土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

十禅律院の洗心庭、見る価値アリアリと後で聞きました。

2011年07月29日 | 和歌山の古寺巡り


(2011.07.23訪問)

粉河寺山内の外れに十禅律院の参道があり、奥にユニークな山門が見えます。
「洗心庭を見ずして枯山水を語るな」とはどなたも云ってませんが、相当立派な
お庭があるらしく訪問を伝えましたが応答なし。庫裡も御殿造風の設えで紀州藩
主の御成間も残り、本堂内、護摩堂内の拝観も可能と後で聞きました。こんなお
寺がこの地に在るとは予想せずでございます。
予備知識必要でございますよ、みなさん! すべて後の祭りでございます。

▼寺標。



[ 十禅律院 ] じゅうぜんりついん
●寺号 十禅律院(じゅうぜんりついん)
●宗派 天台宗安楽律院派
●開基 石崇上人 当初は粉河寺の塔頭寺院
●開創 正暦元年(990年)
●改宗 徳川治宝(紀州藩十代藩主)
●創建 寛政十二年(1800年)
●本尊 阿弥陀三尊

十禅律院縁起
平安時代、正暦元年(990年)石崇上人により創建。粉河寺の塔頭十禅院であった。
江戸後期寛政12年(1800年)紀州藩十代藩主徳川治宝が十禅院を安楽律院に属する
天台宗の寺院に改宗、十禅律院として創建された。

▼参道。



▼龍宮造のユニークな山門。正面に本堂が見えます。



▼山門横に禁葷酒と刻された石標。



▼本堂。本尊 阿弥陀三尊。五間四面、総欅造、本瓦葺き。唐破風三間向拝付き。
そこはかとなく御殿風の香りが。



▼本堂扁額。薦福殿の文字は徳川治宝揮毫。



▼本堂須弥壇の本尊阿弥陀三尊。



▼本堂正面両サイド壁面腰の透かし彫り。



▼こんな古木も。



うわべだけの十禅律院訪問記 オ シ マ イ

粉河寺は西国三十三所観音霊場第三番札所です。

2011年07月27日 | 和歌山の古寺巡り


(2011.07.23訪問)

根来寺の大門の横を通り県道7号線へ、粉川寺は真っ直ぐ東です。
さすが西国三十三所観音霊場第三番札所の粉河寺は、暑さにめげない頑丈な方々
のお遍路装束が目立っています。このお寺も例にもれず、豊臣秀吉の紀州攻めで、
七堂伽藍、数百坊の広大な寺域が全山壊滅。江戸中期に復興、ほぼ現在の姿にな
ったと云います。それにしても堂宇伽藍の多さは並ではありません。大したもの
です。

▼寺標。



[ 粉河寺 ] こかわでら
●山号 風猛山(ふうもうざん)
●寺号 粉河寺(こかわでら)
●宗派 粉河観音宗総本山(天台宗系)
●開基 大伴孔子古(おおとものくじこ)
●開創 宝亀元年山(770年)
●本尊 千手千眼観音菩薩(秘仏)

粉河寺縁起
宝亀元年(770年)、猟師大伴孔子古が山中で霊光が発するのを見た。ここが霊地と
考え、草庵を建てた。この草庵に童男大士が訪れ、七日間堂に籠もって仏像を刻
み、これを本尊にするように孔子古に与えた。翌日、童男大士が去ると、仏像は
金の観世音菩薩になったという。孔子古は童男大士こそ観世音菩薩の化身と考え、
以後猟師をやめ供養礼拝したといわれ、これが粉河寺の創始と伝えられています。

▼大門(重文)。



▼大門の寺名扁額。



▼童男堂。
本尊 童男大士。千手観音が本地仏。



▼童男大士石像。
童男堂横の出現池の小さな祠に童男大士の石像。
本尊千手観音の化身といわれる童男大士がこの池から出現したと云われています。



▼念仏堂。
本尊 阿弥陀如来。総欅造、江戸後期の建立。



▼阿弥陀如来露座像。
鋳銅造、像高144cm、造像文久二年(1862年)。阿弥陀定印ではなく右手施無畏印、
左手与願印を結んでいます。



▼太子堂。
聖徳太子をお祀りしています。



▼手水舎。
手水水盤は粉河鋳物の名作と云われているそうです。



▼中門(重文)。堂々の三間八脚楼門。



▼中門扁額。紀州徳川十代藩主治宝のダイナミックな揮毫。



中門の前後を四天王が守護する例は珍しいのでは。ネット越にしか見れませんが、
正面二像と後面二像を比較すると明らかな差があるようで仏師グループや造像年
代差が感じられます。

▼正面左、多聞天



▼正面右、広目天



▼後面左、増長天



▼後面右、時国天



▼中門から本堂エリアへの参道。



▼中門横に若山牧水の歌碑。
粉河寺 遍路の衆の 打ち鳴らす 鉦々きこゆ 秋の樹の間に



▼本堂中央石段両脇に石組みの庭園。本堂前景として作庭された国指定名勝。初
めて見たとき石垣が崩れているのかと思いました。



▼本堂(重文)。
本尊 千手千眼観音菩薩(秘仏)
実に堂々の堂宇、西国三十三所観音霊場札所の中で最大を誇り非常に複雑な構造
をしています。



▼本堂正面外廊。



▼なんと賑やかな奉納額の数々と天井の千社札。



▼本堂側面から見ると複雑な建築がよく判ります。
高さの違う入母屋屋根を前後に千鳥破風を付け、唐破風造の向拝を付ける構成。
礼堂 入母屋造単層、本瓦葺き。正面9間、側面4間、前半2間分を吹き放しになっ
ている。
正堂 入母屋造重層、本瓦葺き。正面7間、側面6間、前方2間分は礼堂に組み込ま
れている。



▼千手堂(重文)。
本尊 千手観音菩薩。
宝形造、本瓦葺き。本堂横に建つ小さなお堂。正面に一間の向拝付き。
宝暦十年(1760年)建立。



▼丈六堂。
像高一丈六尺(丈六)の本尊を祀っています。



▼丈六堂本尊阿弥陀如来坐像。



▼六角堂。



▼鐘楼。一撞き50円、安いか高いかあなた次第。



▼踞木地(きょぼくち)大楠。
幹周8m、樹高31m、樹齢不明。
当時猟師であった大伴孔子古が踞り、下を通る鹿を狙った故事があります。左側
に踞木地の石碑が建っているの見えます?



▼薬師堂。
本尊 薬師如来。



▼地蔵菩薩石像。
像高210cm、砂岩に彫られています。永禄七年(1564年)造像。



▼行者堂への参道。



▼行者堂。役行者をお祀りしています。このお寺の一番の高台に在ります。



▼本殿後ろの高台に鎮まっている粉河寺の鎮守社。



▼産土神社拝殿。



▼産土神社本殿。



粉河寺の本尊千手千眼観音菩薩は絶対秘仏。本堂下に埋められているらしく誰も
見たことがなく、秘仏に代わる御前立像も秘仏で寺僧しか拝めないそうです。巡
礼の方々は何を依りどころにお参りされているのでしょう。ボクのあさはかな疑
問です。

根来寺は紀州の大寺。強力な僧兵がいたそうですよ。

2011年07月25日 | 和歌山の古寺巡り


(2011.07.23訪問)

人がいない夏のアツーイ時こそお寺拝観のチャンス!とばかりに和歌山の大寺を
訪ねました。ほんまガラガラ、僅かに観光バスが一台、若い添乗のお兄さんが汗
タラタラで昔の娘さんと今のジィジィ(ジジィと云ってません)十数人の団体を
ダラダラ引き連れて大塔エリアから出てきました。入れ替わり入ったのは云うま
でもありません。あの広いエリアにもう一人ラッキーな方がいました。
お堂内出入りフリー、太っ腹ですわ根来寺は。といってもこのお寺は悲しい過去
の出来事があるのです。

▼大門の山号偏額。院号ではなくて根来山と揮毫されています。



▼寺標。



[ 根来寺 ] ねごろじ
●山号 一乗山(いちじょうさん)
●院号 大伝法院(だいでんぽういん)
●寺号 根来寺(ねごろじ)
●宗派 新義真言宗総本山
●開山 興教大師覚鑁(かくばん)上人
●開創 1130年
●本尊 大日如来坐像

根来寺縁起
覚鑁上人は20歳で高野山に登り、真言密教の復興に努力。伝法院密厳院を高野山
上に建立。、覚鑁上人を筆頭とする大伝法院は大いに隆盛。しかし覚鑁一門の寺
院が高野山内の反対勢力により焼き討ち、保延六年(1140年)根来に移る。伝法院
荘園の豊福寺に拠点を移し、新たに円明寺を建て豊福寺、円明寺を中心として寺
院が建てられ、一山総称としての根来寺が形成されました。
戦国時代、強大な寺社勢力を危惧した豊臣秀吉は天正13年(1585年)根来に攻め入
り、大塔、大師堂などの2~3の堂塔を残して全山焼き払い壊滅。その後紀州徳川
家の庇護を受け、主要な伽藍が復興、今の根来寺があります。
(根来寺HPから抜粋)

▼大門。
高さ16.88m、幅17.63m、奥行6m。現在の大門は1850年再建。
左右に阿吽金剛力士が控える堂々の山門です。豊臣秀吉の根来攻めの兵火を免れ
ましたが、大和郡山に運ばれ、その後は明らかではないそうです。
往時の境内はよほど広かったのでしょう、主要伽藍のあるところからはかなり離
れたところにポツンと建っています。



▼大門金剛力士阿形像。



▼大門金剛力士吽形像。



▼大師堂(重文)。
本尊 弘法大師空海上人像。1391年建立。



▼大塔(国宝)。
多宝塔は大日如来のシンボル。木造多宝塔では日本一の大きさを誇っている。
1496年建立。高さ40m、横幅15m。

 

▼大塔須弥壇の仏像。



▼大塔内部。円形に区切られた内陣壁、わかります?



▼大塔。



▼手水鉢。



▼大伝法堂。1827年建立。根来寺の本堂。



▼本尊三尊(重文)。大日如来坐像、金剛薩埵菩薩坐像、尊勝仏頂尊坐像は宗祖覚鑁
上人開山以来の新義真言宗の根本尊像。

 

▼大伝法堂本尊 大日如来坐像。



▼大伝法堂本尊 金剛薩陲菩薩坐像。



▼大伝法堂本尊 尊勝仏頂尊坐像。



▼大伝法堂天井画。



▼大伝法堂。



▼奥の院覚鑁上人廟参道。





▼奥の院覚鑁上人廟。
根来寺開山興教大師覚鑁上人の御廟所。康治二年(1143年)寂。



▼光明殿参道。



▼光明殿参道鐘楼門。



▼光明殿。正式名称常光明真言殿。



▼光明真言殿須弥壇。
本尊 興教大師覚鑁上人像。



▼本坊庭園(国指定名勝)。



▼行者堂。
本尊 役行者。真言密教修法のための行堂。



▼行者堂本尊役行者。



▼聖天堂。
聖天池に浮かぶお堂。聖天像を安置。根来塗の修法壇が伝わるそうです。



▼聖天池。





▼九社明神。



▼九社明神。根来寺の鎮守社。
丹生大明神、高野大明神、伊太祁曽大明神、御船三所大明神、金折六所大明神、
金峯山金剛蔵王、熊野三所権現、白山妙理権現、牛頭天王八王子を祀っています。
これだけの神様、もめることは無いのでしょうか。



▼九社明神参道。
社の榊替えと掃除をされていた僧侶が戻ってゆかれました。後ろ姿が清々しいと
思いません?



▼根来塗発祥地碑。
根来寺で僧侶が什器として使用するため作ってしていた漆器。江戸時代には根来、
根来ものとして珍重されたそうです。



▼蓮池の蓮。合掌。



根来寺は、戦国時代の僧兵大将杉乃坊こと、津田監物の住坊も残り、強力な僧兵
を持ち、一種の城郭構えであったと云います。周囲を山に囲まれたこの地に立っ
てみると秀吉も相当苦労したのではないかと想像してしまいます。

根来寺オ シ マ イ ! 
それではお隣紀の川市の大寺、粉河寺へ レ ッ ツ ゴ ー !

慈光寺は、役行者や前鬼、後鬼のお話が残る名刹!

2011年07月20日 | 大阪の古寺巡り


(2011.07.16 訪問)

圓福寺から国道168号に戻り、国道308号に向かいます。いよいよ初めて走る暗
峠越えの道です。途中石仏寺を訪ねる予定でしたが駐車スペース見つけれずパス。
道は噂に違わず狭くて、急で、グニャグニャ。向こうからクルマが来るとどうし
ようもない所だらけ。にも拘らず暗峠着。対向車には結局会いませんでした。写
真でよくお目にかかる石畳の道、炎天下静かなものです。

▼峠名を刻した碑。
暗峠標高455m、暗越奈良街道は、大阪と奈良間を最短距離でつなぐ街道。奈良時
代以前から利用されてきた古道のひとつだそうです。



▼奈良側から見た峠。



▼大阪側から見た峠。



▼国道308号、旧奈良街道暗越えの今。



暗峠から大阪方面に少し下ると、右慈光寺のサインがあり山道を行くこと10分、
生駒山中の名刹に着きました。閑かです、人の姿も見えません。

[ 慈光寺 ] じこうじ
●山号 髪切山(こぎりさん)
●寺号 慈光寺(じこうじ)
●宗派 真言毘盧遮那宗
●開基 役行者
●開創 天智天皇治世(660~670年)
●本尊 大日如来坐像

慈光寺縁起
創建は、約1300年前役行者の開基と伝えます。役行者がこの地で修行中、この山
中に鬼夫婦が住み、暴れ放題だったので、役行者は彼らを不動明王の秘法で捕ら
え、諭しその髪を切り弟子とし、慈光寺建立の使役とされた。行者は慈光寺建立
の後も彼等を、義学(前鬼)、義賢(後鬼)名づけて同道を許した。その由緒で髪切
山と号し、修験道の道場とした。(慈光寺パンフより抜粋)
弘仁年間(810~824)空海さんが当寺に巡錫し、興廃した堂宇を修築、真言宗に
改めた。その後再三の兵火を被り伽藍は消滅。江戸初期亮海が再興。昭和22年
(1947年)真言毘盧遮那宗に改宗。

▼参道からの山門と鐘楼。



▼山門。



▼寺名石標。



▼山門札には役行者旧跡髪切山慈光寺と彫られています。



▼鐘楼。
梵鐘は鎌倉時代正応二年(1289年)鋳造。東大阪市では最も古い梵鐘とのことです。



▼山門からスグ右手、参道石段。上った平地が中心境内になっています。



▼開山堂。
本尊 千手観音菩薩像。
正面三間、宝形造り向拝付き小振りなお堂です。役行者三十六歳像をお祀りして
いるそうで、春の(戸開式)と秋の(戸閉式)に開山堂が開けられ、本尊が開帳され
るそうです。この日、正面扉は施錠されていましたが、側面扉が開けられており
半身のり出して中を窺いましたが結局暗さに負けました。



▼開山堂偏額。



▼開山堂右軒に役行者の菩薩号、南無神変大菩薩の偏額。



▼中心境内。右開山堂、奥本堂。



▼護摩壇と不動明王石像。



▼本堂。
本尊 大日如来坐像。



▼十三板石仏。



▼野鳥塚。
この辺りは古くからホトトギスの名所として知られているそうですが、この日は
聞くことはありませんでした。境内は府の名勝に指定されています。



▼影。



役行者や空海さんの伝承が今も生きているこの生駒山中に法灯を守る名刹。けっ
して広くはなく、残る堂宇も数少ないですが、密教や修験道の香りプンプンの魅
力的なお寺です。
しかし名勝の地のホトトギスの声聞きたかったですワ。鳥も暑いのでしょうネ。
堂々の暗越え オ シ マ イ !

生駒山東麓、圓福寺は重文宝筺印塔が目立つお寺です。

2011年07月19日 | 奈良の古寺巡り


(2011.07.16 訪問)

竹林寺から西へ五分少々、山麓中腹の高台に圓福寺は在ります。参道石段と寺標
は立派に修復され綺麗なお寺です。残念ながら境内は狭く、本堂のみがお寺の景
観を保っています。

[ 圓福寺 ] えんぷくじ
●山号 龍華山(りゅうかさん)
●寺号 圓福寺(えんぷくじ)
●宗派 真言律宗
●開基 行基
●開創 奈良時代中期
●本尊 阿弥陀如来坐像

圓福寺縁起
行基さん開創と伝えられていますが、創建以来の寺歴は明らかではなく詳細は不
詳。江戸中期に書かれた村史には、真言宗上醍醐報恩院末寺と記載されており、
真言寺院だったようです。

▼寺標。



▼参道石段。



▼本堂(重文)。
本尊 木造十一面観音立像 平安後期造像。
堂形桁行三間、梁間三間、単層入母屋造、向拝一間。本瓦葺和様建築。室町初期
の建立。簡素で小さなお堂です。



▼宝篋印塔(重文)。
塔高2.4mの二基が西向きに並んで建っています。北塔は塔身に種子梵字を刻み、
南塔は塔身に四仏が刻されています。永仁元年(1293年)建立銘があります。
建立時からこの位置にあるそうです。



一見旧村の檀那寺のような感じを受けましたが、留守番のおばさんに聞きますと
檀家、お墓は無いそうで、小さいけれども古刹の風格は残しているような感じの
お寺です。



それでは生駒山中の名刹、慈光寺へ向かいます。暗峠越えの難路に初めて挑戦!
難路といってもたんに狭くて、急で、グニャグニャなだけの道なんですが。