土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

妙國寺「堺の寺といえば妙國寺、妙國寺といえばソテツ」貫首の自信。

2017年04月27日 | 大阪の古寺巡り





(2017.04.22訪問)


高倉寺から堺の街中に向かいます。次に訪ねた妙國寺、歴史が古いお寺ではないのですが超売り物があるんです。樹齢千年越えの
大蘇鉄と蘇鉄枯山水の庭、蘇鉄大盤振る舞いのお寺です。さすが有名寺院への道、迷車大和路号のアホナビでもすんなり案内して
くれました。




▼山門。門前は頻繁にクルマが通ります。途切れ一瞬のカット。






[ 妙國寺 ]
●山号 廣普山 (こうふさん)
●寺号 妙國寺 (みょうこくじ) 愛称 蘇鉄の寺
●宗派 日蓮宗 (にちれんしゅう)
●開基 三好義賢、油屋常言、常祐
●開山 日珖上人 (にっこうしょうにん)
●創建 永禄十一年 (1568年) 
●本尊 七字名号 
▲大阪府堺市堺区材木町東4丁1-4 Tel. 072-233-0369
▲拝観料 400円 ご朱印300円
▲時間 10:00~16:00
▲ 阪堺線「妙國寺前駅」から徒歩約5分




▼山門。正面から見るとまるで城門のようですネ。






妙國寺縁起 (堺観光ガイドHPより抄出)
妙國寺は堺の中心部、材木町に門を構える永禄十一年建立の寺。当時堺を支配した三好四兄弟の一人が日珖上人に土地を寄進し、
上人の父であり堺の豪商として知られる油屋常言の協力により建てられました。日蓮宗の代表的な寺院として、商人や来堺した戦
国武将たちの信奉を受けて栄華を極めながら、大阪夏の陣で「徳川家康妙國寺に有り」と聞きつけた豊臣兵により火を放たれ、灰
燼に化します。江戸期に再建されてからも再び堺大空襲により消失。昭和四十八年に三たび再建されたものです。




            ▼元皇室勅願所の映え、菊の御紋が光ってます。






            ▼山門左右の護り、右の阿形金剛力士。






            ▼左に吽形金剛力士。






            ▼こちら舊勅願所の碑。






            ▼境内右に宗祖日蓮さん睥睨の像。






▼現在の堂伽藍は総てコンクリート、デザインとカラーリングの妙を感じます。
 この建物は三つのお堂からなってるようですが、堂名は不祥。側面は蘇鉄のお庭。







▼こんなのや……、







▼こんなのが植わっています。これらはマダマダ小さい蘇鉄です。







▼立ち入りと写真撮影については相当厳しく規制をしています。

      





▼堂々の大伽藍、左右対称の美、上層が本堂です。階段の間奥が拝観受付になってます。







▼上層〆切、本堂拝観は出来ません。







本堂北側が蘇鉄の庭園になっています。霊木大蘇鉄と蘇鉄枯山水の庭がガラス越しの観賞になります。
お庭に下りること、信じられませんが室内からお庭の撮影総て御法度。

▼これが噂の霊木大蘇鉄。国指定天然記念物。(写真は門前のガイド板を複写)
 樹齢千年と云われても、近くで見れてこその値打ち、ガラス越しで5〜6mの距離では実感なし。







▼アングル変えの霊木大蘇鉄。(日本観光振興協会HP写真から)




霊木大蘇鉄の伝説蘊蓄 (堺観光ガイドHPより抄出)
戦国時代、妙國寺の蘇鉄は大変珍しがられ、天下統一を果たした織田信長も羨望の的に。ついにその権力をもって安土城へ移植さ
せてしまいました。ところが、その蘇鉄は毎夜毎夜「堺へ帰ろう」とすすり泣くのです。激怒した信長が部下に命じて蘇鉄を切ら
せたところ、切り口より鮮血が流れ、大蛇のごとく悶絶。さすがの信長も気味悪がり、蘇鉄を妙國寺に返し届けました。痛めつけ
られた蘇鉄は今にも枯れそうになり、日珖上人が読経したところ回復。ここから「蘇鉄」という名がついたと言われています。
現在大小120数本の幹枝を数え、江戸期の「和泉名所図会」には「大枝22本、小枝78本、総まわり25尺、高さ22尺余り、枝葉6~7
間は一面の蒼色ですいらんの如し」と記された堺の名木の一つです。




▼蘇鉄枯山水の庭。(堺観光ガイドHPより抄出)(写真は門前のガイド板を複写)
 築山を築かない蘇鉄の配植を中心にした平庭林泉回遊式枯山水庭園であることが判明、江戸時代後期の姿を基本として復元整備
 がおこなわれました。蘇鉄を中心とした枯山水庭園としては、全国的にも類をみない大変貴重なものだそうです。







▼手水鉢。







▼変な龍の水口。







▼本堂隣の宇賀徳正龍神社。女性の味方で妙國寺の鎮守社。







▼シンプルな扁額。







▼内部の神殿。







▼ここにも変な龍。顔を見れば龍、全体見ればカマキリのような変なヤツ。龍神社の龍かも知れませんネ。







▼堺事件の供養塔。(堺観光ガイドHPより抄出)
 妙國寺はまた、哀しい兵士の物語でも語り継がれています。慶応四年(1868年)堺に上陸したフランス兵と警備の土佐藩士と
 の間で争いがおこり、フランス人が多数死傷。この事件は国際問題となり、責任を追及された土佐藩兵士11名が境内で切腹し
 ました。有名な堺事件です。境内には土佐藩士割腹跡の碑が立ち、兵士をしのんで供養塔が建立。







▼境内最も目立たない所に鐘楼。







▼本坊。







▼南門。やはり菊の御紋が光ってますネ。こちらからお暇します。






                ▼境外にズバリの文言。







▼ご朱印です。





昭和期に再建されたお寺と云うことで、境内一帯、建物の美から売り物のお庭まで、さすが管理は素晴らしくキレイなお寺です。
しかし、見せてやるの代表のようなお寺で、拝観条件がんじがらめ、しかも蘇鉄の庭以外何もナシ。山内で山門脇の金剛力士以外
仏像の姿を見ることはなく、本堂で手を合わせることもなく、お寺本来の精神的なバックボーン、拝観者に対する啓蒙や仏教のあ
りよう、いくらかはそんなものを期待してお寺を訪ねるのですが、蘇鉄の庭だけとは……。

追、お寺を訪ねて仏像を拝見しなかったこと信じられます?





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高倉寺、ニュータウンの中の摩訶不思議な異界です。

2017年04月24日 | 大阪の古寺巡り





(2017.04.22訪問)


快晴、青空は誠に気分爽快、ルンルン気分で今日も迷車大和路号は、堺のお寺を目指して走っています。
目指す高倉寺は泉北ニュータウンのど真ん中、例によりアホナビは高倉寺を指示しますが、迷路のようなニュータウンの街中をクル
クル、一向に目的地に着きません。クルマを止めて坂道を少し歩くと在りました参道口が、マァ近くには来てたんですネ。しかし泉
北ニュータウンって広〜いですネ。
山内から周囲を見ると樹々越に高層住宅がニョキニョキ、お寺は住宅ビル群の中に在る異界です。不思議を感じながら参道を上って
行きました。




            ▼参道石段横の寺号石柱。一等格院の刻字が目立ちます。






            [ 高倉寺 ]
            ●山号 大修恵山 (だいすえざん)
            ●寺号 高倉寺 (たかくらじ)
            ●宗派 高野山真言宗 (こうやさんしんごんしゅう) 一等格院
            ●勅願 文武天皇 (もんむてんのう)
            ●開山 行基 (ぎょうき)
            ●創建 慶雲二年 (705年) 
            ●本尊 薬師如来 
            ▲大阪府堺市南区高倉台2丁9-15 Tel. 072-291-0174
            ▲拝観料 境内自由 ご朱印300円
            ▲時間 9:30~17:00
            ▲ 泉北高速鉄道「泉ケ丘駅」から徒歩約15分




▼参道石段。






高倉寺縁起
行基年譜によると、高倉寺は行基建立の四十九院のひとつで、大修恵院と呼ばれ開創は文武天皇の勅命により、705年行基菩薩が創
建、自作の薬師尊像を安置したことに始まる。730年聖武天皇勅願で七堂伽藍を造営、四十九子院があり以後歴代天皇の勅願寺とる。
810年弘法大師が来駕、密教灌頂の道場を構え、大日如来を刻し宝塔を建立安置した。以後真言宗寺院になる。その後、高倉天皇来
駕の折、朱印地と「大修恵山高倉寺」の山号寺号を賜わる。南北朝動乱、応仁の乱、信長焼き討ちなど災難で山内消滅。当山中興の
祖真海僧上が復興、僧快盛が1591年金堂再建、以後紆余曲折の後江戸期に現在の形が整えられた。




▼石段、あと六段で境内へ。







▼正面に見えますのは……、







▼宝起菩薩堂です。
 桁行五間、梁間三間、一重入母屋造、本瓦葺、千鳥破風の一間向拝付、 明治十四年 (1881年) 再建。







▼正面五間は蔀戸、現在入堂は左側面に入堂口があります。外縁周囲は高欄付縁。







▼堂内正面。中央に三間の須弥壇、中壇に法起曼荼羅図、脇壇右に不動明王、左に役行者が祀られています。






                 ▼須弥壇中央の法起曼荼羅図。(写真、文は堺市HPから抄出)
                  本図は「法起菩薩」という珍しい仏が六本の腕と五つの眼を持ち、
                  怒りの表情で岩の上に立つ姿は大変恐ろしく、金剛山の修験の仏
                  として信仰された仏と云われています。






            ▼左脇壇の役行者。
             キレイな小角さんとマンガチックな前鬼と後鬼、新しい現代仏師の作でしょう。






▼宝起菩薩堂。






            ▼恵心僧都お手植えの松。         











▼金堂。本尊薬師如来。外観は平成大修理修復でほぼ完成。外縁周囲は高欄付縁。
 桁行五間、梁間三間、一重切妻造、本瓦葺、一間向拝付、四方錣庇、寛永七年 (1630年) 再建。







▼堂内はこの通り、まさにガランドウ。







▼新しい建造物のようで、江戸期の建物にはとても見えません。







▼境内の一角。







▼こちらでは鐘楼堂と呼んでます。







▼弁天堂。弁財天と歓喜天を安置。小さ~いお社です。







▼御影堂。弘法大師、行基菩薩を安置。
 桁行三間、梁間三間、一重宝形造、本瓦葺、一間向拝付、明和三年(1766年)再建。







▼御影堂正面三間は蔀戸。







▼堂内は今物置状態。このお堂も内部修復中。
 正面お厨子は宮殿型厨子、閉じられた厨子内部にお大師さん、行基さんがおられるかどうか判りません。







▼宝形造の美しいお堂ですネ。







▼露盤と宝珠。







▼大日堂。本尊大日如来。三間四方の宝形造、本瓦葺。昭和十一年再建。







▼境内の一角。






            ▼宝篋印塔が並ぶ歴代住職のお墓。






▼境内の緑、一気に元気になってきました。







▼本坊宝積院の山門。明日は御影供といって空海さんの法要の日なので大勢の地域の方々が奉仕されていました。







▼立派な扁額が掛けられています。







▼玄関。本坊も例外なく修復修理されているようです。







▼庫裡です。







▼前面が障子戸の客殿。







▼客殿の前庭。



















▼本坊への通用門か長屋門が大門横に。







▼ご朱印です。






時代の変遷とともにそこここの環境など地域の変貌は目まぐるしく、一昔前の表情とはまるで違って見えるのが現代の状況なんでし
ょう。しかし千三百年の径時の波に埋もれることもなく歴史を紡ぎ、何ら変わることなく歴然とそこに佇む古刹の姿には一種の感慨
を覚えます。ここ高倉寺もそんな古刹の一つ。今、境内は修復修理のため少しばかり雑然とし、歴史の重みを感じることは出来ませ
んし、加えて明日は御影供の準備のため、庫裡などでは人々で右往左往でした。

各お堂も修復中のため、各本尊も今は堂内におられません。何処に出張なのか聞き漏らしました。新装は何時になるのか分りません
が、その時は是非再訪したいお寺の一つです。

それでは次、市内中心街に在るあのソテツのお寺です。





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家原寺、高僧行基さん誕生の地です。

2017年04月21日 | 大阪の古寺巡り





(2017.04.19訪問)


阿倍野からお使いの帰り、地下鉄に乗ろうとフト気付くとJR阪和線のホームに、フトフト気付くと津久野駅前で付近ガイドマップの
前に立っていたんです。そうなんです、いい天気に誘われて北へ帰らず、足は南を向いていたんですネ。堺市探求心がこの日、行基
さんのお寺家原寺を訪ねることにしたんです。行基さんの凄い経歴はどなたもがご存知でしょう。中でも行基さんが作ったと伝わる
智慧の文珠さんとして著名な日本初の文殊菩薩騎獅像、厚かましいお願いは止めてせめてお顔だけでもと家原寺を訪ねました。




▼南大門。家原寺で最も古い建造物。建立時期不詳。






[ 家原寺 ]
●山号 一乗山 (いちじょうざん)
●院号 清涼院 (せいりょういん)
●寺号 家原寺 (えばらじ)
●宗派 高野山真言宗 (こうやさんしんごんしゅう) 別格本山
●開山 行基 (ぎょうき)
●創建 慶雲元年 (704年) 
●本尊 文殊菩薩騎獅像 
▲大阪府堺市西区家原町1-8-20 Tel. 072-271-1505
▲拝観料 200円 ご朱印300円
▲時間 09:30~17:00
▲http://www.chiemonjyuebaraji.jp/
▲ JR阪和線「津久野駅」から徒歩10分




▼南大門金剛力士阿形像。 (家原寺HPから抄出)
この仁王像は明治期に近郊のお寺から移設されたもので、本来安置されていた仁王像は運慶、快慶の作で、廃仏毀釈ののち明治時代
にフランス人の美術商に売却され、現在は米国ワシントンのフーリエ博物館に収蔵されている。






家原寺縁起 (家原寺HPから抄出)
家原寺は行基菩薩が誕生した所で、行基三十七歳の時、もとの生家を掃き清めて仏閣となすと行基年譜に記される。行基建立寺院の
第一号であるが、いわゆる行基建立四十九院には含まれず特別扱いされている。叡尊が寛元三年(1245年)再興。家原寺は智恵の文殊
様を本尊とし、境内には池を配置、堂塔伽藍十数伽藍を形成している。境内地は二万坪に及ぶ。明治初年の廃仏毀釈で荒廃し、また
大戦後の農地解放で敷地や農地を失い現在にいたっている。昭和に入って本坊の復興や、山門の修理、本堂の解体修理、三重塔の再
建等復興に努力して現在にいたっている。




▼南大門金剛力士吽形像。







▼お寺の境内とはとても思えない環境、街中寺院の悲哀なのか、不動堂です。







▼大きな放生池です。奥の石橋が中央に架かり本堂へと通じています。













▼釣鐘堂。







▼地蔵堂。






            ▼ヘタな水のかけ方をしました。なにか悪さしたみたい、お地蔵さんごめん!






▼一枚岩の手水鉢。







▼開山堂。堂内には高僧お三方がお祀りしているはずなんですが……、
 扉には、右弘法大師、中央行基菩薩、左興正菩薩と書かれています。







▼シンプルな堂内、お二人しかおられませんネ。







▼さてこのお二人は何方と何方? 当然右は空海さんですよネ。左は?







▼開山堂の横に行基さん誕生塚が造成中でした。






            ▼小山の中央に古い基壇があり六角堂が建てられています。
             中に行基さんの絵像がかけられています。重みのない軽々しいお堂の感じがします。






            ▼ボケよけ観音菩薩坐像。お顔はインド婦人そのもの、ひょっとしてインド製?
             これがまた凄い細工の像ですが金銅ではなく鉄製像ではないでしょうか。






▼知恵の文殊さんが本尊の本堂。桁裄五間、入母屋造、本瓦葺、一間向拝付。慶安元年 (1468年) 再建。













▼本堂扁額。「行基菩薩誕生出地」と書かれているようです。ダブルネットでガード、まさか盗難予防じゃないでしょうネ。







▼本堂外陣の様子。なんでもアリの堂内。



















▼内陣に知恵の文殊さんが祀られています。






            ▼本尊文殊菩薩騎獅像。例により日本三文殊の一つと云われています。
             所違えばまた別の三文殊がいらっしゃる不思議!






            ▼脇仏が、さて何方でしょう。






▼家原寺名物ハンカチ祈願。時期的にこれは合格御礼のハンカチでした。
 合格祈願のあのスゴイ量のハンカチに比べて、お礼が少なくないですか、さては。







▼本堂。







▼本堂背面です。







▼経堂。







▼小高い丘に建つ中院。周辺は掘り返し鋭意整地中で迂回して、門からは入れません。






            ▼堂前の子安観音菩薩像。この像も先のボケよけ観音菩薩像と同じ印象です。






▼堂側面にズラリお地蔵さん。






            ▼三重塔。初層内陣には大日如来が祀られているそうです。平成元年 (1989年) 建立。   











            ▼三重塔相輪です。






▼中院の外塀に並んでいる石仏。意味有りげですネ、並べ方。







▼ご朱印です。






行基さん建立第一号のお寺がこの家原寺、千三百年以上の歴史を擁する古刹には、今のお寺を見る限り感じることは出来ません。街
中寺の運命なのか境界フェンスの外、道を隔ててすぐ、住民の生活圏が取り巻いています。周辺開発に取り残された一角にお寺が在
ると云う印象。それに加えて現在境内整備事業のまっただ中、今は境内の体をなしてません。堂塔伽藍の規模を見ればかっての大寺
院を偲べるので、境内整備事業の早期完成を期待して……、事務所に帰るとするか。





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法雲禅寺、黄檗宗の禅刹でツツジのお寺です。

2017年04月18日 | 大阪の古寺巡り




(2017.04.16訪問)


迷車大和路号のアホナビはやっぱりアホでした。
目指す堺の寺々を表示しないのです。今日訪ねた法雲禅寺の修行僧にその話をすると「殆どの方はナビでおいでになりますよ」との
こと。日本有数、超有名メーカーのナビシステムを搭載している迷車大和路号、なんでや。
それに反して堺の警察の親切なこと、三人の方がよってたかってマップで説明、おかげで無事着きました。ありがとう黒山警察署の
みなさん。困ったことがあったら警察ですよ皆さん!




▼一目で黄檗寺院と分りますネ、この山門。
 桁行三間、梁間二間、切妻造段違、本瓦葺。貞享四年 (1687年) 建立。

       




[ 法雲禅寺 ]
●山号 大寳山 (だいほうざん)
●寺号 法雲禅寺 (ほううんぜんじ)
●宗派 黄檗宗 (おうばくしゅう)
●開山 慧極道明禅師 (えごくどうみょう)
●創建 寛文十二年 (1672年) 
●本尊 釈迦如来坐像 
▲大阪府堺市美原区今井192 Tel. 072-361-4419
▲拝観料 境内自由 ご朱印300円
▲時間 09:30~16:30
▲http://www.oubaku.org/houun/frame.htm
▲近鉄南大阪線「河内松原駅」下車、さつき野方面行きバスに乗り「今井バス停」下車、西へ徒歩5分。
 南海高野線「初芝駅」下車、美原区役所行きバスに乗り「今井南バス停」下車、目前。




            ▼禅刹専用。






法雲禅寺縁起 (法雲禅寺HPから抄出)
黄檗三傑の一人、慧極道明禅師によって寛文十二年に開山され黄檗宗の中本山格の寺であります。山門、天王殿、大殿、開山堂、耀
先殿など、黄檗様式の建物群としてのまとまりと、全てではないものの建築当初の伽藍構成を今に残しており、寺伝によれば、法雲
禅寺の前身は弘法大師の開基で神福山長安寺と称する真言宗の巨刹でありましたが、元和年間に西除川の氾濫によって流失しました。
その後変転をかさね、寛文十一年、曹洞宗の僧宗月が霊夢によって地中より観音像を掘り出して草庵に安置し、翌年、宗月は慧極禅
師に来住を乞い、寺を委ねたということです。





▼山門扁額。アクリカバーがしてあります。せっかくの書が帳消しになっていますよ。






▼山門から参道が。







▼もう一度山門を見て……、







▼短いですが参道を行きます。七福神の幟が目立ち過ぎ!







▼左に折れると手水舎。







▼正面に天王殿。桁行三間、梁間二間、一重入母屋造、桟瓦葺。 宝永元年 (1704年)建立。
 黄檗宗独特のお堂で、正面に布袋尊が安置。最初に布袋尊にお参りすることによって、その大きなお腹に人間の持っている煩悩や、
 欲望を取り払って戴きます。その後、他のお堂に参り、帰りにもう一度参ると、手に持った布袋から「徳」を与えて下さるという
 言い伝えがあり、ここに安置しています。(法雲禅寺HPから抄出)













▼天王殿扁額。







▼本尊布袋さん。尊名は「弥勒菩薩」となってます。布袋さんは弥勒さんの変化神と云われているそうです。七福神一号。
 このお寺、七福神のお寺として著名で、境内各所にお祀りしており後で出てきます。







▼福与かです。そう云えば本山萬福寺天王殿にも布袋さんがトップに出てきますネ。







▼大殿(大雄宝殿、本堂)。桁行五間、梁間四間、一重寄棟造、本瓦葺。貞享元年(1684年)建立。
 本尊釈迦如来坐像、左右に薬師如来と阿弥陀如来をお祀りしていますが、この二尊は確認出来ませんでした。







▼大殿の正面。







▼大殿扁額。







▼大殿須弥壇。中央が本尊釈迦如来坐像、左右に小さな菩薩像と中尊三体合わせて三千三百三十三仏が祀られています。近くで拝す
 ることが出来たらさぞや大迫力でしょう。広大無辺の三千世界を表現してるそうです。






            ▼本尊釈迦如来坐像。左右の小さい菩薩像分ります? ガードネットが無けりゃいいんですけど。






▼大殿。樹木に埋もれるように各お堂が配されています。






            ▼厄除け大観音。大殿の斜め横にお立ちです。
             像高10m。偉容ですがこの境内では場違いな感じが……。
             曹洞宗の僧、宗月が掘り出した秘仏「堀出観世音菩薩」の徳を讃え、人々の繁栄と災除を祈願し建立。
             ちなみに法雲禅寺は河内西国第六番霊場です。






▼樹木に埋もれた境内。







▼廻廊。







▼相当使い込まれていますネ。







▼ 耀先殿。檀越狭山藩主北条家の位牌を祀る位牌堂。







▼開山堂。桁行三間、梁間四間、一重入母屋造、本瓦葺、背面祠堂付。元禄十四年 (1701年)建立。
 開山慧極禅師の古希を祝って建てられ、禅師の像が安置。前の松の動き、何かに飛びかかってるように見えました。







▼開山堂扁額。







▼方丈。桁行五間、梁間四間、一重入母屋造、本瓦葺。元禄十五年 (1702年)建立。







▼方丈扁額。







▼あわてん坊。このお寺ツツジの名所で4月後半から五月の満開のときは日に1000人は訪れるそうで、「花咲けばツツジの海」とい
 われるほど豪華絢爛だそうですよ。







▼変化に富んだお庭でしょ。







▼鐘楼らしくない鐘楼。







▼鐘楼に扁額があるのも珍しい。







▼これ全部ツツジです。







▼放生池。かわいいお地蔵さんがお立ちです。







▼六角堂。納骨堂です。







▼六角堂扁額です。







▼須弥壇には三尊が祀られています。尊名の表記が無く不祥です。






            ▼この銀杏も秋になれば凄いことになりそう。






▼こんな一角もあります。






            ▼十三重石塔。






            七福神小径の七福神、石像の五体が並んでます。取り敢えず三尊を。

            ▼毘沙門天。






            ▼恵比寿さん。






            ▼福禄寿じいさん。



            あと寿老人と大国さんがおられます。そうそう、弁天さんも弁天堂におられるんですが、
            故あって写真カットです。




▼境内南東の端に鋭意建造中の裏門。竜宮造りのかわいい門です。







▼山号扁額は完成してます。







▼ご朱印です。






黄檗禅刹は、歴史は新しいものの所在やお寺の大小に関わらず堂塔伽藍、お庭の手入れや管理がものの見事になされ、総てが修行に
通ずるとはいえ鮮やかなものです。
我が家から僅か三十分ほどの地にこれだけのお寺が残る堺は、かつて豪商が闊歩し商人の力が発揮された地、寺社が残りそれに伴う
町域の発展は、旺盛な精神の繫がりがあってのこそ、大阪に住みながらボクの知らない堺の町とお寺をもう少し知ってみようかなと
今日の法雲禅寺訪問で思いました。





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安楽寺、法然上人が二人の弟子の冥福を祈ったお寺。

2017年04月13日 | 京都の古寺巡り





(2017.04.08訪問)


霊鑑寺から歩いて2~3分、距離にして150mぐらいに、やはり通常は非公開寺院の安楽寺が山門を開いています。
このお寺、若い二人の姫とその出家を助けた二人の僧の哀れで悲しい運命の冥福を祈るため、二僧の師法然上人が復興したお寺安楽寺。
謂れも哀しく、そぼ降る雨に気持ちも幾分暗いまま山門を潜りました。




            ▼安楽寺石柱。安楽寺の寺号はなぜかこの背面に刻されています。






            [ 安楽寺 ]
            ●山号 住蓮山 (じゅうれんざん)
            ●寺号 安楽寺 (あんらくじ) 愛称 松虫鈴虫寺
            ●宗派 浄土宗 (じょうどしゅう)
            ●開基 住蓮上人 安楽上人 (じゅうれんしょうにん、あんらくしょうにん)
            ●開山 法然上人 (ほうねんしょうにん)
            ●創建 建永元年 (1206年) 
            ●本尊 阿弥陀三尊 
            ▲京都市左京区鹿ヶ谷御所の段町21 Tel. 075-771-5360
            ▲拝観料 500円 御朱印300円
            ▲通常非公開寺院 年二回春と秋公開
            ▲時間 09:30~16:30
            ▲http://anrakuji-kyoto.com/
            ▲JR・近鉄「京都駅」より市バス「錦林車庫」行きで「錦林車庫前」下車、東へ徒歩10分
             JR・近鉄「京都駅」より市バス「銀閣寺前」行きで「宮ノ前町」下車、東へ徒歩10分
             地下鉄烏丸線「今出川駅」より市バス「錦林車庫行き」で「錦林車庫前」下車、東へ徒歩10分




▼この参道も優しい石段です。






安楽寺縁起 (KYOTOdesignHPから抄出)
鎌倉時代はじめ、法然上人の弟子住蓮上人、安楽上人が念仏道場「鹿ヶ谷草庵」を建てたのに始まる。当時、後鳥羽上皇の女官、
十九歳の松虫姫と十七歳の鈴虫姫は、両上人から念仏の教えに感銘し出家。上皇は激怒し、念仏教団に弾圧を加え二僧は斬首。
法然上人は讃岐へ、親鸞聖人は越後へ流刑に。その後、両姫は瀬戸内海の小島で生涯を終えました。両上人亡き後「鹿ヶ谷草庵」
は荒廃したが、流罪地から帰京された法然上人が両上人を弔うため草庵を復興「住蓮山安楽寺」と名づけました。





▼茅葺きの名物山門です。明治二十五年 (1892年) 建立。







▼山門から境内。







▼本堂へのアプローチ。左手にお庭が広がっています。







▼大きな枝垂が満開になってきました。













▼枝垂の下は丸い刈り込み。五月から六月にかけて、さつき、つつじの花盛りだそうですよ。







▼くさの地蔵が祀られる地蔵堂。平成二十四年 (2012年) 再建。







▼縁塚。共同墓地らしいのですが詳細不明、聞き漏らしました。







▼手水舎です。






            ▼仏足石。彫りっぱなしではなくちゃんと色付きです。






▼本堂の屋根を添えて枝垂の一枚。







▼本堂参道。左右にはお庭が広がってます。







▼本堂です。三間四方の宝形造、本瓦葺。一間向拝付。二層に見えますが下屋根は裳階。







▼本堂前面に何か設えが……、







▼今日は花祭り、お釈迦さんの誕生日です。ボクも甘茶をかけさせてもらいました。







▼本堂内陣。







▼本尊阿弥陀三尊。中尊阿弥陀如来坐像、右に観音菩薩立像、左に勢至菩薩立像。
 観音勢至の両菩薩は佇立せず、やや前屈みでまさに一歩を踏み出す体勢をおとりです。






            ▼中尊阿弥陀さん、雲相華の舟形に二重円光背を背負い蓮華座に趺坐する豪華な像形です。






▼半眼瞑想のお顔なんですが、どこから見ても目が合うのが不思議です。






            ▼龍樹菩薩立像。龍樹さんがなぜここにおられるのか不明ですが、
             現代仏師の作でしょう、出来立てホヤホヤと云ったら龍樹さんに失礼かな、
             とにかくきれいな龍樹さんです。






▼左脇殿に法然上人坐像。法然上人の書簡などで作られた上人七十四歳の姿「法然上人張子像」です。







▼さらに右脇殿に住蓮、安楽両上人、松虫、鈴虫両姫の座像が祀られています。







▼流麗な本堂屋根。







▼本堂と書院を繋ぐ渡り廊下。







▼中庭を挟んで書院。







▼中庭の苔むす蹲踞。







▼書院のお部屋から額縁庭園を。







▼さつき、つつじの丸い刈り込み、期待出来そうですネ。







▼額縁庭園におネーサンがひとり。







▼さつき、つつじを愛してやまない方、訪ねない訳にはイカンでしょう。    













▼お留守でした。







▼境内南端に開基の右住蓮上人と左安楽上人の供養塔が並んでいます。







▼両上人供養塔の東の高台に松虫姫、鈴虫姫の供養塔が仲良く並んでいます。







▼ご朱印です。






暗~いお話が伝わるお寺も、今はそんな感じは受けません。一本枝垂が今盛り、無彩のお庭にピンクの枝が揺れながら春盛りを主
張しているようです。ところで今日はお釈迦さんの誕生日、花祭り灌仏会ですネ。初めて甘茶なるものを釈迦さんにかけました。
甘茶と花祭り何か謂れがありそうで、一度検索してみようかな。

甘茶を飲み損なった、安楽寺オ シ マ イ





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