土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

園城寺(三井寺)その2

2011年03月09日 | 滋賀の古寺巡り


(2011.03.05 訪問)
村雲橋を渡り南院エリアに向かいます。
後ろを振り返ると南面した金堂が見えます。左手石段は唐院参道です。


▼微妙寺
村雲橋から南に見えますこのお寺は、三井寺五別所の一寺院。
本尊 十一面観音立像(重文)像高82cm。
秘仏ですが、この日は特別開扉で拝することが出来ました。頭部が妙に大きく足
が極端に短いお世辞にもプロポーションがいいお像とはいえませんが、非常に厄
除け霊験のある人気の観音さんらしいです。
別所寺院とは、平安時代から仏法布教、衆生救済のため本寺の周辺に設けた別院
のことだそうです。


▼微妙寺説明板


▼天台大師石像


▼天台大師説明板


▼毘沙門堂参道


▼毘沙門堂(重文)
移築を繰り返し戦後この地に落ち着いたそうです。江戸初期の建立、極彩色の小
さいながらも奇麗なお堂です。


▼毘沙門堂説明板


▼南院エリアに入ります。石段下の表示石碑。ここから石段を登り高台へ。


▼南院エリアの俯瞰


▼観音堂
正式には正法寺といいます。西国三十三所観音霊場の第十四番札所。
本尊 如意輪観音坐像(重文)。
三十三年に一度開扉、一面六臂の像形、寄木造、彫眼、漆箔像、江戸中期建立、
二層の大きなお堂です。この日も巡礼姿の多くの方々がみえていました。


▼観音堂説明板


▼鐘楼


▼鐘楼説明板


▼観月舞台
古より観月名所として知られてきた優美な建物です。 この写真じゃ何か分かりま
せんね。スンマセン!


▼観月舞台説明板


▼百体観音堂
中央に観音堂本尊と同じ如意輪観音像を祀り、左右に西国礼所の三十三観音像、
坂東三十三所、秩父三十四所の本尊を安置、合わせて百体の観音像を安置するこ
とから百体堂と呼んでいるそうです。


▼手水舎
六角形の珍しい建物、水盆もかなりの高さです。


▼南院エリアの高台から残雪の比良山系が望めます。中央が蓬莱山、その奥が武
奈ヶ岳。だと思います。


比良山系には数十年前の強烈なトラとウマがいるのです。実は死にかけたのです。
厳冬期の比良縦走を級友のマスオと冬山訓練と称して入り、それなりの装備で幅
広短寸の山岳スキー板を着け比良ロッジを出発、雪が静かにふっています、かす
かに残るラッセル跡を辿りながら北へと30分位でしょうか次第に吹雪いてきまし
た。ほとんど視界なし、突然ズボッとボクが右の新雪へ、マスオが左の新雪にほ
とんど同時に首まで埋もれました…。(以下略) 
とりあえず家に帰りましたが、母親から、「お前はバカか」でオシマイ! 
青春のオソマツ。チャンチャン!

▼水観寺
三井寺五別所の一寺院。江戸中期の再建。西国薬師霊場の一つ。
本尊薬師如来立像、まぢかで拝せる如来さんです。横別室にはあのとんがり頭の
宗祖円珍さんの像が祀られています。


▼水観寺説明板


▼護法善神堂(千団子社) このお堂は中院エリアです。
本尊 鬼子母神。
鬼子母神は人間の子を食する悪鬼といわれ、釈尊が彼女の子を隠したところ、非
常な嘆き悲しみようでした。釈尊が慈愛を施すと、仏教に帰依し、善女神になっ
たといわれる有名なお話がありますネ。
五月十六・十七・十八日には鬼子母神に食われた千人の子供たちの供養のため千
の団子を供え千団子祭りが行われているそうです。




▼総門
南院エリアへの門だと思うんですが、ボクはこの門から三井寺を辞去しました。


ボクがこの日巡れたのは、三井寺全寺域の半分ぐらいではないでしょうか。北院
エリアは全く回れてはいません。とにかく広大な寺域で見逃した塔頭寺院やお堂
は数知れずです。天台宗は山門派、寺門派と別れてはいますが、寺勢や寺域の強
大さだけでなく最澄さん渾身の天台教義は弟子筋の円仁さん、円珍さんを通じて
平安仏教の礎を築いた天台の底力を改めて見た思いがします。
比曽寺東塔その後を見ることが出来たのは満々足々、懐かしく、恐ろしい比良山
系も相変わらずそこに在りました。メデタシメデタシ。
三井寺巡りはこれにてオシマイ!

流転の三重塔を見たくて園城寺(三井寺)へ。その1

2011年03月08日 | 滋賀の古寺巡り


(2011.03.05 訪問)
二月五日に訪ねた吉野の名刹世尊寺ブログの中で、世尊寺は旧比曽寺跡でその比
曽寺東西両塔跡が残りますが、うち東塔は文禄期豊臣秀吉により伏見城へ、慶長
期徳川家康によって三井寺に移転と書いています。その東塔の現在の姿を是非見
たくて三井寺を訪ねました。
久し振りに豪快なお寺で巡りごたえ○。観光寺院に徹している所がこれまた○。
園城寺や三井寺とバラバラに寺名を使いますがご容赦を!

▼三井寺全山案内板


[ 園城寺 ] おんじょうじ 俗称 三井寺
●山号 長等山(ちょうとうさん)
●寺号 園城寺(おんじょうじ)
●宗派 天台寺門宗総本山
●開基 大友与多王(大友皇子の皇子)
●中興 智証大師円珍
●本尊 弥勒菩薩
●西国三十三所観音霊場の第十四番札所

園城寺縁起
壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子、大友与多王が父の霊を弔うために田園城邑を
寄進して寺を創建、天武天皇から園城という勅額を賜わったことが園城寺の始ま
りとされています。
三井寺と呼ばれるようになったのは天智、天武、持統天皇の三帝の誕生の際に産
湯に用いられたという泉があり御井の寺とと呼ばれていたものを後に智証大師円
珍さんが厳儀三部潅頂の法儀に用いたことに由来するそうです。平安中期山門派
と寺門派とに分かれ幾度となく対立、抗争で焼失、再興を繰り返し山門派は延暦
寺、寺門派は園城寺として現在に至っているといことです。早い話円仁派と円珍
派の対立、今はどうか知りませんが要するに仲が悪いという事です。きっと最澄
さん嘆いていると思いますがいかが。そのために殆どの伽藍堂宇は江戸期の再建、
移築といいます。

▼京阪電車三井寺駅
ここから三井寺に向かいます。駅はともかく大津の街はきれいな街です。


▼三井寺前交差点
本名か俗名か、どちらかにした方がいいんじゃないですか。


第一歩は中院エリアから
▼中院参道


▼仁王門(重文)
中院の表門。
この門の由緒は天台宗の古刹常楽寺の門で、秀吉が伏見城に、家康が現在地に移
築たとしています。


▼仁王門の千社札
まァなんと所狭しと千社札貼りまくり、いい雰囲気ではありませんか。ボクも作
りたいです。作ろかなァ。よし作ろう。千社札に見とれて両脇の仁王さんを見る
の忘れました。


▼釈迦堂(重文)
仁王門を入ってスグの右に建つお堂です。
本尊 釈迦如来立像。
正面七間 側面四間 向拝付き 入母屋造 桧皮葺 室町期の建築。
堂内正面須弥壇お厨子に佇む本家とはいくらか印象は違いますが、清涼寺式の釈
迦如来立像です。


▼金堂への参道
金堂東面に向かう参道です。




▼手水舎


▼金堂(国宝)
本尊 弥勒菩薩(秘仏)
正面七間 側面七間向拝付き 入母屋造  桧皮葺 桃山時代の再建。
ご本尊は拝見出来ませんが、お堂後陣には平安以降の仏像群が置かれています。
四仏界の仏たちのオンパレード見応え充分。
円空仏八体も異形を放っていますよ。




▼金堂説明板


▼金堂正面向拝外廊


▼鐘楼(三井の晩鐘)(重文)
近江八景三井の晩鐘で名高い梵鐘が吊られています。


▼三井の晩鐘説明板


▼閼伽井屋(重文)
金堂西脇に寄り沿うように建っています。三井寺の名のもとになった御井。


▼閼伽井屋の内部の泉
耳を澄ますとプクプクと水が湧く音がしますがこれボクの錯覚か空耳か?


▼閼伽井屋左甚五郎の龍


▼霊鐘堂
弁慶の引きずり鐘が置かれています。


▼弁慶の引きずり鐘
山門派と寺門派との戦いで山門派の弁慶が園城寺の鐘を奪って比叡山へ引きずり
上げて撞いたところ鐘が帰えりた~いと鳴ったので弁慶怒って谷底へ投げ捨てた
という因縁がある鐘です。
ジックリ見ると傷や割れ目が確かにあります。だけどほんとかなァ。鐘の前にあ
る変なものなんでしょうね?


ここから唐院エリアです。
このエリアは智証大師円珍さんを祀る大師堂を中心としますが、大師堂へは近づ
くことが出来ません。
唐院伽藍にはこの日の一番の目的、三重塔が建ってます。

▼唐院山門参道


▼唐院説明板


▼唐院四脚門


▼唐院潅頂堂(重文)
大師堂の拝殿。四脚門と大師堂の間に建つ伝法潅頂を執行するお堂。


▼唐院護摩堂


▼唐院三重塔(重文)
比曽寺東塔を秀吉さんが伏見城へ、それを江戸のタヌキじゃなかった家康が三井
寺に移築したものです。
本尊 木造釈迦三尊像 三間三重塔婆 本瓦葺 室町時代の建造。
各層の軒が深く安定感抜群、均整のとれた美しい三重塔です。思ったよりも大き
く感じました。このような塔が東西に建っていた吉野の比曽寺、相当大きなお寺
だったのでしょう。しかし時の為政者は何を思って建造物を移動させたのでしょ
うか。






▼唐院三重塔の組み物


▼唐院三重塔南面
一層目の外廊と正面石段。


▼唐院三重塔説明板


▼村雲橋
唐院伽藍を出て、南院エリアに向かうスグの所にある円珍さんにまつわる伝説が
語られる小さな石橋です。


中院エリアと唐院エリア お し ま い。南院エリアに続きますよ。

談山神社は大化改新の主役、藤原鎌足を祀っています。

2011年03月03日 | 奈良の古寺巡り


(2011.02.26 訪問)
音羽山観音寺から多武峰談山神社まで約15分、県道37号から県道155号明日香
方面へ入り少し行くとすぐ談山神社です。
だいたい明日香へ向かうクルマがいません。錦秋もみじのシーズンと違って駐車
場にはクルマの影なし、二番目に近いバスパーキングに停めましたがボク一人で
した。

▼談山神社のシンボルタワー、十三重塔の宝輪。



談山神社縁起(談山神社HPから抜粋)
舒明、皇極天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしい
ままにしていました。たまたま飛鳥の法興寺で蹴鞠会があったとき、鎌足公は聡
明な皇太子として知られていた中大兄皇子にまみえることができ、西暦645年の
5月、二人は多武峰の山中で大化改新の談合を行いました。後にこの山を談い山、
談所ヶ森と呼び談山神社の社号の起こりとなりました。鎌足公は真の日本国を発
想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。天智
天皇8年(669)鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞
い大織冠を授けて内大臣に任じ藤原の姓を賜りました。鎌足公の没後、長男の定
慧和尚は留学中の唐より白鳳7年(678)帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、
十三重塔を建立し妙楽寺と称しました。大宝元年(701)には神殿が創建され、
鎌足公の御神像をお祭りしたのが談山神社の始まりです。

皆さんよくご存じのお話です。が史学的定説と合わないところはご愛嬌としてお
きましょうネ。

▼正面鳥居。
シーズンオフはここから入れません。本殿まで140段の石段を登らなくて良かった
ラッキー!



▼神社石標。
何でもかんでも囲いがしてあります。イヤですネ~



▼神廟拝所(重文)。
旧講堂。鎌足さん長男定慧さんが父供養のため創建した妙楽寺の講堂。江戸期再建。



▼神廟拝所の内部。
真ん中の白い幕の中に鎌足さんの御神像が安置されています。



▼末社、総社本殿(重文)。
江戸期に造り替えられた本殿を移築。日本最古の総社らしいです。



▼閼伽井屋(重文)。



▼末社、比叡神社本殿(重文)。
一間社流造、檜皮葺きの小さな社ですが、唐破風付きの豪華な社です。



▼十三重塔(重文)。
なんといっても談山神社の顔。定慧さんが父供養のため創建した塔。江戸期再建。



▼楼門(重文)。
檜皮葺き、二層の堂々とした楼門です。



▼楼門と左は西宝庫(重文)。



▼拝殿(重文)。
こちらが南面の正面。直ぐ下が崖になっていますので建物は舞台造りです。





神社正面の石段を登りきった所から見た拝殿。



▼拝殿に展示されている多武峰縁起絵巻の部分。
蘇我入鹿暗殺の図。日本史の教科書でもおなじみであり、大化改新のクライマッ
クスともいえる板蓋宮における暗殺の場面です。太刀を振り上げているのが中大
兄皇子、弓を手にしているのが鎌足公です。



多武峯縁起絵巻は、藤原鎌足公の誕生にはじまります。長じて中大兄皇子にまみ
え、当時の最高権力者、蘇我入鹿を倒して大化改新の偉業を遂げたのち、鎌足公
の没後、長男の定慧が多武峯に十三重塔を建立、やがて談山神社本殿にまつられ
る談山神社の縁起を描いたものです。
(談山神社HPから抜粋)

▼拝殿透廊(重文)。
周囲を回廊が巡っています。



▼拝殿から本堂(重文)。
現在本殿修理工事中。鎌足さんを祀る旧別格官幣社。春日造りの朱極彩色の豪華
な社。大宝元年(701年)創建、現在の本殿は江戸末に造り替え。



▼摂社、東殿(重文)。
鏡女王、定慧さん、不比等さんを祀っています。



朱塗り重文建物オンパレードの境内です。
元々は妙楽寺というお寺だったらしいですが、大宝元年に鎌足さんを祀る神殿を
建てたことが神社としての始まりらしいです。真偽は不明ですが、神仏習合の最
たる例ではないでしょうか。十三重塔、旧講堂、楼門等にお寺の香りが残ってい
ますが、なんと云っても藤原氏の栄華の元は鎌足さんその人、鎌足信仰が連綿と
続く神社でした。

▼駐車場から見た東の山並。越えれば宇陀です。



音羽山観音寺は尼寺、途中の山道は尼寺の参道とは思えない。です。

2011年03月01日 | 奈良の古寺巡り


(2011.02.26 訪問)
桜井の音羽山山中にあるまさに山寺、音羽山観音寺を訪ねました。観音寺は尼寺
で、素敵なご住職がお寺を守っておられます。このお寺は眼病平癒に霊験があり
音羽の観音さんと親しまれている十一面千手千眼観世音菩薩を祀っています。
ヘロヘロでお寺に到着して本堂に上げていただき、ケーキとコーヒーとお茶まで
ご馳走になり、二時間たっぷりいろいろお話をお聞きしました。ボクのことです
から大変失礼なことも申し上げましたが終始ニコニコとお相手下さり、ご住職が
女性ということを忘れてしまうほどでした。

[ 観音寺 ] かんのんじ
●山号 音羽山(おとわさん)
●寺号 観音寺(かんのんじ)
●宗派 融通念仏宗
●本尊 十一面千手千眼観世音菩薩立像

観音寺縁起(音羽山観音寺HPから)
♡寺伝によれば、藤原鎌足公を、談山妙楽寺(現在の談山神社)に祀った際、鬼
門除けの寺として丑寅の方角音羽の地に一寺を建て、鎌足公自作の梅の木の観音
像を祀ったのが始めと伝えられています。
♡多武峰(とうのみね)略記には、天平寛宝元年(749年)に、心融法師が当
山を創建したとの記述があります。
♡京都清水寺の開祖延鎮僧都が霊感を得て堂宇を建立したのが始まりとの記録も
あります。ご本尊の体内にも、この本尊は山城の国清水寺の観音と一体分身の千
手観音也と墨書きがあります。

音羽山中の小さな尼寺(ご住職ごめんなさい)の由緒伝承でもこれだけあります。
どれがどうかの詮索は止めて、音羽山観音寺は今ここにあることが由緒なんだと
思います。

▼観音寺へのみちしるべ
談山神社への途中にある観音寺への標識。ここからボクの不幸が始まります。



▼駐車場少し手前にお寺の清々しいご挨拶、嬉しいお迎えです。地獄が待ってい
るとも知らないで。



▼さてここからいよいよ参道にかかります。なぜここに杖があるのか?
前日ご住職に電話で拝観お願いをしたところ、こられる時は登山靴がいいですよ、
下に杖が置いているので必ずお持ちになって下さいとのこと。ナヌ山登りじゃあ
るまいしと思ったのがそもそもの間違いでした。



▼一応参道です。平坦に見えるでしょうネ。
これはカメラが悪いんです。坂道に写らないんです。もの凄い勾配なんです。考
えられない参道なんです。
歩いたらわかりますわ。



▼これはお寺への丁道石ではなく、音羽山へのものです。一丁ごとに立っている
そうです。
なぜ一丁ごと?そんなこと知るかい!(スンマセン、すてばちになってきました)



▼こういう森の中の山道を一心不乱に行きます。なぜ一心不乱かですって?
歩いたらわかりますわ。





▼お寺のご挨拶、途中何カ所かに立っています。横の石段の勾配わかります?
歩いたらわかりますわ。



▼無常橋。ほんま無情な参道。



▼お寺へのみちしるべ。鬱蒼の中、ノソッと立っています。



▼やっとお寺が見えてきました。最後の石段です。もうヘロヘロ、バクバク。
いきなりワン公の吠えまくりの声、あとで聞くと番犬として飼っているそうです。



▼手水舎。音羽山と刻されたきれいな手水鉢。鉢を受ける邪鬼がなんとも愛嬌。
シャッター押すのを忘れました。



▼鐘楼。



▼本堂。江戸期の再建らしいです。
ご本尊は十一面千手千眼観世音菩薩立像で近年解体調査と修理を行い、今は往時
の再現がなされて実に美しい観音様です。頭部後ろから墨書が発見され、観音寺
縁起の三番目の由緒墨書が残されております。壁面にご本尊の旧姿と解体状況が
写真掲示されています。
さすが尼寺、決して大きくはない本堂の内陣荘厳は上品で落ち着いたシットリし
た雰囲気。素敵です。



▼本堂扁額。歌が詠まれています。
ほととぎす かつおとづれて 音羽山 こころのやみの あかつきの◯←読めません。



▼本堂扉前で尼さんのお迎えです。



▼絵馬が掛けられています。



▼境内の一角にお葉つきイチョウ。
奈良県指定の天然記念物。お葉つきとは、イチョウの葉に、ギンナンがついたも
の。樹齢300年以上。幹周4.8m、高さ25mだそうです。
晩秋の黄葉の絨毯は凄いらしいですよ。



▼九十余社神社。旧音羽村村社。祭神、天手力雄尊(アメノタジカラオノミコト)
境内すぐ横に祀られています。鎮守社かどうかは不明だそうです。



年齢は残酷です。
駐車場から僅か1km少々、まあ20分もあれば楽勝だわい、颯爽と歩きはじめて5
分も経たないうちに息が上がりはじめ、歩幅がだんだん短くなり、途中何度休憩
したか忘れました。ボクは数百年前じゃなかった数十年前の山男ですよ、自分で
云うのもなんですが。結局所要時間1時間5分。
ご住職に皆さんどれくらいでここまで ? そうですね、大体30分くらいでしょう
か。ショックで倒れました本堂の板敷きに。
急な山道であることは事実なんですが、しんどさやバテ具合はあくまでもボクの
データです。誤解無きよう。
是非このお寺のご住職に会いに行って下さい。
ご住職のご親切、感謝感激です。本当にありがとうございました。    合掌

ここから僅かの所に談山神社があります。坂道や石段の多い神社で、もう一つ気
乗りしませんがサラッと訪ねます。帰り道ですから。