土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

廬山寺、紫式部はここで源氏物語を執筆したと伝わります。

2014年03月31日 | 京都の古寺巡り


(2014.03.29訪問)

今週も有名女人のゆかりのお寺を訪ねました。平安時代の文豪紫式部、彼女が生まれ、育ち、母として生涯
を過ごし、並ぶものなき源氏物語はこの地で執筆されたと伝わります。一人娘の賢子も母に匹敵するほどの
歌人で後冷泉天皇の乳母として従三位典侍に昇進した才媛だったそうで、母娘が過ごした邸宅後が、この廬
山寺の地であったそうです。式部ゆかりの朝顔、今の桔梗を主役にした枯山水庭園、源氏庭に桔梗咲き誇る
シーズンは人々で溢れかえるそうです。今は想像するしかありませんが…。


▼源氏庭。




[ 廬山寺 ]
●山号 日本廬山 (にっぽんろざん)
●寺号 廬山寺 (ろざんじ)正称 廬山天台講寺 (ろざんてんだいこうじ)
●開基 伝 慈恵大師良源 (じえだいしりょうげん)
●開創 伝 天慶年中 (938~947年)
●中興 覚瑜上人 (かくゆしょうにん)寛元元年 (1243年)
●宗派 天台圓浄宗大本山
●本尊 阿弥陀三尊
▲京都市上京区寺町通広小路上ル1丁目北ノ辺町397 TEL.075-231-0355
▲拝観料 500円 御朱印300円
▲拝観時間 9:00~16:00  
▲HP http://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/
▲地下鉄烏丸線丸太町駅から徒歩約20分 市バス京都駅から4.17.205→府立医大病院前下車徒歩約5分
 京阪電車 出町柳駅から徒歩約15分 神宮丸太町駅から徒歩約20分


▼山門。




廬山寺縁起 (廬山寺HPから抄出)
比叡山十八世座主慈恵大師良源によって天慶年中に船岡山南に創建されました。寛元元年法然上人の弟子覚
瑜上人が、船岡山南麓に再興、中国廬山にならって廬山天台講寺と号した。応仁の乱で焼失後元亀三年、織
田信長の叡山焼き討ちは正親町天皇女房奉書により免れたが豊臣秀吉の寺町建設により天正年間に現在地、
紫式部邸宅跡地に移る。


▼木札と元三大師石標。




▼山門から大師堂。




▼大師堂。第十八世天台座主、元三大師良源 (慈恵大師) さんをお祀りしています。比叡山中興の祖と云われ
 ている方でお神籤考案者としても有名ですネ。




▼大師堂正面。




▼手水舎。この手水舎をよく見ると、基石からして水平でなくボコボコ、手水鉢、井戸も水辺垂直部分があ
 りません。柱もこころなしか、傾いて見えます。写真のヘタさだけではないようにも思えるんですが。




▼手水鉢と井戸。唯一水平は手水鉢の水面だけです。




▼ミツマタ。境内の片隅にひっそりと賑やかに咲いています。




▼鐘楼。




▼ミツマタの花ってこんなんなんですネ。




▼境内。左大師堂から庫裡、玄関、本堂まで棟続きになってます。




▼宝篋印塔。相当立派な石塔ですが細不詳です。




▼紫式部と娘の大貳三位藤原賢子の歌碑。
左紫式部の歌 
         めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに 
                        くもがくれにし 夜半の月影

右大貳三位の歌 
         有馬山 ゐなのささはら 風吹けば 
                        いでそよ人を 忘れやはする





▼本堂への玄関。




▼本堂。光格天皇の勅命で仙洞御所の一部を移築し、改装したものと伝えるそうです。




▼本堂仏殿。本尊 阿弥陀三尊。近寄れませんのでお顔を見ることは出来ません。




▼源氏庭。本堂前庭枯山水庭園「源氏庭」。源氏雲形の苔と白砂による枯山水。初夏から秋の桔梗の島植え
 は大人気らしいですネ。紫揺れる苔島を想像してみてください。




▼源氏庭。作庭は昭和四十年(1965年)




▼源氏庭。




▼源氏庭。左の建物は御黒戸尊牌殿。光格天皇と皇后の尊碑が安置されています。本堂と同様仙洞御所の一
 部を移築し、改装したものと伝えるそうです。




▼源氏庭。庭に植えれている唯一の桜。




▼源氏庭に紫式部顕彰碑。



紫式部は、平安京東郊の中河の地、現在の廬山寺の境内に住んでおりました。この邸宅で育ち、結婚生活を
送り、一人娘の賢子を産み、長元四年(1031年)五十九歳で死去したといわれております。
紫式部は藤原香子と呼び、「源氏物語」「紫式部日記」「紫式部集」などは、ほとんどこの地で執筆された
ものであります。この遺跡は考古学者角田文衛博士によって考証されたものであります。そして昭和四十年
十一月、境内に紫式部邸宅跡を記念する顕彰碑が建てられました。顕彰碑揮毫は新村出博士。
(廬山寺HPから抄出)


▼椿。




▼薬医門。




▼ご朱印です。




紫式部邸の名残りは今や探しようがありません。ただ歌碑と顕彰碑がそれを伝えるだけ。平安才媛が残した
雅な貴族社会の一端をその破天荒物語から偲ぶしか手はないようです。この地は御所のすぐ東側、意味深な
場所で式部は執筆したことだけは確かなようですネ。

御苑の近衛邸跡の枝垂が凄いことになってるそうなのでチョット見に行ってきます。





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長楽寺で建礼門院徳子さんに会いました。

2014年03月27日 | 京都の古寺巡り


(2014.03.22訪問)

寧々さんゆかりの圓徳院から、平家滅亡のヒロイン建礼門院徳子さんゆかりのお寺、長楽寺へ向かいます。
ねねのみちの雑踏は円山公園を東、山手に向かうとスグ静かな参道に変わります。その前に久しぶりに長楽
館でコーシーをいただくことに。その昔、モデルロケ (モチロン撮影はプロカメラマンですヨ) でよく利用
させてもらいました。チットも変わらないクラシックインテリア、一世紀以上経つ元迎賓館、ああ懐かしや、
さてコーシータイムはこれまで、長楽寺に向かいましょう。

▼本堂。




[ 長楽寺 ]
●山号 黄台山 (こうだいさん)
●寺号 長楽寺 (ちょうらくじ)
●開基 伝教大師最澄 (でんきょうだいしさいちょう)
●開創 延暦二十四年 (805年)
●中興 国阿上人 (こくあしょうにん)
●宗派 時宗
●本尊 准胝観世音菩薩立像
▲京都市東山区八坂鳥居前東入円山町626 TEL.075-561-0589
▲拝観料 500円 御朱印300円
▲拝観時間 9:00~17:00 休館日/木曜日(特別拝観中は除く) 
▲HP http://www.age.ne.jp/x/chouraku/ 
▲JR京都駅から市バス206(北大路バスターミナル行)→祇園下車東へ徒歩10分
 京阪電車 祇園四条駅から八坂神社を目標に円山公園を抜けて徒歩約20分


▼参道。
円山公園長楽館前の山へ向かう道、大谷廟の参道に並行して長楽寺への道があります。




長楽寺縁起 (長楽寺 HPから抄出)
延暦二十四年、桓武天皇の勅命により、伝教大師を開基として大師御親作の観世音菩薩を本尊として創建さ
れた。当初は天台宗比叡山延暦寺の別院として建てられましたが、その後室町時代一代の名僧国阿上人に譲
られ時宗(宗祖一遍上人)に改まり、明治三十九年に時宗の総本山格であった名刹七条道場金光寺が当寺に
合併され今日に至ります。


▼山門が見えました。




▼境内イラストマップ。




▼山門。




▼境内参道。左は庫裡です。




▼参道右に双龍舞閣。左には後で寄ります相阿弥庭園があります。




▼本堂。桁行三間、梁間三間、入母屋造、本瓦葺、裳階付き。
 延暦年間建立 (728~806年)、昌泰年中 (898年) 修復、正保年中(1644)再建。明治十八年廃壊撤却し、
 明治二十三年西賀茂正伝寺の法堂(元桃山城御成門中に在りしを正伝寺に移したもの)を当寺に譲り受け
 今日に至ります。 (長楽寺 HPから抄出)




▼本堂内陣。床は瓦敷の禅宗様。今日は入堂出来ませんでした。




▼本堂内陣。本尊 准胝観世音菩薩立像 (秘仏) 最澄さん作と伝えられ、双龍に跨がった珍しい像らしいです。


 
本尊安置のお厨子はお江さんの娘、東福門院和子さん寄進だそうです。
お前立ち像は阿弥陀さんと思われますが果たして? 菩薩のお前立ちで如来?


▼鐘楼。




▼境内。奥に見えるのは平安の瀧。




▼建礼門院御塔、十三重石塔です。




▼御塔の駒札。




▼平安の瀧。




▼平安の瀧駒札。




▼寂しい参道石段に寂しい落ち椿。




▼頼山陽墓。外に水戸藩主や水戸藩烈士の墓が並んでいます。




▼境内高台から京都市街が一望。




▼客殿玄関。ここから相阿弥のお庭を巡ります。




▼庭園。




▼庭園。




▼庭園駒札。




▼客殿から庭園の眺め。




▼木造建礼門院像。
 建礼門院御影像を模写して彫刻したもの。故大仏師松久朋琳さん作。

 
 
悲しい運命に翻弄された建礼門院徳子さん,天皇中宮として、入水して果てた幼い時の天皇の母として世の
無常をどんな精神状態で受け止めていたのでしょう。  
           ~祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり~ 
嗚呼哀しいかな平氏女人の生涯。

▼御朱印。




今日の感激その1.
仏師朋琳さんの建礼門院像を見れたこと。とにかくベッピン! 高貴な美人 ! 近寄り難き落飾美人!
まるで朋琳さんは建礼門院に会ったことがあるみたい、と思ってしまいそう。

今日の感激その2.
長楽館で少々高いがコーシータイムが持てたこと。

女人主役のお寺巡り オ シ マ イ



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圓徳院。ここは北政所寧々さん終焉の地。

2014年03月25日 | 京都の古寺巡り


(2014.03.22訪問)

ねねのみちをそぞろ歩く人の多さは相変わらずで、高台寺への石段にも多くの人が上ってゆきます。かの黒
田官兵衛もねねさんには相当厄介になったんでしょうし、豊臣恩顧の武将達もねねさんを慕い、ある種サロ
ン的雰囲気が漂い、タヌキですら一目置いたと云いますネ。そんな女性の魅力と人心掌握の術、高度な政治
力を身につけた当時としては傑出した女性、太閤はんの奥方ねねさん。大坂夏の陣で炎上する大阪城を高台
寺の茶室から見ていたというねねさん。僅か二代で滅んだ豊臣の滅びの美学をどのように受け止めていたの
でしょうか。
ねねのみちを挟んで前に圓徳院はあります。ねねさんはここに十九年住んだそうです。


▼ねねのみち




[ 圓徳院 ]
●寺号 圓徳院 (えんとくいん)
●開基 三江紹益禅師 (さんごうじょうえき)
●開創 慶長十年 (1605年)
●宗派 臨済宗建仁寺派 高台寺塔頭
●本尊 阿弥陀如来 (重文)
▲京都市東山区高台寺下河原町530 TEL.075-525-0101
▲拝観料 500円 御朱印300円
▲拝観時間 10:00~17:00 
▲HP http://www.kodaiji.com/entoku-in/idx.shtml 
▲JR京都駅・近鉄京都駅から市バス206(東山廻り)→東山安井停下車東へ徒歩5分
 阪急 河原町駅・京阪 祇園四条駅から市バス207→東山安井停下車東へ徒歩5分


▼ねねさん像。(写真はウイキから)
 北政所ねね、出家後高台院 (1549~1624年)ねねさんに関する賛否評論は色々有るそうです。




圓徳院縁起 (圓徳院HPから抄出)
豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に高台寺建立を発願し、慶長十
年、伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住みました。それ以来、多くの文化人が、北政所を
慕って訪れたと伝えられています。ねね五十八歳の時のことです。これが圓徳院の起こりです。ねねは七十
七歳で没するまで十九年間この地で余生を送り、終焉の地となりました。そのねねを支えていたのが、兄の
木下家定とその次男の利房です。圓徳院は利房の手により、高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺と
して開かれ、高台寺の塔頭とされました。寛永九年、ねね没後九年目のことです。


▼正門。もともと木下家屋敷なので正門は長屋門。武家屋敷の形態がとられています。




▼北政所ねねさんの舊跡石標。




▼唐門。




▼唐門扁額。




▼方丈。(写真はウイキから)




▼方丈前にシンプルな枯山水の南庭。




▼馬酔木が満開になってきました。




▼南庭。




▼渡り廊下。




▼宗旦狐の置物。
 江戸期に御所周辺に出没した古狸。茶宗匠や僧侶に化けて悪さをしまくったそうです。圓徳院との関係は
 よく判りません。

 


▼方丈裏の坪庭の蹲。




▼少し小粒ですが沈丁花も咲き出してます。




▼北書院からの北庭。
 伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的庭園。




▼北庭。全体に巨岩を多数配置した珍しい庭園としても知られるそうです。




▼北庭の三尊石。




▼檜垣の手水鉢。宝塔の笠を利用し、笠石を横にして、その面を凹字形に切り取り手水鉢とした珍しいもの
 です。




▼北庭。




▼北庭。




▼北書院歌仙の間。




▼北書院からの北庭。




▼椿。




▼三面大黒天堂。御堂は京都御苑から移築したもの。
 三面大黒天は太閤はんが念持仏としたといわれ、大黒天、毘沙門天、弁財天の三つの顔を持った珍しい尊
 像。いわば秀吉出世守本尊と伝わるそうです。




▼手水舎。




▼歌仙堂。
 ねねさんの甥木下勝俊は出家して長嘯子と号し、多くの和歌を残し「歌仙」と称され結んだ庵は、歌仙堂
 と呼ばれ、歌人の聖地として親しまれているそうです。

      


▼歌仙堂。




▼ねねの小径って知ってます? 




▼ねねの小径。圓徳院の境内を横切って小径があります。




▼方丈から見たねねの小径。




▼御朱印です。三面大黒天堂で相当お歳を召した方が書いてくれました。




ねねさんの生き方には賛否があるようですが、豊臣秀吉、北政所ねね、この二人の夫婦を越えたコンビネー
ションは今の時代、賞賛アレこそ非難めいたことはあまり聞きません。しかし史実としてはどうなのか、興
味シンシンです。



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佛光寺は、浄土真宗京都四本山の一つです。

2014年03月19日 | 京都の古寺巡り


(2014.03.15訪問)

壬生寺から仏光寺通りを東へ、歩き、歩き、めげずに歩き、です。今日はもう15,000歩、越えてま~す。
真宗十派の一つ、浄土真宗佛光寺派本山で末寺寺院数約400ヵ寺、勢力的には五位くらいに位置する佛光寺を
目指して歩いています。全国で真宗寺院は22,000ヵ寺を越えると云い、信徒数は星の数ほど、大勢力ですね。
そんな真宗十派の内、ここ京には四派の本山があります。


▼御影堂。宗祖親鸞さんをお祀りしています。




[ 佛光寺 ]
●山号 渋谷山 (しぶたにさん)
●寺号 佛光寺 (ぶっこうじ)
●開山 伝親鸞上人 (しんらんしょうにん)
●開創 伝建暦二年 (1212年)
●中興 実質開山 了源上人 (りょうげんしょうにん)
●宗派 浄土真宗佛光寺派本山
●本尊 阿弥陀如来 (重文)

▲京都市下京区高倉通仏光寺下ル新開町397 075-341-3321
▲拝観料 境内自由 御朱印300円
▲拝観時間 9:00~16:00 
▲HP http://www.bukkoji.or.jp 
▲JR京都駅から地下鉄から烏丸線四条駅5番出口から、徒歩2分
 阪急電鉄烏丸駅15番出口から、徒歩5分

佛光寺縁起 (佛光寺HPから抄出)
越後流罪に遭われた親鸞聖人は、赦免の翌年建暦二年(1212年)に京都に帰られ、山科の地に草庵を結ば
れました。この草庵が佛光寺草創と伝えられています。当初、真宗開闢の根本道場を意味して、興隆正法寺
と号しました。親鸞聖人在世の当時、真宗の教えは関東を中心に広がりをみせていましたが、第七世了源上
人になって、教化活動の拠点を京都に置き、西日本布教活動に力を入れました。兵乱の世に人々は上人のお
徳を慕って念仏申すようになり、元応二年(1320年)寺基を山科から汁谷(現京都国立博物館あたり)に
移しました。了源上人亡き後、了明尼公が第九世の法灯を継がれることになりました。女性差別の激しい南
北朝時代に、女性が一山の門主の地位に就くということは、まさに革命的な出来事です。以後、佛光寺は性
別による差別のない開かれた教団として、多くの女性が教団護持に携わってきました。


▼御影堂門。切妻造、四脚門、本瓦葺。扉や脇、腰の各部分は彫刻で装飾しています。




▼寺標。




▼手水舎。




▼境内。真宗大寺院の御堂配置のセオリー通り、向かって右に御影堂、左に阿弥陀堂が並びます。両本願寺
 の規模とは比較になりませんが、前庭に立ち両堂を目の前にすると、やはり親鸞さんに対する思慕と信仰
 の念が色濃く漂っているようです。




▼鐘楼。左の門は阿弥陀堂門です。閉まってます。




▼御影堂。桁行五間、梁間七間、単層入母屋造、本瓦葺。三間向拝付。明治十七年再建。




▼御影堂内陣。須弥壇上に親鸞聖人坐像、両脇壇に中興了源上人坐像と前住上人絵像が安置されています。




▼御影堂内陣扁額。親鸞聖人の大師号「見真」と揮毫されています。




▼御影堂内陣。親鸞上人です。




▼渡り廊下。御影堂と本堂をつなぐ廊下。手前の枝垂は天皇家から植樹された枝垂れ桜で、見事らしいです。




▼本堂 (阿弥陀堂)。桁行七間、梁間七間、単層入母屋造、本瓦葺。明治三十七年再建。
 本尊 阿弥陀如来立像。像高99.5cm、寄木造。
 内陣須弥壇上に阿弥陀如来立像、両脇壇に聖徳太子像と法然上人坐像が祀られています。




▼本堂 (阿弥陀堂)。




▼境内。




▼宗務所。ここで御朱印を戴きます。




▼玄関門。書院大玄関から白書院、黒書院への門です。




▼御朱印です。




フ ロ ク
▼今日の仏光寺通午後二時ごろ。
 壬生寺から佛光寺へは、この仏光寺通りを歩きました。稀にクルマ、稀にヒトです。少し北の四条通とは
 えらい違い。この写真は、東から西へ振り返って撮ったものです。




お詫び 
前回の壬生寺コピーで、山門写真のところ「細い仏光寺通りに面していきなりの山門」とあるのは間違いで、
正しくは「仏光寺通りから坊城通りを右に入るとスグに山門」でした。
ボケがボツボツ、いやですワ。



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壬生寺、新選組ゆかりのお寺、近藤はんに会ってきました。

2014年03月17日 | 京都の古寺巡り


(2014.03.15訪問)

今日も先週に続いて京です。伏見から少々上がった四条通を歩いています。京阪祇園四条から西を目指して
トボトボとまっしぐら! 四条大宮まで歩きごたえありましたワ。どこを訪ねたかと云いますと壬生寺です。
ここはお地蔵さんと壬生狂言と新選組ゆかりのお寺として名高く、境内で、みはっさんの♪ああ新選組♪が
聞けるお寺です。


▼ご存知ですねこの方を、そうですあの新選組局長、近藤勇です。



♪ 加茂の河原に 千鳥が騒ぐ またも血の雨 涙雨 
      武士という名に 命をかけて 新選組は 今日も行く ♪


[ 壬生寺 ]
●院号 心浄光院(しんじょうこういん)
●寺号 宝幢三昧寺(ほうどうさんまいじ)通称壬生寺 (みぶでら)
●開山 快賢僧都 (かいけんそうず)
●開創 正暦二年 (991年)
●宗派 律宗大本山
●本尊 地蔵菩薩 (重文)。
▲京都市中京区坊城仏光寺北入る TEL075-841-3381
▲拝観料 境内自由 壬生塚入場料100円 歴史資料室200円 御朱印300円
▲京都駅から市バス26, 28号系統「壬生寺道」下車徒歩5分
 四条河原町、京阪三条から京都市バス3, 11号系統「壬生寺道」下車徒歩5分  
 阪急京都線「大宮」下車徒歩10分

壬生寺縁起
正暦二年 (991年) 三井寺の快賢僧都によって創建。承暦元年(1077年)白河天皇より、地蔵院の勅額を受
け現在地に移る。その後度々、被災し再建を繰り返している。昭和三十七年(1962年)本堂を全焼、本尊
地蔵菩薩像を含む多数の寺宝を焼失、本尊延命地蔵菩薩立像が、総本山唐招提寺から移されて、昭和四十五
年(1970年) に本堂の落慶法要が行われ現在に至っている。


▼細い仏光寺通りに面していきなりの山門。壬生寺の正門。寛政十一年(1799年)の再建。




▼山門前にモダ~ンな寺標 (アルミニウム製) が場違いな感じで建てられています。




▼山門から本堂へ一直線の参道。




▼境内マップ。初めて見ました航空写真のマップ。




▼山門を入った右手にある一夜天神堂。嘉永五年(1852年)再建。
 ご神体は一夜天神像。一夜天神は「一夜にして知恵を授かる」として、学業上達の御利益があらたかだそ
 うです。




▼夜泣き地蔵。病気平癒や幼児の夜泣きどめにご利益大いにあるそうです。




▼阿弥陀堂。阿弥陀三尊が祀られています。新しく再建されたモダンなお堂。創建は健保元年 (1212年)




▼弁天堂。 本尊の辧財天 (秘仏)。壬生寺の鎮守社。蓄財、子孫繁栄、金運上昇のご利益があるそうです。




▼水掛地蔵堂。慶安二年 (1649年) 作の地蔵菩薩が祀られ、水を掛けて祈ると、一つの願いが叶うそうです。




▼これがそのお地蔵さん。




▼鐘楼。嘉永三年 (1851年) 再建、梵鐘は嘉永元年 (1848年) 鋳造。




▼本堂。本尊延命地蔵菩薩立像。
 昭和三十七年(1962年)火災で全焼し、昭和四十五年(1970年) 落慶法要。




▼本堂扁額。




▼千体仏塔。
 平成元年 (1989年) に創建千年記念に建立。明治期に都市計画に際して市内各地から集められ、塔の形は
 パコダを模しているそうです。

  


▼寺務所前壷庭の蹲。




▼放生池に架かる中之島太鼓橋。この橋を渡ると中之島壬生塚、新選組関連の遺跡です。



♪ 恋も情けも 矢弾に捨てて 軍かさねる 鳥羽伏見 
      ともに白羽を 寂しくかざし新選組は 月に泣く ♪



▼龍神像。壬生の作家桶本忠弘さんから2003年に奉納。




▼壬生塚。
 壬生寺境内東方にある放生池の中之島は、壬生塚と呼ばれ、新選組隊士の墓や供養塔があります。




▼近藤勇像。
 天下の悪役俳優、故上田吉二郎さんが発起人、よほど思い入れがあったんでしょう。昭和四十六年建立。




▼近藤勇遺髪塔(右)。




▼新選組慰霊塔。




▼新選組合祀墓。近藤勇以下11名の隊士が祀られています。




▼ああ新選組歌碑。
 100円入れると、みはっさんの♪ああ新選組♪が流れます。よろしいなぁ。
 思わず、みはっさんとデュエット! 誰もいなかったもんで。



♪ 菊のかおりに 葵が枯れる 枯れて散る散る 風の中 
      変わる時勢に 背中を向けて 新選組よ 何処へ行く ♪


▼北門。




▼御朱印です。




壬生寺はやたら石仏、石像、石碑の多いお寺で、それらがすべて見事に管理されています。
このお寺の経営意欲の活発なこと相当なもんです。境内には立派な有料老人ホーム、特養老人ホームや保育
園、駐車場など経営され、お寺も異業種経営の一環かしら。

今 日 の フ ロ ク

▼新選組屯所跡の八木邸。



新選組は文久三年(1863年)三月、この壬生の地において結成された。かつては壬生寺境内は新選組の兵法調
練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行こなわれたという。 壬生寺正門北には現在も八木邸、前川邸二箇所の
新選組屯所跡が当時のままの形で残っており、それぞれ住人のご尽力により管理保存されている。寺の正門
前の坊城通りを北へ、和菓子店「京都鶴屋」の奥に八木邸がある。この八木邸において、芹沢鴨らが暗殺さ
れた。現在は内部が一般公開されている。
新選組は壬生に屯所をかまえたのは二年あまりにすぎなかった。その後も隊土は壬生寺で兵法訓練をしたり、
壬生の地をしばしば訪れている。新選組隊士を壬生浪士とも呼ぶのは、この壬生屯所での新選組の活躍が広
く知られたためであろう。ここに記した以外にも様々な説があるので、必ずしもこの限りではないことをお
断りしておく。
(壬生寺HPから抄出 壬生寺学芸員 松 浦 康 昭さん)





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