびきの ゆきかえりつつ




▼一株のサザンカが懸命に咲いていました。




▼四十七体の石仏。江戸期のものだそうです。







▼釈迦初転法輪石像と仏足石。




▼本堂背面に建つ弁天堂。




▼可愛い弁天さんがお厨子の前に。お厨子には御神体宇賀神が祀られ、この神は弁天さんの本地仏らしいで
すね。ご神体は毎年7月中旬に特別開扉されるそうです。




▼御朱印です。副住職小林さんの字です。




小林さんが撮ったという写真を見せてくれました。金曜日の深々と雪が舞う本堂の写真、モノクローム情景
はなかなかの出来、ご本人も謙遜の中にも満更でもなさそう。こういう写真を見ると雪のお寺情景はいいも
のです。寒いとか冷たいとか何とか云う前に出かけたいのはやまやまなれど……。
は~るよこい! は~やくこい!





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大原三千院。今日の大原、墨絵ぼかしの隠れ里と云いたいんですが。

2014年02月10日 | 京都の古寺巡り



(2014.02.08訪問)

ペルシャ絨毯より上等と云われる三千院有清園の緑の絨毯も、今日は白一色になってます。
とは云え、お寺の方も云ってました、「こんなベタ雪はかないまへんな、滑りやすいんで気つけなはれや」
なんのなんの、訪れる人はさすがに多い。寒かろうが、雪が降ろうが、雨が降ろうが天下の三千院です。
よ~く考えてみると、今日から初午三千院名物大根焚き、皆さんこれがお目当てなんやな。
ボクは違いますよ、墨絵ぼかしの隠れ里、雪の大原、雪の三千院ってどんなんかな、で、はるばる出町柳か
らバスでやってきたんです。

▼往生極楽院。




[ 三千院門跡 ]
●山号 魚山(ぎょざん)
●寺号 三千院門跡(さんぜんいんもんぜき)
●宗派 天台宗
●開基 伝教大師最澄(さいちょう)
●開創 延暦年間(782~806年)
●本尊 薬師如来立像(秘仏) 宸殿に祀られています。
▲京都市左京区大原来迎院町540 TEL.075-744-2531
▲拝観料 700円 御朱印300円
▲拝観時間 9:00~16:30 (冬期12月~2月)
▲JR京都駅から市バス16、17系統「大原」下車徒歩20分
 京阪電車「出町柳駅」から「八瀬」下車、市バス16,17系統「大原」下車徒歩20分

三千院縁起 (三千院HPから抄出)
比叡山延暦寺を開かれた伝教大師が、東塔南谷に草庵を開いたのに始まり、その後幾たびか移転しました。
寺名も円融房、梨本房、円徳院、梨本門跡、梶井宮と変遷、応仁の乱後、梶井宮の政所であった現在の地を
一時仮御殿とされ、明治維新までは御所の東、河原町御車小路梶井町に御殿を構えておりました。
元永元年(1118年) 堀川天皇第二皇子、最雲法親王が梶井宮に入室され正統を継がれて以来、皇族出身者が
住持する宮門跡となりました。妙法院、青蓮院、曼殊院、毘沙門堂とともに天台宗五箇室門跡のひとつとし
て歴代の天台座主を輩出してきました。

▼御殿門。




▼庫裡拝観受付。




▼客殿玄関。




▼客殿坪庭の蹲。




▼客殿前庭、池泉回遊式庭園の聚碧園。一面綿帽子で何が何やら。




▼宸殿。
大正15年(1926年) 宮中行事の御懺法講儀式を行うため御所の紫宸殿を模して建立。




▼宸殿本尊。本尊 薬師瑠璃光如来立像は秘仏。このお像は御前立像。(BS11京都国宝浪漫から複写)




▼宸殿左前に立つ石仏。お顔が良くわかりません、どなたなんでしょうか。




▼放生池。すっかり凍ってます。




▼蹲。




▼宸殿から見る往生極楽院(重文)。桁行三間、梁行四間、単層入母屋造、柿葺。寛和2年(986)の建立。




▼往生極楽院の本尊、阿弥陀三尊像。



本尊 阿弥陀三尊像。脇侍は向かって右、左脇侍観音菩薩坐像。向かって左、右脇侍勢至菩薩坐像。
中尊阿弥陀如来坐像(国宝) 像高233.0cm、木造檜寄木造、漆箔。久安四年(1148年)。
脇侍観音菩薩坐像(国宝) 像高131.8cm、木造檜寄木造、漆箔。久安四年(1148年)。
脇侍勢至菩薩坐像(国宝) 像高130.9cm、木造檜寄木造、漆箔。久安四年(1148年)。
衆生を彼岸へ誘うため阿弥陀さんと、菩薩お二人の来迎する姿を表していると云います。菩薩お二人は、ま
さに立ち上がろうとする瞬間の姿、上半身やや前屈みのご存知大和坐りで。

▼中尊の阿弥陀さんのお顔。




▼有清園から見る往生極楽院。
このカットを撮ってる時、ビックリしました。杉のてっぺんからドサッと雪が落ちてきてもろにかぶりま
した。




▼わらべ地蔵。右上のわらべちゃんがこの姿に。ほかのわらべちゃんはすべて雪の中。




▼灯籠。




▼往生極楽院から真っすぐ先に朱雀門。




▼観音堂。




▼観音堂本尊。キンピカの聖観音立像が祀られています。




▼恒例の三千院初午大根焚きが今日から始まりました。




▼正装 (大原女正装) でボクの為に大根を入れてくださった昔お嬢さん。




▼どうです、お出汁のいい匂いしません? 



美味しくて、暖かくて、ホッコリしたところでさてボチボチ帰るとしましょうか。

▼御殿門から見た金比羅山が白く染まりだしました。




▼まだ雪が舞っている御殿門。




▼朱雀門。今は飾り門のようです。往生極楽院を本堂としていた頃の正門だそうです。




▼御朱印です。




▼大原の里。







▼今日の出町出会い。さすがにこの寒さ、人がいませんが、すっかり雪は止んでます。
ウン、洲の先端に白いものが。




▼雪ダルマじゃないですか、なんとも粋でおしゃれな演出、ブラボーちゃん!!




雪の大原は初めてです。いまや大原の里は「隠里」「祈りの里」という風情を感じることは出来ません。
そんな中、深々と降りそぼる雪に一帯がモノトーンの世界に変わる時、雪がすべてを隠し、寂びた風情を感
じることが出来るのではと、墨絵ぼかしの里を訪ねてみたのでした。
深々と降りそぼるというほど情緒のある降り方ではなかった今日の大原。時折の強風にまるで吹雪き、と思
えば大粒のベタ雪が顔を濡らし、杉のてっぺんから雪は容赦なく落ちてくるし、境内参道はジュクジュク、
こわごわ歩く始末、墨絵ぼかしの情緒に浸る暇はありませんでした。




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阿弥陀寺、特別公開の信長公像は数ある彫像や似絵の中で一番似てるそうです。

2014年02月05日 | 京都の古寺巡り



(2014.02.01訪問)
寺之内から今出川通りに出て、相国寺を通過、同志社女子大の前で八重さんを偲び、バカ陽気京の町をフラ
フラと東へ、次に寺町の「阿弥陀寺」を訪ねました。寺町の通りにはあまり大きくないお寺が甍を並べてい
ます。その中に在って阿弥陀寺の山門へ入る人の多いこと、本堂前のチケット売り場には列が出来てました。
先ずビックリ!


▼本堂と台杉。




[ 阿弥陀寺 ]
●山号 蓮䑓山(れんだいさん)
●院号 総見院(そうけんいん)
●寺号 阿弥陀寺(あみだじ)
●詔勅 正親町天皇
●開山 清玉上人 (せいぎょくしょうにん)
●開創 弘治二年(1555年)
●宗派 浄土宗 百万遍知恩寺末
●本尊 阿弥陀如来坐像
▲京都市上京区寺町今出川上ル鶴山町14 TEL.075-231-3538
▲拝観料 特別拝観一般600円 御朱印500円
▲拝観時間 9:00~16:00
▲地下鉄烏丸線「今出川駅」下車徒歩20分、
JR京都駅から市バス205系統「葵橋西詰」下車徒歩5分
京阪電車「出町柳駅」下車徒歩15分
 
阿弥陀寺縁起(京都観光Naviから抄出)
天文年間、織田信長の帰依を受けた清玉上人が開山。当時蓮臺野芝薬師に伽藍を構えていた織田家の菩提寺。
天正十年六月二日未明、本能寺の異変を清玉上人は知り、近習の武士達に遺骸を託され持ち帰る。その後明
智光秀の陣を訪ね、戦闘の停止と、嫡子信忠、森蘭丸等本能寺、二条城にて自刃、討死した織田家中百余名
の遺骸の収容、供養を申し出、光秀はこれを受諾、清玉上人は阿弥陀寺にて供養、墓を建てた。今も信長は
じめ百余名の討死衆の合祀位牌が現存、供養されています。(詳しくは駒書きを読んでください)


▼山門。寺町通に面して建つ四脚門です。




▼織田信長本廟石標。




▼阿弥陀寺駒札。




▼鐘楼。




▼本堂。桁行五間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺、一間の向拝付。




▼本堂扁額。山号の 蓮䑓山と揮毫されています。




▼本堂中央須弥壇に本尊阿弥陀如来坐像。(京都市観光協会HPから)



本堂に入ってまたビックリ! 外陣に大勢の人が坐り、ボランティアの方の説明を聞いてます。


▼本堂左の間に、特別公開の目玉、信長公と嫡男信忠父子の木造が安置。
写真は信長公。(京都市観光協会HPから)



この彫像は信長公没後一年後くらいの彫像なので、作家もヒョットして信長公を知っている人かも知れず、
数多ある信長像の中でも一番似ているのではないかと云う見方があるそうです。夢がありますネ。
須弥壇上部の格天井には日本画家上田幸子氏の天井絵「彩華来迎花浄土之図」が描かれています。非常にき
れいです。


▼本堂。




▼本堂と奥に見えるのは書院への渡り廊下。




▼客殿玄関。横に子供ちゃりんこ、庶民性抜群、いいお寺の演出!




▼芭蕉の句碑。 春立つや 新年古き 米五升



芭蕉没後百年、阿弥陀寺住職で俳人でもある蝶夢さんが、五升庵と号して芭蕉の顕彰につとめたそうです。
この縁で芭蕉のこの句碑を建てたと云われているそうです。


▼信長公墓所。右が信長公の墓標です。左は嫡男信忠さん。



織田信長の墓所と伝えられるものは、全国十カ所以上あるそうです
が、清玉上人の尽力この上なく、阿弥陀寺の墓所が本廟として認められているそうで、他所は供養塔とのこ
とらしいのです。


▼信長の墓所の横に森蘭丸三兄弟の五輪塔墓が並んでいます。惜しいかな塔頂の空輪が欠けてありません。




▼庫裡です。御朱印はこちらで戴くんですが、入ってまたまたビックリ! 大勢の人が並んでました。
ナナント御朱印500円也! これにもまたまたまたビックリ!




▼その御朱印です。




信長公木像以外に位牌、信長公使用の弓掛や鞍覆、手槍先、また本能寺や二条城討死衆合同位牌、豊臣秀吉、
明智光秀の書状などが公開されています。
非公開文化財特別公開ってこれほどの人気とは思いませんでした。公開寺院15ヵ寺、期間は3月18日(火)ま
でです。拝観料1カ所600円、高いか安いか??? わかりません。


▼今日の出町出会い。午後三時半ごろ。





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