土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

雪柳の海龍王寺の春は、まだすこし早かったようです。

2013年03月25日 | 奈良の古寺巡り


(2013.03.23訪問)

あの白い清楚な小花が、小さな古刹の春を告げる風景を久し振りにと云うことで、海龍王寺を訪ねました。
可憐な白い妖精は五、六分咲きといったところでしょうか。お寺の方も「今年はおかしいですね、木によっ
て咲き方が違うようですよ」と云われてました。
雪柳と海龍王寺、古都の春の歳時記を彩る白の世界はまだ少し先ですが、今日からご本尊十一面観音が春期
特別開帳されています。1mに満たない小さなお像ですが、ボクたちに与えるインパクトは丈六仏に決して負
けることはありません。垂飾や瓔珞の細密精微、条帛や天衣、裳にいたる彩色は朱、丹はじめ緑や青。色々
の文様を細密な切金で表しています。特にお顔の彩色は本当に鎌倉時代?と思うほどきれい、目の前三十セ
ンチのスバラシさ。です。

▼本堂と西金堂。




[ 海龍王寺 ]
●寺号 海龍王寺 (かいりゅうおうじ)
●宗派 真言律宗
●開基 光明皇后
●開山 伝玄昉僧正 (げんぼうそうじょう)
●創建 天平時代 (8世紀中庸)
●中興 叡尊 (えいそん)
●本尊 十一面観音菩薩立像 (重文)
▲奈良市法華寺町897 電話/0742-33-5765
▲拝観料 400円
▲JR奈良駅、近鉄奈良駅からバスで西大寺、航空自衛隊前行で法華寺前下車。
 近鉄新大宮駅から徒歩15分。

海龍王寺縁起 (海龍王寺HPより抄出)
飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平三年 (731年) に光明皇后により海龍王寺としてあ
らためて創建されました。天平時代に遣唐使として中国に渡っていた海龍王寺初代住持の玄昉が、天平六年
(734年) 十月仏教の経典を網羅した一切経五千余巻と経典に基づいた新しい仏法との二つを携え翌年三月、
無事に奈良の都に帰朝、嵐の中、唐より無事に帰国を果たした玄昉が初代住持となったことから遣唐使の航
海安全祈願を営むと同時に平城京内道場の役割を果たすことにもなり、玄昉が唐より持ち帰った経典の書写
も盛んに行われました。都が平安京に移ると平城京は衰退、海龍王寺も同様に衰退していきましたが、鎌倉
時代になると真言律宗を開いた興正菩薩叡尊により伽藍の大修理を受けると戒律の道場や勉学所として栄え
ました。

▼山門。一間四脚門、本瓦葺、切妻造。室町時代建立。
海龍王寺をよくご存知の方は、この写真のウソお分かりですネ。




▼山門扁額。




▼参道。




▼室町時代の面影を残す参道両脇の築地塀。水仙一株見えます?




▼なんて可憐な!




▼中門への参道脇には雪柳がイッパイ、ありませんネ、イヤな予感アリアリ。




▼本堂への参道の雪柳、まだまだですね。




▼本堂。
桁行五間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺。寛文六年 (1666年) 再建。
今日から春期特別開帳で本尊十一面観音真近で拝観できます。




▼本尊十一面観音菩薩立像 (重文)。数年前に描きましたペン画です。
像高94.0cm、木造。鎌倉時代、慶派の誰かの作と伝わるそうですが誰か判りません。




▼本堂と雪柳。まだまだですね。




▼本堂。




▼西金堂 (重文)。桁行三間、梁間二間、切妻造、本瓦葺。奈良時代建立。鎌倉時代に大規模修理がなされた
そうですが、規模や形式に大きな変更がないそうです。




▼西金堂正面。堂内中央に五重小塔。




▼五重小塔(国宝)。塔高4.01m
創建当時から西金堂内に安置されており、天平時代の建築技法を現在に伝え、塔の建築様式の発展をたどる
上にも重要。小塔は屋内で安置することを目的とした為、近くから見たり拝んだりするであろうことから近
くから見た時の工芸的な性格を非常に重視、外部は組物などの細部にいたるまで忠実に作られています。ま
たこのことは寸法取りにも表れており、上層部にいくにしたがって塔身が細く作られていることから上層部
と下層部の均整を重視した寸法取りを行っていることがうかがい知れます。(海龍王寺HPより抄出)




▼堂内には、この五重塔のみが置かれています。




▼西金堂横の雪柳。まだまだですね。




▼境内小径の雪柳。まだまだですね。




▼一切経蔵 (重文)。桁行三間、梁間二間、寄棟造、本瓦葺。鎌倉時代叡尊により正応元年(1288年) 建立。




▼一切経蔵の錠。




▼大師堂と雪柳。まだまだですね。




▼海龍王堂。




▼三神がお祀りされているようです。




▼会津八一の歌碑。
しぐれのあめ いたくなふりそ こんだうの はしらのまそほ かべにながれむ
「時雨よ、あまりひどく降ってくれるな、金堂の柱の真礼 (朱の顔料) がとけて壁に流れてしまうから。」
という意味だそうです。




▼雪柳。こんな可憐な花がお寺を覆い尽くすんですよ。




▼修業地蔵。




▼雪柳。




▼生木地蔵。




▼雪柳。




▼中門と雪柳。まだまだですね。




▼御朱印。




真っ白の世界は今週末くらいでしょうか。
海龍王寺から氷室神社へ。氷室神社の枝垂桜満開の報で、花見も一興、よし行こう。
と一条通を24号線越えたところでギッシリ渋滞。もちろんズルUターンして帰りました。

▼本当の山門





鷹峯常照寺は名妓吉野太夫縁のお寺です。

2013年03月22日 | 京都の古寺巡り


(2013.03.16訪問)

吉野太夫は夕霧太夫、高雄太夫とともに寛永三名妓と唱われた名妓の一人。その名妓の由緒謂れが深く伝わ
る鷹峯常照寺は源光庵のほんのお隣に在ります。ボクなんぞ祇園島原艶町などとんと縁がありませんが、開
山上人よりもこの吉野太夫の方が何となくこのお寺の顔になっているような艶寺を一度訪ねてみようとは思
っていました。
この吉野太夫が深く帰依したのが開山日乾上人で、その縁で山門(吉野門)を寄進、建立されたそうです。

▼参道と赤門。


[ 常照寺 ]
●山号 寂光山 (じゃっこうさん)
●寺号 常照寺 (じょうしょうじ)
●宗派 日蓮宗
●開基 本阿弥光瑳 (ほんあみこうさ) 本阿弥光悦の息
●開山 日乾上人 (にっかんしょうにん)
●創建 元和二年 (1616年)
●本尊 釈迦如来坐像
▲京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町45 電話/075-492-6775
▲拝観料 300円
▲京都市バス 四条大宮6系玄琢行き、源光庵前下車

常照寺縁起 (常照寺パンフより抄出)
当山は元和二年本阿弥光悦の土地寄進とその子光瑳の発願により、見延山第二十一世日蓮宗中興の祖と敬仰
される寂照院日乾上人を招じて開創された鷹峯檀林 (学寮) の旧跡で、それ以来連綿と続き世に山城六檀林中
の一偉観をなしてきたのである。

▼寂光山常照講寺と側面に刻され、正面は七字名号。




▼参道沿いの馬酔木が満開です。




▼朱塗りの山門。門札に白で吉野門とあるように、この門は島原の名妓吉野太夫の寄進。なんと二十三歳の
時といいます。現在の山門は大正6年(1917年)に再建されたものだそうです。




▼左手に手水用ではなく、どうも井戸のようです。




▼右手に、帯塚。




▼帯塚の由緒。




▼宝蔵。




▼本堂。




▼本堂扁額。




▼本堂内陣。須弥壇中央に日乾上人像がお祀りされています。




▼境内案内板。




▼苔庭。




▼鬼子母神堂。鬼子母神と眷属十羅刹女が祀られています。




▼鬼子母神堂扁額。




▼常富大菩薩堂。聴きなれない菩薩名ですが、お狐の謂れがあるそうです。




▼常富大菩薩堂扁額。




▼境内一角の桜が開いてました。
常照寺は洛北の桜の名所として境内には、吉野桜をはじめ約100本の桜が競うそうです。




▼開山廟。墓地中央に開山日乾上人の廟。




▼新しく建てられた書院に造作された茶室仙遊庵の床にかかる吉野太夫軸。



天下随一の太夫と謳われ、美貌と品格、和歌、俳諧、書、茶湯、琴、琵琶、笙、香道、華道など諸芸に秀で、
その名声は江戸、遠くは中国にまで及んだスーパーウーマン、謂れはホントかウソかは定かではありません
が、この吉野太夫が本阿弥光悦を通じて深く帰依したのが開山日乾上人なのです。
夫灰屋紹益が吉野の生前を偲んで土佐光興に描かせたもの。本物かレプリカかは定かではありません。


▼開山廟の裏手に在る吉野太夫墓。三十八歳没。




▼吉野太夫墓の説明札。




▼白馬池由緒書き。境内一角に小さな門が在り、潜ると白馬池への下り参道があります。




▼白馬池。下り参道を行くと小さな真新しい池があります。箱庭に掘られた池のようで周辺環境とややミス
マッチの観。




▼白馬観音。



白馬に乗り、池を往来していたという仙人を「白馬観音」として勧請したブロンズ像。手に妙
法蓮華経八之巻を持ち、観世音菩薩普門品の経説を表現。光背に七字名号刻されています。


▼境内のそこここに馬酔木のちいさい花が鈴なりです。




▼ご朱印です。




境内を巡り、吉野太夫というベッピン縁の艶寺の印象は当然のことながらありません。往時の名残は一部茶
席遺芳庵が境内の一角に残るのと、書院の茶室仙遊庵の床にかかる吉野太夫の姿から偲ぶほかなさそうです。
鷹峯は本阿弥光悦一党の地、光悦を始め子息光瑳、吉野太夫を身請けした豪商灰屋紹益等往時の文化人、粋
人たちが一種の文化サロンを形成していた地で、花街との関わりも大いにあったのでしょう。


源光庵の悟と迷とは。

2013年03月19日 | 京都の古寺巡り


(2013.03.16訪問)

京には未訪問の寺社がまだまだいっぱい。洛北鷹峯の地を訪ねるのも全く初めてです。
この日は、悟りの窓と迷いの窓で有名な鷹峯源光庵を訪ねました。悟りからはほど遠いぶん、迷いとはを自
問自答するためにやってまいりました。と云うのはウソです。

▼悟りの窓と迷いの窓。




[ 源光庵 ]
●山号 鷹峰山 (ようほうざん)
●寺号 源光庵 (げんこうあん) 正称 寳樹林源光庵
●宗派 曹洞宗
●開創 徹翁国師 (てつおうこくし)
●創建 貞和二年 (1346年)
●中興 卍山道白禅師 (まんじさんどうはくぜんじ)
●本尊 釈迦如来坐像 脇侍 阿難尊者 迦葉尊者
▲京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町47 電話/075-492-1858
▲拝観料 400円
▲京都市バス「四条大宮6系玄琢行き、源光庵前下車

源光庵縁起 (源光庵パンフより抄出)
当山は、貞和二年(1346年)臨済宗大本山大徳寺二代徹翁国師の開創によるが、元禄七年(1694年)加賀大乗寺
二十七代卍山道白禅師が当寺に住持され、以来曹洞宗に改まる。卍山道白禅師は学徳兼備の高僧で宗風改革、
宗統復古に邁進、宗祖道元禅師の正伝仏法に復古されたのである。

▼源光庵寺標。通常ここからの入山なんですが、目下修復工事中。




▼重層の山門。上層左右の丸窓が目をひきます。三間一戸、十二脚、入母屋造、桟瓦葺。




▼復古禅林と書かれた扁額。




▼鐘楼。山門右前に建っています。




▼正面に堂々の本堂、棟中央に宝珠が載ってます。
桁行七間、梁行五間、入母屋造、桟瓦葺。元禄七年(1694年)建立。




▼本堂正面。




▼本堂前のサンシュユ、目下満開中!




▼庭園。




▼庭園。




源光庵最大の売り、悟りの窓と迷いの窓。
円型悟りの窓は「禅と円通」の心と「大宇宙」心理の世界を表現。
角型迷いの窓は「人間の生涯」生老病死の「四苦」を表現しているそうです。

▼悟りの窓。




▼迷いの窓。




▼悟りと迷いの窓を前にして、皆さん何を想うのか。



「四角四面の角をとりゃ人間だんだん丸くなる。」
いい加減丸くならにゃいかんという歳も、はや過ぎ去りましたよ私しゃ。

▼本堂内陣。




▼脇床にWBの観音さんの軸。この軸は本山金沢の大乗寺の板戸に描かれた板画観音の拓本と伺いました。




▼あまりにも素晴らしいのでお顔アップ。




▼外陣天井に残る怨念の足跡。血天井は伏見城の遺構、慶長五年家康家臣鳥居元忠以下千八百余人が、石田
三成軍と戦うも全員討死、自刃し果てた痕跡。勿論気持ちいいものではありませんが、この血天井、京の寺
院数カ所に残っているそうです。




▼横たわる全身の跡。




▼本堂と書院間の廊下にある窓。この窓は呼び名がないのかな。




▼書院の一間。




▼もう一度本堂。




▼御朱印です。




▼鷹峯の交差点。源光庵はこの信号のすぐ左です。




この鷹峯の地には、小さいながらも、自己主張できる何かを持っている古刹が結構法灯を守り続けていると
聞きました。大寺院や門跡寺院の格を競うお寺が幅を利かせているのとは違い、地味ではあるけれども庶民
に根ざした仏法を、小さいけれども大きな使命を伝えていって欲しいものです。



梅だよリ、早咲きは散り、中咲きがほぼ満開、遅咲きはもう少し、大阪城梅林です。

2013年03月14日 | 花巡り


(2013.03.13訪問)

▼八重揚羽、ことのほか大人気の梅。メジロが団体で来てます。




▼今日の天守閣。




▼淋子梅。




▼思いのまま。源平咲きの梅です。




▼豊後。ほぼ満開ですね。




▼豊後。一重のきれいなピンクです。




▼紅千鳥。紅梅系で唯一満開。




▼東錦。




▼八重揚羽。




▼メジロに大人気の八重揚羽。




▼夫婦枝垂。




▼緑咢枝垂。




▼日月。この木も源平咲き。小粒ですが可愛い一重です。




▼白加賀。




▼紅玉枝垂。




▼紅千鳥。




▼白滝枝垂。




▼ヒヨドリもやってきてました。