土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

妙蓮寺は法華宗京開教第一声のお寺です。

2013年07月30日 | 京都の古寺巡り


(2013.07.27訪問)

今日の京は多少のお湿りと日差しを遮る雲に恵まれて、絶好のお寺巡り日和でした。
たまたま、朝日新聞の週間百科「仏教を歩く日親と日蓮信仰」を見ていて京には日蓮聖人門下寺院「京都十
六本山」日蓮宗と法華宗各派各八ヵ寺が在所していることを知り、それではと云うことで十六羅漢石庭の妙
蓮寺を訪ねました。「十六本山」とは知らないまま既に五ヵ寺は訪ねていましたが、二ヵ寺を除いて十四本
山は全て市中街中、便利なところに在ります。
宗祖日蓮さんのキャラクターは法難著しく、時の為政者からは弾圧弾劾を受け、連なる弟子筋も同様艱難辛
苦を乗り越えて法華経を京に根付かせて行ったと云います。妙蓮寺祖日像上人は永仁二年(1294年)御所近く
に立って、「南無妙法蓮華経」を唱和、これが京都開教の第一声であったと云われているそうです。日像上
人は日蓮さんの孫弟子です。


▼表書院前庭の十六羅漢石庭。




[ 妙蓮寺]
●山号 卯木山
●寺号 妙蓮寺(みょうれんじ)
●宗派 本門法華宗大本山
●創建 永仁二年(1294年)
●開山 日像上人(にちぞうしょうにん)
●本尊 十界曼荼羅
▲京都市上京区寺ノ内通大宮東入 電話 075-451-3527
▲http://www.eonet.ne.jp/~myorenji/index.html
▲拝観料 境内自由 書院 石庭拝観500円 御朱印300円。
▲JR京都駅より市バス9系統、三条京阪12系統 堀川寺ノ内下車西へ5分
 
妙蓮寺縁起 (妙蓮寺HPから抄出)
本門法華宗の大本山で卯木山と号し、日像上人を開基とする。永仁二年(1294)に、柳屋仲興入道妙蓮法尼が、
日像上人に帰依して、西洞院五条の邸を寺に改め、柳寺と称したのがこの寺のはじめで、永亨年間(1429~
1440年)に、日存、日道、日隆、日慶らが、大宮通四条下るに伽藍を移築造営し妙蓮寺と改めた。その後た
びたび寺地をかえ、天正十五年(1587年)豊臣秀吉の聚楽第造営のとき今の地に移った。現在の建物は、天明
の大火(1788年)後の再建である。


▼寺之内通に面する参道と山門。




▼寺標。




▼山門。四脚門、本瓦葺、両袖番所付き山門。文政元年(1818年)御所より拝領建立。




▼鐘楼。袴腰付重層鐘楼、本瓦葺。元和三年(1617年)建立。姿形のベリーグーな鐘楼です。




▼咲き始めた芙蓉。芙蓉のお寺とも云われているそうですが、まだ数輪これからでしょう。




▼手水舎。




▼日像上人像。




▼本堂。



本堂修理工事が昨年完了し、檜の生成り目にも鮮やかに蘇りました。修理工事は日本最古の企業金剛組。
聖徳太子が四天王寺建立の時、設立された世界一古い企業なのです。


▼本堂。




▼芙蓉。




▼庫裡。




▼妙蓮寺椿の大木。説明板の文字があまりにもお上手なので、写真にプラスしました。




▼表書院大玄関。




▼表書院大広間。




▼表書院から十六羅漢石庭。桂離宮造園の僧、玉淵坊日首の作庭。



十六羅漢石庭ということで、お釈迦さんの臥牛石以外の石を数えてみたが何回数えても15石しかない。なん
で、単に見えないだけ? 帰りにお寺の昔お嬢さんに聞くと「15石で正解です。見ているあなたが16番目の
羅漢なんです」そう云えば六月に訪ねた本法寺つなしの庭(十の庭)も見る人の意思(石)が10個目の石だった。
宗派限らず石庭の作者はなにがしかの超教訓にシャレを含めたロジックをうまく考えるものですね。感心し
ました。


▼一瞬の日差しが石庭の表情を変えました。




▼十六羅漢石庭。




▼奥書院から見た十六羅漢石庭。




▼写真中央の横長の石は、太閤はん寄進の臥牛石。伏見城にあったもので、涅槃時のお釈迦さんを表現して
るそうです。そういえばなんとなくそんな感じがしませんか。




▼奥書院前の中庭。水の流れはないのですが、右の黒石が流れを表しているようで、小さな石橋がポイント。
桔梗が可憐な姿を見せていました。




▼中庭の蹲。




▼御朱印です。通常日蓮宗系寺院朱印は七字名号が多いのですがここは「妙法」。




▼今日の出町出会い。午後三時半頃です。




京のお寺は宗派たがわず石庭や池泉庭園など立派なお庭を持っているところが多いですが、このお寺もご多
分にもれず素晴らしい石庭があります。十六羅漢石庭は隠された仏の世界を石と白砂によって表現、人々の
感性を試すような石庭独特の理を見る人に訴えているそんな気がします。Goodな石庭でした。


↓ ポチッと押していただければたいへん嬉しいのですが。

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白毫寺にも桔梗が咲いてました。

2013年07月24日 | 花巡り


(2013.07.19訪問)

友人N君が「白毫寺へ行け」と云うので「なんでや」「桔梗がなかなかのもんや」
と云うわけで白毫寺桔梗詣でに、知りませんでした白毫寺に桔梗が咲いているとは。






















































京桔梗寺の白砂に数株づつ点景的植え方、
元興寺の石仏の間を埋める植え方、
この白毫寺のようにまとまりのボリュームを見せる植え方、
色々あるもののそれぞれ桔梗の美は変わりませんネ。
どんな見栄えでも自然の神秘は、その花の主張をボクたちに見せてくれます。


實相院門跡の床みどりもいいんですが、革新的石庭も一興です。

2013年07月22日 | 京都の古寺巡り


(2013.07.20訪問)

今の時季、黒光りする床板にお庭の樹々が映り込む「床みどり」で著名な岩倉の實相院を訪ねました。
叡山電鉄鞍馬線岩倉駅から歩きます。岩倉の地はまったく初めて。高野川の支流と思しき小川沿いに行き
ます。きれいな清流で、夜ともなれば蛍の光なんぞが飛び交うような雰囲気。しかし暑いですなァ。

▼客殿前に新石庭「こころのお庭」初めてご覧の方も多いのでは。今年二月から造作開始されたそうです。




[ 實相院 ]
●寺号 實相院門跡(じっそういんもんぜき)
●宗派 単立寺院
●創建 寛喜元年 (1229年)
●開基 静基権僧正(じょうき)
●本尊 不動明王立像
▲京都市左京区岩倉上蔵町121 電話 075-781-5464
▲http://http://www.jissoin.com/ 
▲拝観料 500円 御朱印 300円
▲比叡山電鉄鞍馬線 岩倉下車徒歩約20分。
 京都バス21、23、24系で岩倉實相院行き終点。

實相院縁起 (實相院HPから抄出)
實相院は元天台宗の寺門派の単立寺院で、岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれています。 門跡寺院とはその
寺院の住職を天皇家の血を引く方々が務められていた、格式の高い寺院のことで、代々皇室から大きな支援
を受けて栄えていました。とくに室町時代から江戸時代にかけては、天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の
随一とされていました。門跡寺院となったのは、静基僧正が開山された寛喜元年のことで、当時北区の紫野
にありました。七百七十年以上前のことです。その後、京都御所の近くに移り、ここ岩倉に移ったのは応仁
の乱の戦火を逃れるためであったと言われています。その後、義周法親王が門跡となられたとき、京都御所
から大宮御所「承秋門院の旧宮殿」の一部が下賜されました。それらが、正面の四脚門、玄関横の御車寄、
中の建物客殿です。とても大掛かりな工事をして移築したことがうかがえます。


▼叡電岩倉駅からこのきれいな小川沿いに北へ行きます。心はすでに洗われていますが体は汗まみれ。




▼岩倉駅から約20分、やっと参道です。




▼山門です。大宮御所承秋門院の旧宮殿の一部が下賜され、この門もその一つです。その高貴さは塀の五本
線が表しています。




▼門跡木札。




▼良くわかりませんが玄関です。




▼玄関切妻と破風。




▼客殿から池泉庭園。奥は書院。




▼池泉庭園の半夏生、いよいよオシマイですね。




▼滝ノ間のかの有名な床緑。今の時季、まさにこのまんま。



撮影は禁止されていますので、實相院HPからお借りしました。なぜ撮影がダメなのか良くわからない。


▼滝の間の隣のお部屋の襖絵。狩野派画家の作らしいです。




▼池泉庭園。




▼池泉庭園。樹叢鬱蒼でナニが何やらよく判りません。




▼客殿縁のそばに石のウサギとカエル。




▼方形と円形の蹲。これも何か意味があるらしい。




▼池泉庭園。念のため、お庭にも下りることは出来ません。




▼何だと思います? (答) 厠なんですが、どんな用の足し方をしたんでしょうね。

 


▼比叡の山並みを借景とした新装の石庭。旧石庭を一新。今年の5月から一般の方を巻き込んだ新庭の造作
にかかり、今も造庭中。数々の国名勝庭園を作庭した小川治兵衛直系に当たる作庭家が全面協力。参拝者に
コケや花を植えてもらい、「こころのお庭」と名付けて改修することに。
海に見立てた石庭に、三つ大きな半円形の波を配し、日本列島を苔で表しているという。




▼波の前面の茶色はなんでしょう。(答) 波が崩れないように桧皮を貼っています。




▼桧皮が良くわかりますね。




▼玄関脇に蓮鉢が並んでいます。ボツボツ咲き出しています。




▼蓮花を撮っていると、後ろでポンッ!蕾が割れて開く音です。花は白ですが、真っ赤なウソですよ。



しかし蓮が開くとき音がするということはよく聞くんですが…。


▼御朱印です。サンスクリットの不動明王を表しているそうです。




▼フロクです。今日の出町出会い、午後2時30分ごろ。




みなさま、熱中症予防してますか、ご用心の上にもご用心を!


なぜか小野小町縁の随心院を訪ねました。

2013年07月16日 | 京都の古寺巡り


(2013.07.13訪問)

何を思ったのか、わが家で一番偉いお方が「小野小町のお寺に連れてって」なのでとりあえず京阪に乗りま
した。三条京阪から東西線で小野まで、小野の里随心院へ。小野小町といえば随心院しか思い浮かびません
ので。
しかしなんで今、小野小町なんやろ。本人の負けん気やろか、しかしそれは鏡見たらわかることやし。ひょ
っとして卒塔婆小町像(老いさらばえた小町像)を見てみたかったんでしょうか、自分と較べる為に。詳し
くは聞けませんボクには。

▼第三十四世門跡、玉島実雅僧正の随心揮毫書。




[ 随心院]
●寺号 随心院(ずいしんいん)
●宗派 真言宗善通寺派大本山
●創建 正暦二年 (991年)
●開山 仁海僧正(にんかいそうじょう)
●本尊 如意輪観世音菩薩坐像

▲京都市山科区小野御霊町35 電話 075-571-0025
▲http://www.zuishinin.or.jp/ 
▲拝観料 400円 御朱印 300円
▲地下鉄東西線小野駅下車徒歩5分。

随心院縁起 (随心院パンフから抄出)
当山は、弘法大師より八代目弟子仁海僧正の開基で、一条天皇の正歴二年(991年)この地を賜り一寺を建
立。牛皮山曼荼羅寺と称しました。仁海僧正夢中に、亡き母が牛に生まれ変わっていることを見て、飼養し
ましたが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き本尊にしたことに因んでいます。
仁海僧正は勅命により、神泉苑に請雨の法をおこない、その度に霊験があり雨僧正とも称されました。第五
世増俊阿闍梨の時に、曼荼羅寺の子房として隨心院を建立。第七世親厳大僧正が寛喜元年(1229年) 後堀
河天皇より門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称されています。

▼総門。宝暦三年 (1753年) 二条家よりの移築。




▼参道。




▼薬医門。寛永年間 (1624~1631年) 建造。




▼薬医門から中を覗くと立派な建物。




▼大玄関です。寛永年間 (1624~1631年) 建造。




▼大玄関から薬医門です。




▼表書院の外縁。




▼表書院大広間。小町に寄せられた文を下張りにして造られたという「文張り地蔵菩薩像」と「卒塔婆小町
坐像」が安置されています。




▼表書院庭園。苔庭と池と植え込みは、いつまでも眺めていたい気になります。




▼書院庭園と本堂。




▼本堂の三段外陣。




▼本堂本尊は鎌倉時代作、如意輪観世音菩薩坐像。慶長四年 (1599年) 建造。寝殿造。



内陣には本尊を中心に左右に阿弥陀如来坐像(重文)、薬師如来坐像、金剛薩捶菩薩坐像(重文)など十体
の尊像が一直線にワイドレビューです。

▼本堂前芝に穿かれた穴。何だと思います? 答えは文末に。




▼放生池。




▼表書院から奥書院への渡り廊下。




▼奥書院控えの間の賢聖障子絵。狩野派作家の描いた襖絵、障子絵が各部屋を飾っています。




▼奥書院庭園。




▼奥書院庭園。




▼庭園に経蔵。




▼中庭にのうぜんかずら。今日の花の色はこのオレンジ一色のみ。




▼庫裡前に小野小町歌碑が絵入りで建ってます。
花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に



べっぴんはそれなりに自分をべっぴんと思っているようですネ。

▼小野梅園の生け垣のツツジとさつきの刈り込み。



小野梅園の春期特別公開観梅会は毎年3月1日~31日。はねずの梅が有名ですね。

▼小町化粧の井戸。                ▼文塚。貴公子たちの千束の恋文を埋めたところ。



(写真2点は随心院HPからお借りしました)

随心院と小野小町の由緒
随心院といえば小野小町、小野小町といえば随心院といわれる小町の遺跡が残るお寺ですが、生誕の地、在
住の地、終焉の地、など伝説伝承は数多全国にあるといわれています。
その一説のエピソードに、
この付近は小野一族の郷。小野小町は現在の随心院の「小町化粧の井戸」付近に住んでいたそうです。小町
は容姿端麗、超美人で和歌の才能抜群とか。小町のもとへ深草少将「百夜通」のお話は知られたところ。そ
の伝説の舞台がここ。通いつめて九十九夜、一夜一個のカヤの実の九十九個目の実を手にしたまま最後の一
夜を前に世を去った深草少将の悲しいお話。境内には深草少将をはじめ多くの男性から小町へ寄せられた文
を埋めた「文塚」、小町が化粧で使った「化粧の井戸」、少将が亡くなったことを知った小町が庭に植えた
カヤの木一本、かつては九十九本あったと伝わります。

小野梅園の生け垣を撮ってると、一天俄に空マックロケ、大粒雨が落ちてきました。せっかくウチの奥さん
のたっての希望で小野小町を訪ねたんですが今日の京都は大変なお天気でした。この日は結局、小町の朧を
感じることはなく、縁の井戸や文塚、カヤの木は巡ること出来ませんでした。
しかし、しっかりと「卒塔婆小町坐像」は見てましたうちの奥さんは。

▼御朱印です。




(答) 本堂向拝の軒先からの雨水の穿った穴です。